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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

メディウムとしての声:「ローマ講演」第3部(その4)

Ecrits, p.299~

 

 秘密の言葉の原始的な伝統における使用においては、主体がみずからの人格あるいはみずからの神々をつぎのように同定する。それらを明かすことが、みずからを喪失したり、神々を裏切ったりすることになるのである。じぶんについての打ち明け話、あるいはじぶんじしんの記憶がおしえてくれるのは、子供はこうした用法の利点を自然に理解していることがめずらしくないということだ。

 

 けっきょく、じぶんがひきうける「われわれ」という間主観性において、ことばにじぶんのこめる価値[いみ]が言語活動においてあきらかになるのである。

 

 ぎゃくの二律背反によって、つぎのことが観察される。言語活動のやくわり[office]がニュートラルになり、情報にちかづけばちかづくほど、「冗長性」が高くなる。この 「冗長性」という観念は、長距離通話の経済的問題、そして、回線上で複数の通話を交わさせる可能性という経済的問題を動機としているので、利害にかかわっており、それだけに正確な観念である。声[phonétique]というメディウムの大部分はじっさいにもとめられている会話[通話]には余計なものであることがわかる。

 

 このことは示唆的である。というのは、情報にとって冗長なものは、まさに、ことばにおいて反響のやくわりを担うものであるであるからだ。

 

 というのは、言語活動の機能は、そこにおいては、情報をあたえることではなく、喚び出すこと[évoquer]であるから。

 

 ことばにおいてわたしがさがすのは、他人の返答である。わたしを主体として構成するのは、わたしの問いである。他人に承認されるために、わたしはそうであったものを、もっぱら、そうであろうものにむけて発する。他人?をみつけるために、わたしは、わたしに答えるために他人が引き受けたり拒んだりする名で呼ぶ。

 

 わたしは言語活動においてみずからを同定するが[m'identifier]、それはたんに言語活動においてじぶんをひとつの対象として見失うことでしかない。わたしの歴史[話]において実現されるものは、かつてそうであったものによって規定される過去ではない。なぜなら、それはもう現在ではなく、現在において完了してしまった過去でもなく、わたしがそうなりつつあるものにとって、そうなってしまっているであろうところの前未来であるからだ。

 

 しかしいまわたしが他人に問いかけるべく他人をまえにしているとしても、どんな優秀な人工知能装置でも、答えである反応を返すことはできない。刺激-反応という回路をなすかぎりでの反応の定義は、動物におしつけられた主体性に依拠したひとつの比喩でしかなく、そういう主体性は、物理学的な図式に還元されると消滅してしまう。兎を帽子のなかに入れて取り出す手品にひとしい。とはいえ、反応は答えではない。

 

 スイッチを押して灯りがつけば、それはもっぱら「わたしの」欲望にたいする答えである。同じ結果を得るために当て推量でスイッチをおしてみなければならないのであれば、それはもっぱら「わたしの」期待に向けての問いかけ[試み]であり、スイッチの操作がわかっているとき、もはやそのような問いかけはない。

 

 とはいえ、わたしが話しかけている人を、わたしがえらんだ名前で呼ぶとき、わたしはその人に主体としての機能をあたえており[intimer]、その人は、わたしに答えるためにその機能を引き受ける。たとえそのひとがその機能を拒否するためであれ。

 

 そのとき、わたしじしんの答えの決定的な機能があらわれる。それはたんに、主体によって、主体の言説の是認あるいは拒絶として受け取られるだけではなく、その主体を主体としてほんとうに承認あるいは廃棄することである。こうしたものが、分析家がことばによって介入するつどの、分析家の「責任[応答可能性]」である。

 

 それゆえ、グローヴァーが提起した解釈の治療的効果の問題は、[解釈の]正確さの問題は二次的であるという結論を導いたのである。つまり、ことばによるいかなる介入も、主体[患者]によって、ことばの構造に応じてうけとられるだけではなく、その介入は、その形式ゆえに、構造化する機能を担うのであり、非精神分析的な心理療法、ひいては医学的「処方」一般の効果は、強迫的な暗示の体系、恐怖症的なヒステリー的暗示の体系、ひいては迫害的なサポートの体系と呼ぶべきものであり、そのいずれも、主体がじぶんじしんの現実を無視していることへの罰[是認]という性格をもつ。

 

 というのも、ことばは言語活動の贈与であり、言語活動は非物質的ではないのである。言語活動はとらえにくい物体[corps subtil]ではあっても、物体なのである。語は主体を虜にするあらゆる身体的イメージ[images corporelles]のとらわれになる[être pris]。語はヒステリー患者を妊娠させ、ペニス羨望の対象と一体化し、尿意として尿を表現し、吝嗇的な享楽としておしとどめられた糞便を表現する。