lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

私は探さない。みつける。:「ローマ講演」第3部(その3)

 Ecrits, p.296~

 

 とはいえ語形論のカバーする領域には期待がもてない。ある著者(エルンスト・クリス)は、同じひとつの抵抗から、demande for love のかわりに need for love という解釈を「意識的熟考なしに」引き出したとよろこんでいる。論文のタイトルは「自我心理学」だが、分析家の自我が心理学の対象になるべきだ。

 

 というのも主体にとっての need と demande は、正反対であり、両者を一瞬でも混同することは、ことばの intimation(呼び出し)を根本から無視することだ。

 

 というのも象徴化する機能[函数]においては、ことばは主体の変容をみちびき、主体にたいしてことばは、ことばを発する者とことばとのあいだに築かれる結びつきによって話しかけるからだしるしざすもの[シニフィアン]の効果をみちびきいれるということだ。

 

 そんなわけで、言語活動におけるコミュニケーションの構造にふたたびたちもどり、「言語活動=記号」という誤解を最終的になくさなければならない。言説をことばのできそこない(malfaçon)とみなす誤解がここからでてくる。

 

 というのも言語活動のコミュニケーションが信号とみなされ、この信号をつかって、発信者が、なんらかのコードにもとづいて受信者になにかをつたえるのであれば、その「なにか」が個人についてのなにかであるばあい、その信号を信用しない理由はないから。まして[信号いがいの]ほかの記号を信用しない理由はない。自然的な記号にちかい一切の表現様式のほうをこのみさえするだろう。

 

 そんなわけで、われわれのあいだに、ことばの技法についての不信がうまれる。しぐさ、表情、態度、身振り手振り、動き、震え、通常の動きの停止といったものの方があてにされる。こういったもののほうが繊細な表現だとされる。

 

 「言語活動=記号」という観念の不十分さを示すにあたり、動物界におけるこうした観念の典型的なあらわれをみてみよう。さいわいにも、これについて重大な発見が最近なされた。

 

 獲物探しから巣へ戻ってきた蜜蜂は、二種類のダンスによって獲物が近くにいるもしくはとおくにいることを仲間につたえる。とおくにいるほうのダンスがとくに注目にあたいする。8の字のカーブを描くことから、wagging dance とよばれていて、一定の時間にどれだけこれを描くかが、どの方角に獲物がいるか、かつどれだけ遠くにいるかをあらわす。仲間の蜂は、しめされた場所へすぐさまおもむくことでこのメッセージに応える。

 

 十年ほどの辛抱強い観察の結果、カール・フォン・フリッシュは、この伝達方法を解読した。まちがいなくこれはひとつのコードであり、信号化の一体系である。種にとくゆうのものなので慣習性がみぬけなかったのだ。

 

 それならばこれは言語活動なのか? べつものである。記号とそれがいみする現実との固定した対応ゆえに。言語活動においては、記号がいみをもつのは、記号どうしの関係によってであるから。語彙論的な意味素の分割であれ、形態素の位置ないし屈曲であれ。そうしたものは、コードの固定性とは対照的である。人間の国語の多様性はこの観点から理解できる。

 

 さらに、ここで記述されたようなメッセージ様式が仲間(socius)の行動を規定するのであるとしても、メッセージを仲間が転送することはない。つまり、メッセージは行動をリレーする機能に固定されたままであり、仲間のどの主体も、コミュニケーションそのものから象徴としてメッセージを分離することはない。

 

 脚注。ことばを、いまなおギリシャ語のparabolê (「~への行動」)の翻訳として「副次的な(à côté)行動」としているリトレにならって理解している人に言いたい。ことばという語がそのようないみであるのは verbe という語が5世紀以来、説教において、受肉された<ロゴス>を指すためにつかわれるようになったからだと同じリトレに書いてあると。

 

 言語活動がとる形態そのものが主体性を定義する。言語活動はつぎのようにいいあらわす。「こっちに行きなさい。なになにがみえたら、あっちに行きなさい」。言い換えれば、言語活動は他者の言説を参照している。言語活動は、その全体が、ことばのもっとも高次の機能につつまれている。ことばが、聞く人にあらたな現実をもたらすことによって発話者を巻き込むのであるかぎり。たとえば、「おまえはわが妻だ」ということばで、ある主体が既婚の男性としてみずからを封じ込める(se sceller)。

 

 ひとのあらゆることばはほんらいこうした形をとる。その形に至るのではなく、この形に由来するのだ。

 

 ここから逆説が導きだされる。精神分析弁証法とみなす観点について述べたとき、お集りの方々のうちでもっとも鋭い方は、つぎのような反論が可能であると考えた。その方はこう述べた。ひとの言語活動は、発話者が聞き手からじぶんじしんのメッセージを倒立したかたちでうけとるようなコミュニケーションなのだ。反対者の言うには、われわれはこの発言をいただいただけで、この発言こそがわれわれじしんの思考の元ネタなのだということになる。つまり、ことばは、つねに、主体的に、答えを含んでいるという考えであり、「わたしがみつかっていなければ、おまえはわたしを探しはしないだろう」という台詞はこの真理を承認するものであり、それゆえにパラノイアにおける再認の拒否においては、否定的な言語化(verbalisation 調書作成)というかたちの下に、言うことのできない感情が迫害的な「解釈」においてあらわれるのだ。

 

 そんなわけで、じぶんとおなじ言語(langage)を話す人に出会ったと喝采するのは、万人の言説においてそのひとに出会ったということでありながら、特異なことばによってそのひとと結びつけられているということなのである。

 

 それゆえ、ことばと言語活動との関係は二律背反が内在している。言語活動が機能的になればなるほど、言語活動はことばに適合しなくなる。われわれにとって個別的になりすぎて、言語活動の機能を喪失してしまう。