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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

相対性の科学へ:「《現実原則》を越えて」

* 「《現実原則》を越えて」Au-delà du << principe de réalité>> (1936)

 

 『エクリ』に収められたもっとも初期の論考。同じ年、同じマリエンバードで、鏡像段階論が口頭発表というかたちで公にされている。その概要をまとめた「<私>の機能を形成するものとしての鏡像段階」(1945年)の内容を先取りするくだりがすくなくない。たとえば、「主体の定型的な同一化を媒介として主体がそこに自己を認めるわたし(le je)がどのように構成されるか」という課題、あるいは転移の分析についての一連の「現象学的記述」。

 

 まず、連合主義心理学における内観の特権化が客観性、実証性を欠くとして批判の対象になる一方、客観性を自認する自然科学がじっさいに事としてきたのは、対象の人間化であるとして、その人間中心主義、神人同形同性説(antropomorphisme)が批判される。それに対して、「相対論」に基づく「新しい心理学」が提唱されるが、それが基づくのは「心像」の観念である。

 

 連合主義が「錯覚」や「感覚の名残」に帰す「心像」が、それに「固有の現実」をもつ根本的に「社会的」な性格のものであること、そしてフロイトの画期性がこのような「心像」理解にあることが指摘される。

 

 「心像」は対象への全体的で無意識的な「同一化」の手段となり(部分的な模倣ではなく)、そこには主体のその後の社会関係の「胚種」が「潜在的に」ビルトインされている。

 

 「心像」への「同一化」は、演劇的なメタファーによって説明され、なかんずくコメディア・デラルテにおける「おきまりの役」になぞらえられる。「本能」の観念にとって代わるかぎりでの「複合」の観念にも、ラカンはそのような類型的あるいは「記号的」な特徴を見出している(幼児はこうした「記号」への感受性にすぐれている)。

 

 「言語はあることを意味するより以前にある人に対して意味をもつ」。ラカンのいう相対論(物理学的な相対性理論を想定していることは言うまでもない)とは、このような記号の恣意性(後のシニフィアン概念)に基づくべき科学である。そして、この相対論は転移という事実を前提にしている。まさにフロイトは、患者の言葉をその「連続性」において捉え、表向きの意味によってその言葉を「選り分けないという行為」によって革命的であった。

 

 「[ある]現象が[真理であるかどうかが問題なのではなく]ある種の言語[……]によって伝達可能であること、またある種の形式[……]によって記載可能であること、そして科学がその取り扱う固有の対象のいくつかをそこにおいて統一できるような象徴的な同一化の連鎖[……]のなかにこの現象をなんとかおしこめること」が問題なのだ。

 

 フロイト的なリビドーの観念は、その生物学的・実体論的な側面ではなく(「超心理学的」側面)、エネルギー論的な側面に価値がある。それはひとつの「記号法」であり、「エネルギー概念としてのリビドーは、心像が行動のなかにおいてあたえる活力(dynamisme)のあいだの同質性に関する象徴的観念」であり、しかも「欲望の諸事実に相関的」である。

 

 フロイトの「現実原則」の観念は、心的現実(ラカンはこの言葉は使っていない)という観点から訂正されなければならない。