lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

サントロペより永遠に:ウィニコット宛書簡

 

*ドナルド・ウッズ・ウィニコット宛書簡(1960年8月5日付)

 

 2月に受け取っていた手紙への返事が遅れたこと、および主幹を務める「精神分析」に掲載の「移行対象」論文の著者名のスペルミス(tが一つ脱落)を詫びたあと、ロンドン・ソサイエティーでの講演の依頼にたいして多忙を理由に断りの返事をしている。3月にブリュッセルで行われた二度の講演(「精神分析はわれわれの時代が必要としている倫理のひとつであるか」)、「倫理」のセミネール(野心的な主題が自画自賛される)と旺盛な活動の一端が報告される。ジョーンズ追悼論文が理解できないとのウィニコットの言葉に遺憾の意が表明され(「理解し合える点が多いと感じていたあなたからそのような言葉を聞くとは……」)、論文のポイントが懇切丁寧に箇条書きされる。ジョーンズの失敗は教訓的である。ジョーンズはファルス的象徴の概念を先取りしていながら、じぶんではそれに気づいていなかった。シニフィアン現実界の関係についてのラカンの考えを理解している者にはそれがわかるはずだとして論文の一節が引かれる。「思考と現実界の関係はシニフィアンシニフィエの関係とは異なる。思考にたいする現実界の優位はシニフィアンシニフィエにたいする関係においては逆転している」。アファニシスおよび剥奪(privation)の概念もラカンのセミネールに多くのものをもたらしたとされ、ジョーンズの洞察があらためて讃えられる。象徴理論を主題に選んだのにはセミネール出席者への啓蒙といういみもあった。セミネールの開講以来、ラカンのテクストはすべて教育の場を源泉としている。要求と欲望の区別を明らかにした「治療の方向づけ」しかり(The rules of the Cure and the lures of its power なるタイトル英訳が記されている)。「移行対象」概念にも必要性と欲望の区別を理解させる教育的効果があった。そろそろ業績を一冊の著作にまとめるべきときだとかんじている。アムステルダムで催す会合は女性のセクシュアリティがテーマになる。ジョーンズ以来ないがしろにされてきたいまひとつのテーマである。義理の娘ロランスが政治活動で逮捕、釈放される。同居中の甥もこのほどアルジェリア反戦活動で懲役判決を受けた。

 

科学モドキの洪水:「主体の隠喩」

 

*「主体の隠喩」(La métaphore du sujet, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 法哲学者カイム・ペレルマンの発表への回答として1960年6月23日にフランス哲学協会にて報告されたものに加筆。『エクリ』第二版の刊行時に「補遺」の一篇として収録された。

 隠喩と無意識との関係を見て取っていたとしてラカンはぺレルマンを高く評価していた。ペレルマンは隠喩をイマージュに還元しない。ラカンペレルマンが隠喩を(三つではなく)四つの項の関係としてとらえていることを評価する。父性隠喩もまた四つの項を関係づけている。ペレルマンは「譬えるもの(phore)」(シニフィアン)と「譬えられるもの(thème)」(シニフィエ)からなる二組のペアの「類比」として隠喩を捉えているようであるが、ラカンは隠喩を構成する四項を一つのシニフィエと三つのシニフィアンに振り分けるべきだとする。ラカンペレルマンバークレーから引いている「科学もどきの海」(a ocean of false learning)というフレーズを「海」「科学」「もどき」「x」の四項に分解したうえで、父性隠喩の式に当てはめ、絵解きしてみせる。波の寄せ返しと大聖堂の鐘の音(lear-ning, lear-ning…)の音素的交代という共通点が強引に読み込まれ、隠喩において問題になるのがイマージュではなくシニフィアンであることの傍証とされる。この隠喩において生産される新たな意味作用(x)は「もどき」としての想像界というそれであるらしい。

 このあと幼い「鼠男」の名高い呪詛(「おまえなんかランプだ、ハンカチだ……」)が召喚され、隠喩が呪詛に発していることがほのめかされたかとおもうと、同時期のセミネール『欲望とその解釈』で論じられた「犬はニャーと鳴き、猫はワンと鳴く」に立ちもどり、いっさいの言語活動を支えるノンサンスが確認され、ふたたびペレルマンがこんどはアリストテレスから借りたとおぼしき「人生の暮れ方」(=老年)という隠喩に寄り道したあと、さいごはお得意の「眠れるブーズ」(束=ファルス)で終わる。

 幕切れの一句は『四基本概念』におけるアリストテレスの参照を予告している。

 「唯一の絶対的な言表はその筋の人によって(par qui de droit)発された。すなわち、シニフィアンにおけるいかなる賽の一振りも偶然を廃棄することはない。その理由は、いかなる偶然も言語の(による)決定においてしか存在せず、それは自動運動(automatisme)とか偶然の出会い(rencontre)とも呼ばれている」。

