lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その3)

 

われわれ一人ひとりに人格はわれわれの内的経験の総合因子として現れる。

 

 というわけで、人格とは観念的な実体ではなく、一個人の具体的な「内的経験」の総計である(「総合」)。とりあえずこれは人格の客観的な定義。さらに人格には主観的な定義、言い換えれば自分はこうありたいという「理想」としての側面がある(「志向性」)。この二つの側面はしばしば隔たりをみせるが(ボヴァリー夫人の例が挙げられている)、この隔たりをみずから引き受けることに、いわば人格の倫理的な定義がみいだせる(「責任性」)。というわけで、心理学的な「人格」概念は以上の三つ(総合、志向性、責任性)を属性としてもつ。

 

 ラカンはとりあえず心理学的な「人格」概念をこのように腑分けしてみせる。そして、解きほぐされたこれらの糸を撚りなおし、自分なりの「人格」概念に編み上げなおそうとするのである。

 

 その際、形而上学的な実体化(アリストテレスからカントにいたるまでの)をしりぞけると同時に、単なるデータの集積という無政府主義にも陥らないこと。その隘路にラカンはみずからの「人格」概念を打ち立てようとする。観察された諸事実を秩序づけるなんらかの基準がひつようなのだ。

 

 そのためにラカンは人格の「発展」法則をそうした基準として選び出す。「発展」といっても、目的論的なふくみはなくて、状態の変化とか推移といった意味あいでとっておけばよい。そしてこの「発展」は、ひとつの因果法則として、しかも、自然科学的な因果律とはことなるいわば心的な因果性として定義されていく……。

 

 だいぶ先回りしてしまったが、ともかく「人格」の尺度、「人格」の「意味」は、この「発展」において「理解」される。まえにでてきた「了解関連」というヤスパース的な術語は、この「意味」の析出といったイメージでとらえておけばよい。

 

 ラカンはこのヤスパース的概念についてつぎのように述べている。

 

 人格の範囲は、彼[ヤスパース]によると、了解関連の総体におよぶのではなく、ただ「了解可能な発生的関連の総体のなかで個人にそなわる固有なもの」にだけ及ぶ。

 

 ということはつまり、ラカンは人格の範囲を、ヤスパースがなお依拠していた「個人」とか「固有なもの」といった観念を超えた「意味」の関連全体として、あるいは因果関係のネットワーク全体としてとらえようとしているというわけであろう。 —つづく—