lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「ローマ講演」を読む(その3)

「序」レジュメ後半(Ecrits p.293 最終段落より)

 

 精神分析はもっぱらフロイトの概念に負っているが、フロイトの言葉遣いは誤解されており、その吟味が必要である。人類学や現代哲学に照らしての吟味は有益であろう。フロイト用語は日常的に使われているうちにそのほんらいの意味あいがすりへってしまった。歴史的な文脈やフロイトの個人史を参照することでほんらいの意味をとりもどさせなければならない。教育者のやくわりはそこにある。このことをおろそかにすると、精神分析の実践の意味はなくなる。意味にもとづいていない実践は効果を発揮できない。そして技法的な規則はたんなる処方になりさがり、精神分析の経験からいっさいの認識の可能性といっさいの現実性という基準をはぎとることになる。じぶんでもその原理を把握できていない実践にそれなりのステータスをあたえてくれるものを精神分析家ほどさがしもとめている人はいないからだ。精神分析家は、応用してみようともおもっていないある精神分析理論のどこにみずからの実践を位置づければいいのかわからずにいるのだ。この序にかかげたエピグラフはそのいい例だ。その考え方は、分析家の養成についてもあてはまる。それは免許を発行するだけでなく自動車の製造もできるとおもいこんでいる自動車学校をおもわせる。この比較はもじどおりにとればよいのだが、学会でまかりとおっている比較と大同小異だ。実践にふなれな入門者を、殺菌せずに手術をおこなう外科医にたとえる比較にはじまり、教師たちのいさかいのせいで敵対しあうかわいそうな学生たちや両親に離婚された子供たちというような涙をさそう比較にいたるまで。あとのほうの例は、つらい教育の試練にたえた者らにたいする尊敬からうまれたものであろうが、この比較においては入門者の未熟さが愚かさにすりかえられている。そこにどれほどの真理が宿っているかは吟味するにあたいする。真理と主体的な偽装の脱神話化の方法である精神分析は、みずからにこの方法を適用するというとほうもない野心をいだいているだろうか。すなわち、精神分析家たちが病者にとってのみずからの役割、精神の社会におけるみずからの位置、同業者へのみずからの関係、教育というみずからの使命についていだいている考えを精神分析するというそれ。フロイトの考えをひろめるために、この論文はある者たちの不安を軽減するであろう。象徴的なものほんらいの複雑さに目をくらまされてしまう人たちの不安である。……