 

壁に向かって語る:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(了)

 

 823頁4段落目~

 

 ファルスのイマージュ(ーφ)は象徴的ファルス(Φ)へと「肯定化され」(positiver)、ある欠如を満たす。(-1)の支えでありつつ、(ーφ)は否定化不可能な象徴的ファルス、享楽のシニフィアンとなる。女性も倒錯もここから説明可能。

 

 倒錯においては抹消された<他者>(A barré)に対象aが置き換えられる。幻想において主体は<他者>の享楽の道具である(S barré ◇ a)。

 

 神経症においてもこの公式は歪められてたかたちで適用される。

 

 神経症者は<他者>の欠如(Φ)を<他者>の要求(D)と同一視する。

 

 それゆえ<他者>の要求が神経症者の幻想において対象の機能を帯びる(S barré ◇ D)。

 

 しかし神経症者による要求の優位(それは治療を欲求不満の操作に逸脱させた)は、恐怖症においては<他者>の欲望への不安を隠しており、その不安は恐怖症的対象によってしかカバーできない。恐怖症は<他者>の欲望を幻想に織り上げる。強迫症者は主体の消失によって不可能な幻想を織り上げ、<他者>の欲望を否定する。ヒステリーは欲望を満たされないものとして維持することで、<他者>の欲望の対象になることを逃れる。

 

 この特徴は、強迫症者においては<他者>の保証人となる必要性によって確証され、ヒステリーにおいてはそのシナリオの<誠意のなさ>(Sans-Foi)という側面によって確証される。

 

 理想的な<父>は神経症者の幻想である。<父>の機能は欲望と法を対立させるのではなく結びつける。

 

 神経症者の望む父は死んだ父であり、同時にかれの欲望の主人であるような父である。

 

 分析家はこの罠にはまってはならない。

 

 ヒステリー者にたいしては解釈よりも分析家の「中立性」をコントロールすることが重要である。分析家の欲望の関与を悟らせるためである。

 

 幻想において倒錯者はみずからの享楽を保証するためにじぶんが<他者>であると想像する。神経症者は<他者>を保証するためにじぶんを倒錯者であると想像する。

 

 神経症におけるいわゆる倒錯のいみがこれによってわかる。倒錯は神経症者の無意識において<他者>の幻想としてある。とはいえこれは、倒錯者においては無意識が剥き出しになっているということではない。倒錯者もまた欲望においてじぶんなりにみずからを防衛している。というのも欲望はひとつの防衛であるから。すなわち享楽におけるある限界を超えることの禁止(défense)である。

 

 幻想(S barré ◇ a)は去勢の想像的機能(ーφ)を内包する。それは隠されたかたちで、ひとつの項から別の項へと反転可能なかたちで内包されている。複素数のように、幻想は一方の項を他方に関して交互に想像化する。

 

 対象aに含まれているのはアガルマである。アルキビアデスはそのなかに宝があるとおもっているが、その宝にはマイナスの記号が付されている。それが主体の分割をもたらす。

 

 ヴェールの背後の女性しかり。女性をファルス(欲望の対象)にするのは男根の不在である。

 

 アルキビアデスは欲望の対象を去勢されたものとして示しつつ、アガトンにたいして、じぶんが欲望する者であるとみせかける(parader)。「分析の先駆」たるソクラテスはアガトンを転移の対象として名指す。分析的状況における愛憎の効果は[双数的関係の]外部に見出される。

 

 アルキビアデスはすぐれて欲望する者であるかぎりで神経症者ではない。かれは享楽を可能なかぎり追い求める。

 

 しかしソクラテスを完璧な<主人>という理想のうちに投影した。想像化された(ーφ)によって。

 

 神経症者において、(ーφ)は幻想の抹消されたSの下に滑り込み、神経症者にとくゆうの自我という想像を作り上げる。神経症者は最初に想像的去勢を被っており、それがこの強大な自我を支えている。この自我はあまりに強大なので、かれの固有名は消え去り、神経症者はひとりの<名前のない人>(Sans-Nom)である。

 

 自我の下に神経症者はみずからの否定する去勢を覆い隠している。

 

 とはいえ神経症者はその去勢にこだわる。

 

 神経症者が望まず、分析の終了までかたくなにこばむのは、みずからの去勢を<他者>の享楽の犠牲に捧げることだ。

 

