lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「ローマ講演」を読む(その2)

承前)「序」において、この論文が発表された経緯が略述される。恒例の年次集会においていみじくもことば(parole)という題目をふりあてられたラカンは、Mons Vaticanus(バチカンの丘)は vagire の語源であり、じぶんの講演を謙遜と自負をこめて、新生児のさいしょの口ごもり(vagissement)にたとえる。このさいしょのパロールは、言語活動において精神分析の基盤を刷新する創設的な言葉である(ことばと言語活動とがこの一節においてむすびつく)。そしてその文体は、これまでの精神分析のもろもろの基礎を問いに付すアイロニカルな文体たらざるをえなかった。ことばを待ち望む学生たちにたいし、ラカンはよそおわれた厳密さにすぎぬ[言葉づかいの]規則を無視してよびかけた。これまでの言葉の調子は、主体の自律をはなはだしく無視してきた。分析家の養成の権威的なコントロールによって、分析家はそだたなくなる。フロイトはその学説がイニシエーション的で高度にコントロールされたかたちで確実に伝達されるとかんがえていたが、このようなかたちは最終的な段階にのみ適用されるべきだ。このやりかたは形骸化し、危険を冒させまいとするあまりモチベーションをくじいてしまう。衒学的な俗説がはばをきかせることで、事なかれ主義が不文律となり、まじめな探究心をさびつかせ、ついには涸渇させてしまう。精神分析でもちいられている概念の高度の複雑さゆえに、精神は、判断をくだすに際し、概念の射程を明るみにだそうとする危険を冒そうとしない。しかし、このことゆえに、われわれの根本的発言は、諸原則の解明によってさまざまな主張の乗り越えを事とせねばならぬのである。厳格な選別が必要であり、それは煩瑣な審査にゆだねておく暇はないのであって、むしろ具体的な実践をどんどんうみだして、さまざまな立場からの意見にきたえられることで弁証法的に承認されるようにしなければならぬのだ。われわれは対立をよしとするのではない。ぎゃくである。われわれが原告としておもむいたロンドンの国際会議で、書式にしたがわなかったばかりに、われわれに好意的な人が、原理的な意見の不一致によって分裂することを認めることはできないと嘆くのを耳にしておどろいた。国際となのる協会には、精神分析の経験はわれわれの共有物であるという原則をまもることいがいの目的をもっているはずがない。もはやそうではないことは公然の秘密である。ジルボーグが、われわれのケースを脇にのけて、科学的な議論によるいがいの分裂は認められないとするのにたいし、ヴェルダーが、われわれひとりひとりが信じている説をたたかわせることによって、われわれをへだてる壁は崩れ、アナーキーな混乱に陥るだろうと反論したのはひどい話だ。われわれが改革をめざすのは利己心からではない。(つづく)