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文化における居心地のわるさ:「ローマ講演」第2部(その5)

 

 Ecrits, p.281末尾~

 

 言説が妄想するこの袋小路からの出口がひとつある。主体にとって有効なコミュニケーションは、科学と普遍的文明にもとづいて可能である。客観化が主観性を忘れさせる。日常的な活動がみずからの生存と死を忘れさせるが、誤ったコミュニケーションにおいておのれの生の特異な意味をも忘却させる。

 

 主体が頻繁に、鏡像段階にまで退行して、自我が想像的な離れ業をやりとげるスタジアム(stade)の囲い(内部 enceinte)を再発見することがなければ、主体がこの状況において甘んじなければならない軽信には限界がないということになる。まさにそれゆえに、われわれ分析家の責任が生じる。分析家が主体に、精神分析の神話的な操作によって、たとえば、自我、超自我、エスに分解された三項図式において、疎外を促進する機会をもたらしてしまうとすれば、それは分析家の責任である。

 

 ここで、言語活動の壁がことばに対立する。駄弁(verbalisme)にたいする警戒は、われわれの文化の「正常な」人間の言説の主題であるが、それは言語活動の壁の厚さを増すことにしかならない。

 

 その厚さは、くだんの文化がうみだした印刷物やレコードやラジオ番組の総体に匹敵する。言語活動の問題は、個人が言語を使用する範囲をはみだす。

 

 この状況は、狂気にともなう疎外に似ている。主体は話すというより話されているということは、精神分析が想定する真のことばの要請に属している。われわれの主張の内包する逆説を限界にまでもたらすこのような結論が、精神分析的観点の常識そのものにさからってくつがえされなければならないのであれば、われわれはこのような反論を全面的にもっともだとおもうだろうが、それはわれわれの主張のただしさを確認することになるのだ。そしてこのことは、その名付け親には事欠かない弁証法的回帰によって確認される。――まずもってヘーゲルによる「頭蓋の哲学」の告発、そして「自我」の時代の幕開けにおけるパスカルのつぎのような警告。「人間は必然的に狂っているので、別の狂気によって狂気でなくなるとしたらそれもまた狂気にほかならない」。

 

 それは、われわれの文化が創造的な主体性をしめだした闇のなかにあることをいみしない。ぎゃくに、そのような主体性は、さまざまな象徴に光をあてる人間的コミュニケーションをとおして、つきることのない象徴の権能をあらたにすべく闘い続けてきた。

 

 この創造を支える少数の主体に期待をかけるならば、同じでないものを比較することによって、ロマン主義的な観点に陥ってしまうだろう。じっさいのところは、このような主体性は、数学、政治、宗教、さらには広告など、どのような領域に出現しようと、全体として、人間的運動を活気づかせつづけている。そしておそらくそれにおとらずはかない見方(prise de vue)によって、われわれは、つぎのような反対の特徴を強調することになるだろう。このような主体性の象徴的な性格がこれほど明確であったためしはこれまでなかった。革命は、その行使によっていっそう絶対的になる権力を出現させる。これは革命のアイロニーだ。その権力がより匿名的であることが皮肉なのではなく、権力が権力をいみすることばに還元されてしまうことが皮肉なのだ。そして一方で、かつてなく、[諸宗派の]教会の権力は、教会がこれまで保持してきた言語活動のなかにある。このような審級を、フロイトは、<教会>と<軍隊>の集団的主体性とわれわれなら呼ぶであろうところのものについて素描している論文において、見逃したと言わねばならない。

 

 精神分析は、現代的な主体性という方面において、ひとつの役割を演じてきたが、その役割を、科学においてそれを明らかにする運動のなかで秩序づけることなしに担っていくことはできないだろう。

 

 そこに基礎づけという問題がある。この基礎づけが、諸科学における精神分析の位置づけを保障するはずである。すなわち、形式化の問題であるが、じっさいは、この問題はほとんど手つかずである。

 

 というのも、こうおもわれるからだ。われわれは、精神分析がそれにさからっておのれを確立してこなければならなかった医学的精神の欠陥にまたぞろとらわれている。科学の発展にたいして半世紀遅れをとっている医学を、これまでわれわれは鑑として見習おうと努めてきたのだ。

 

 精神分析の経験を、虚構的な原則に基づいて、ひいては、実験的方法によって仮装して、抽象的に客観化すること。これは、われわれが精神分析を、そのほんらいの構造にしたがって発展させることを望むのであれば、精神分析の領域からさいしょに洗い落とさなければならないさまざまな偏見の帰結である。

 

 象徴的な機能の実践家として、われわれがこの機能を探究することに背を向け、この機能こそが、人類学の刷新と手を携えることによって、われわれを諸科学の新たな秩序を確立する運動のさなかに位置づけるということを無視しているとはおどろくべきことである。

 

 この新たな秩序がいみするところは、その名にあたいする科学の観念への回帰ということにほかならない。このような科学の観念は、『テアイテトス』に発する伝統のなかに書き込まれたいくつもの称号をもっている。ご存知のように、この観念は、実証主義的な転回において、堕落してしまった。実証主義は、人間の科学を、実験科学という壮大な構築物のてっぺんに位置づけることによって、じっさいには実験科学に従属させている。この観念は、科学史についての誤った見解に由来しているが、この見解は、[精神分析の]経験の専門化された発展という権威に基づいている。

 

 しかしこんにち、推測科学は、永遠の(de toujours)科学という観念を再発見することで、十九世紀的な諸科学の分類の再検討を迫っている。その方向性は、もっとも明晰な精神の持ち主たちがはっきりと告発しているものである。

 

 それに気づくためには、科学の諸領域の具体的な進化をたどってみるだけでじゅうぶんだ。

 

 ここでわれわれを導いてくれるかもしれないのが言語学だ。現代人類学の最先端で言語学が担っている役割がその証拠だ。それにたいしてわれわれが無関心でいられるはずがない。

 

 意味論の最小単位である「音素」の発見を可能にした数学化の形式が、われわれを、後期フロイトの理論が、象徴的な機能の主体的源泉である、現前と不在についての母音の含意において示しているものの基盤そのものへと導いてくれる。

 

 あらゆる言語(langue)をこのような音素的対立のグループに還元することは、もっとも高度な形態素の厳密な形式化をうながすことで、精神分析の領野への厳格なアプローチを可能にしてくれる。