 かれはまちがっていない。なぜなら、じぶんの存在がむなしい(存在<欠如>もしくは<よけいもの>)とかんじていながら、なぜ神経症者はじぶんのちがい(différence)を、存在してもいないひとりの<他者>の享楽に捧げようとするだろうか。かりに存在するとしたら、<他者>はそれを享楽するであろうが。神経症者が望まないのはそのことだ。神経症者は<他者>がかれの去勢を要求しているとおもっているのだ。

 

 分析的経験が証すのは、去勢は欲望を規制する(抑える)ものであることだ。

 

 S barré から a へと幻想のなかで揺れ動くことを条件に、去勢は幻想をしなやかであると同時に伸縮しない鎖にする。それによって対象備給の中止は<他者>の享楽を保証するという超越論的な機能をもつ。この機能が<法>においてこの鎖を投げてよこす。

 

 この<他者>にほんとうに対峙しようとする者にたいして、要求ではなく意志を試す道(voie)が開かれる。もしくは対象として自己実現する道、仏教通過儀礼によってミイラになる道、もしくは<他者>に刻み込まれた去勢の意志を満足させる道が。それは失われた<大義>の至高の自己愛に到達する(ギリシャ悲劇、クローデルはそれを絶望のキリスト教において再発見する)。

 

 去勢とは、享楽が拒まれなければならないことをいみする。享楽が欲望の<法>に反転することによって達せられるべく……。

 

 『エクリ』刊行時に付された跋によれば、聴衆から「人間味に欠ける」(ahumain。inhumain のユーフォリズム)との評が出たという。

 

 聞き手を度外視するような口調は黙々と筆記するだけしか能のない聴衆への信頼ゆえかと仲間の一人に問われたラカンは、「あらゆる言説が無意識の効果をもつことを知っている者にとっては信頼は必要ない」とうそぶいたとか。

 

 

欲望のグラフの終焉:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その3)

 

 809頁4段落目以下の数頁は向井氏の注釈においては省略されている。その部分のアウトライン(超約)。

 

 不透明なシニフィアンによって表象される主体を意識の透明性に還元してしまうようなコギト解釈は誤り。「自己」なるものの混乱を隠蔽するものとしての「自己意識」の誤りをヘーゲルは示している。

 

 主と奴の想像的な関係。

 

 奴の隷属はヘーゲルが知らなかった人間の早産性の神話的表現か?

 

 死を賭け金とした主と奴の闘争はパスカルの賭けよりも「誠実」である。奴が奴であるためには敗北者は死んではならない。それゆえ勝利者(殺害者)は絶対的主人とはいえない。想像的な暴力(攻撃性)は象徴的な契約に支えられているのだ。

 

 生がもたらす死ではなく、生をもたらす死である死。脚注ではサドの「第二の死」に言及される。

 

 理性の狡知という考えによれば、奴は死を恐れて労働に従事することで享楽を放棄する。これは最大の政治的・心理的ごまかしである。奴にとっては隷属的な労働に従事したまま享楽を得ることは容易であるから。

 

 理性の狡知が強迫神経症者の個人的神話になぞらえられる。その構造は[左翼]知識人に顕著。

 

 欲望は構造的であり、偶然(外傷)に依存しない。

 

 エディプス複合は父の神話に依拠している。

 

 それは現実的な父ではなく死んだ父、父の名である。 

 

 813頁4段落目から向井氏の注釈が再開され、それは819頁6段落目途中で終わっている。そこからおしまいまでのアウトラインが以下。

 

 コギトにおいて「存在」は永久に「思考」の手をすり抜ける。

 

 <私>は「宇宙は純粋な<非在>(Non-Etre)におけるひとつの欠如(défaut)である」との声が響いてくる場所に「いる」。この場所に身を置くことは<存在>そのものを衰弱させる。この場所は<享楽>と呼ばれる。享楽の「欠如」が宇宙を虚(vain)となす。

 

 享楽の不在(manque)によって<他者>は一貫性のないものである。享楽は私の享楽なのだろうか?日常的には享楽は私に禁じられている。それは<他者>なるものの欠損=過失(faute)ゆえである。<他者>は存在しないので、<私>がその「過失」を負う。原罪の信仰がここに生まれる。

 

 去勢複合はこれと別ものではない。去勢複合は主体の構造の「余白」ゆえに弁証法を作動させる。

 

 その余白をうめる要素が数学的アルゴリズムの「流用」によって√-1と表記される。それはゼロ記号の効果(マナ)ではなくゼロ記号の欠如のシニフィアンである。

 

 享楽は語る者にたいしては禁じられている。享楽は<法>の主体である誰にたいしても行間にしか告げられない。<法>はこの禁止そのものに基づいているから。

 

 法は「享楽せよ(Jouis)」と命ずる。それに主体は「しかと聞いた(J’ouïs)」とこたえるほかない。享楽は言外に聞かれる(sous-entendu)ことしかできない。

