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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「ローマ講演」第二部(その1)

 

 第二部 精神分析的領野の構造と限界としての象徴と言語活動

 

 エピグラフとして、「おまえはなにものだ」という問いにたいし、イエスが「なによりもまず、わたしがあなたに語ろうとしていることではないか」と答えたヨハネ福音書の一節(8-25)が引かれ、さらに「クロスワードパズルをせよ」という「若い分析家へのアドバイス」が掲げられている。

 

 個々の主体の歴史の還元によって、精神分析は関係的なゲシュタルトにいたる。精神分析はこのゲシュタルトを規則的な発展へと一般化する。しかし、こうしたゲシュタルトによって解明される発生論的心理学も差異心理学も、このゲシュタルトの管轄にはない。

 

 そうしたものは共同的な[間主観的な]経験(諸観念のプロフェッショナルにとっては感覚的な経験にひとしい)についての純粋状態の心理学と定義できる。日常的な配慮をいくぶん宙吊りにすることでうまれる、レオナルドやゴヤの手になるグロテスクなもののもたらすようなショック、あるいは欲望にみちた掌が愛撫する肌の質感がもたらすような意外さのような経験である。そうしたものがまとうきまぐれや神秘は、経験そのもののなかで消えてしまう。

 

 精神分析はふつう、患者に固有の感受性や身体反応や感性をあきらかにしないうちにおわってしまう。

 

 このような逆説は個人の欠陥を示すものではない。この逆説が精神分析において陰性の反応においてあらわれるとき、患者はそこから陽性の要素を引き出すように分析家に要求しているのだ。

 

 この逆説は、のがれさる現実があらわれる挿話にたちどまろうとする人たち(プラトンが揶揄している、現実的なものへの欲求ゆえに木をかきいだく人を揶揄する哲学者たちのように)の努力によっては解消しない。そういうひとたちは、患者があらわすなまの反応にとびつくのだ。そういうひとたちは、言語活動のかなたにあるものをとらえることを目標としており、精神分析の規則になっている「接触禁止」にたいして強迫的に反応する。このようなやりかたでは、たがいのにおいをかぎあうことが、転移反応の究極の目標になってしまう。これは誇張ではない。こんにちでは、[研修中の]若い分析家が、二、三年の精神分析が効果をあげずにおわったはてに、患者のにおいを吟味するようなことを重視することがありうる。つまり、[転移において]対象関係があらわれることを期待しているのだ。そして分析家の能力の保証である[後見役の分析家の]賛同「入るにあたいする」[『病は気から』]をそれによって手にしようとするのだ。

 

 精神分析が科学でありうるとすれば(まだ科学ではない)、そして技法の水準をおとしてはならないのであれば(げんにそうなっているかもしれない)、精神分析の経験のいみを再発見するひつようがある。

 

 そのためにはフロイトの著作に帰るにしくはない。フロイト3を理解しないことを、フロイト2を理解しているつもりでいることで非難するには、技法を体得していると自認しているだけではだめだ。フロイト1についての無知は、五大症例をでたらめで不出来なシリーズとみなすことの口実にはならない。このシリーズがかくしている真理の断片は、それによってみうしなわれてしまう[この一節は政敵の発言になるらしい由が脚注にある]。

 

 『夢解釈』を再読し、夢が文の構造をしていることを想起すべし。あるいは、夢の文字、判じ絵、つまりエクリチュールを想起せよ。子供の夢はそのようなエクリチュールの原初的な表意文字であるということを。大人においては、しるしざす元素(éléments signifiants)の音素的で象徴的な使用を再生するエクリチュールであることを。そうしたものの使用は古代エジプト象形文字にも漢字にもみてとれる。

 

 それは道具の解読でしかない。原文のヴァージョンにおいて重要なことがはじまる。夢の作成つまり夢の修辞においてその重要性がみてとれる。省略法、冗語法、転置法、兼用法、後退、反復、同格……そうしたものにおいてフロイトは主体が夢の言説を変奏する際のさまざまな意図を読みとることをおしえている。

 

 フロイトはつねに欲望の表現をそこにさがすべきであることを規則として掲げている。欲望の表現とはおもえない夢の動機も、じつは欲望を否定したいという欲望のあらわれなのだ[「欲望にはんする夢」Gegenwunschträume]。フロイトはじぶんじしんの夢にこのようなことを読みとり、他人の夢をとおしてその法則を発見した。

 

 人間の欲望は他人の欲望のうちにそのいみをみいだす。他人が欲望の対象を手にしているからではなく、欲望のさいしょの対象は、他人に承認されたいという欲望だからだ。

 

 精神分析において転移がうまれると(転移は精神分析のはじまりを告げるしるしである)、患者の夢は、分析的言説に照らして、挑発、ひそかな告白、牽制などとして解釈できること、分析の進行につれて、それが対話の要素の機能をはたすようになっていくことは、分析家であればだれでも経験上しっている。

 

 日常生活の精神病理学については、いかなる失錯行為も成功した、気の効いた言説であることは明白だ。言い間違いにおいては、言論統制[bâillon]がことば(parole)をめぐって敷かれており、見方をすこしずらすことで、そこに適切ないみあいをよみとれる。

 

 『日常生活の精神病理学にむけて』は、さいごに偶然や迷信にふれ、とくに、でたらめな数の連想や籤引きの主観的有効性を確認している。そこでは精神分析の領野の構造がこのうえなくあきらかにされている。さまざまな知られざる知性のメカニズムの解明は、象徴[言語]への信頼をたしかなものにしている。

 

 精神分析的な精神病理学(神経症であれそれいがいであれ)における症状を説明するために、フロイトは二重のいみがうみだす多重決定という観念に訴えている。かつての葛藤の象徴が、それにもまして象徴的な現在の葛藤における象徴の機能をこえたところにみいだされる。自由連想によってつむぎだされた原文に、このような象徴的な系列のつみかさなりをたどるべくフロイトはおしえている。そうすれば、言語のさまざまな形態[あらわれ]がまじわるところに、その[=症状の]構造の諸核心がみつかる。症状は言語活動の分析によって完全に解消される。症状はそれじたいが言語活動のように構造化されているからだ。症状は言語活動であり、ことば(parole)を発しているはずなのだ。

 

 言語の性質を深く考えたことのない人も、数の連想という経験[実験]をみれば、両義的ないみをうみだすくみあわせの能力がわかるだろう。そこに無意識の固有の管轄を認めるだろう。

 

 連想された数が患者に固有な歴史における象徴物であることがわかるのであり、その数字が患者の運命をさだめていることを迷信とみなすのであっても、分析において患者にたいしてあかされるかれの無意識は、そのようなくみあわせの存在という秩序、その数字があらわす具体的な言語活動のなかにあることをみとめるべきである。

 

 文献学者たちや民族学者たちは、じつは完全に無意識的なシステムである組み合わせによる確信をあきらかにしている。

 

 それでも信用できない人には、無意識を発見したことで、無意識がどこにあるかをおしえている人の証言にたのむことにしよう。

 

 『機知――その無意識との関係』は、その最良のものだ。もっともわかりやすい証言であるからだ。この書においては、無意識の効果がその細部にいたるまで繊細にしめされている。この書であきらかにされる無意識の顔は、あいまいな[両義的な]エスプリ[精神]という顔である。そのあいまいさは、言語活動が無意識に付与するものである。そこでは、[無意識の]王の権力のもうひとつの顔は、王の命令[秩序]ぜんたいを一瞬にして無に帰してしまうような「剣先[皮肉 pointe]」であり、その「剣先」において無意識の[王の]創造性は絶対的な無償性をあきらかにするのであり、現実的なものにたいするその支配は、無意味の挑戦において表現されるのであり、自由な精神のいじわるな優雅(grâce)のなかでユーモアは勝ちをおさめないひとつの真理を象徴する。

 

 この書において、もっともにがにがしい愛の選ばれた庭をそぞろあるくフロイトのあゆみをたどるべし。

 

 この書においてはすべてが実質(substance)であり、すべてが真珠である。みずからが不可視の支えとなっている創造において亡命生活をおくる精神[エスプリ]は、じぶんがその創造をいつなんどきでも無に帰することのできる主人であることをしっている。横柄で不実なさまざまな形をとり、隠れた王国のダンディであったりおひとよしであったりするこの精神は、もっとも蔑まれたものというわけではない。フロイトはそのひそかな輝きを発揮させる術をしらない。モラヴィアのゲットーを行き来する仲人ずきの人の話、エロスの評判のわるい人物像、エロスとおなじく欠如とくるしみの子、ひそやかな職務として、不作法もの(goujat)のあさましさをみちびきつつ、ナンセンスにかがやくわらいを発する。「真理をとり逃す者は、じっさいには、仮面をぬぎすてる幸せものなのだ」。フロイトはそうコメントする。

 

 エスプリを発することにおいて(dans sa bouche)、仮面をぬぎすてるのはまさしく真理であるが、それはもっとひとを欺くもうひとつの仮面をつけるためである。詭弁術は戦略にほかならず、論理学はひとつの罠にほかならず、おどけ者は目をくらませるだけ。エスプリ[精神]はつねによそにある。「というのもエスプリは主観的な条件にしたがうから。わたしがエスプリとしてうけいれるものだけがエスプリなのだ」とフロイトはつづける。