 

 しかし主体を享楽に至らせないのは<法>そのものではない。享楽に限界を設けるのは快原則である。

 

 無限の享楽を禁じる犠牲となるのがファルス。

 

 ファルスが犠牲に選ばれるのがなぜかといえば、男根のイマージュとしてのファルスはその鏡像においてそれがあるところにおいて否定化(négativer)されるから。それゆえファルスは欲望の弁証法において享楽を具体化する(donner corps)。

 

 ファルスの象徴的な原則と想像的な機能とを区別すべし。

 

 想像的機能は自己愛的な対象への備給を促す。鏡像はリビドーを身体から対象へと向け変える運河である。しかしファルスだけがその「突起」ゆえにこの運河を通れない。対象の世界から排除されたファルスは諸対象の鏡像あるいはプロトタイプとなる。

 

 それゆえファルスという勃起性の器官が享楽の場を象徴[化]する。そのものとしてではなく、イマージュとしてでもなく、望まれたイマージュに欠けている部分として(√-1)。

 

 かくしてファルスは享楽の禁止を打ち立てる(nouer)。享楽を自体愛の短さに縮減してしまうことによって。現実的な男根に享楽は欠けている……。 

 

 続きは次号。

 

 

 

絶対知という狂気:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その2)

 

 つづけて(799頁最終段落)言語学のおさらいがひとしきりあり、言表行為の主体と言表の主体との差異が存在と存在者とを隔てるハイデガー的「襞」になぞらえられ(rabattre en son gît la présence…)、シニフィアンによる主体の消失(fading)が「現存在狩り」ないし l’inter-dit と形容される。

 

 分析のセッションは虚偽の言説の中断として遂行される。言説はパロールが汲み尽くされるところに実現される。「沈黙のうちに」手から手へと渡ることで表面が摩滅するマラルメの硬貨さながらに。

 

 「シニフィアン連鎖のこの切断だけが、主体の構造を現実界における不連続点として確認する」。言語学においてはシニフィアンシニフィエの決定因であるが、分析においては、意味の諸々の穴を言説の決定因とする両者の関係から真理が生まれる。

 

 Wo Es war, soll Ich werden. が引き合いに出される。これを là où ce fut と単純過去で訳すべきではない。この時点でエスはなくなってはいないのだから。消え去りつつあるものと到来しつつあるものがぶつかる(achopper)一瞬に「私」の存在が「痕跡」として生じる。

 

 そこにおける半過去が「じぶんが死んでいることを知らなかった父の夢」の半過去(il ne savait pas)に送り返される。父がいつなんどき[息子によって向けられた殺意を]知ってしまったら、「私」(息子)は[この世から]消えさらねばならぬのだ。

 

 「私」(主体)は非-存在者の存在として到来する。この夢において実質的な存在は「知」によって廃棄され、言説を支えているのは「死」なのだ。

 

 知る途上にあるこの父親が、絶対知への途上にあるヘーゲル的主体に送付される。ヘーゲルは絶対知を終末論的な狂気の沙汰として描き出す。分析は絶対知の真理をその虚しさにみることで狂気を乗り越える。

 

 主体と真理の関係において、ヘーゲル主義とフロイト主義のあいだには断絶がある。

 

 両者において欲望の弁証法は別の様式をとる。

 

 ヘーゲルにあって主体は欲望によって過去の知識と繋がっているので、真理は知の実現にたいして内在的である。主体はじぶんの欲しているものを知っている(理性の狡知)。

 

 真理と知のこのつなぎ目をフロイトはずらす(楕円運動 révolution にゆだねる)。

 

 フロイトにおいて欲望は<他者>の欲望に繋がっており、ここに知への欲望が萌す。

 

 それは死の本能と関係がある。

 

 死の本能における無機物への回帰とは、「生を越えた余白」としての主体の存在あるいは身体を示す比喩である。フロイトの生物学主義とは(対象関係論が前提しているような)現実的な身体を指していない。

 

 本能はいっしゅの知識(connaissance)であるが、それは知(savoir)ではない。フロイトにおいてはひとつの知であるが、そこにはいかなる知識も含まれない。主体は伝令の奴隷さながら何が書かれているのかを知らないメッセージを運ぶ。そこには開封すれば死罪となるような封印が押されている。

 

 ことほどさように無意識にはいかなる生理学も関わっていない。ファルスしかり。対象関係論批判。

 

 欲望は要求とも欲求ともちがう。「欲望は[要求によって]分節されている。それゆえに欲望は[それじたいとしては]分節不可能である」。それゆえに欲望は心理学的ではなく倫理的である。

 シニフィアンにおいて分節された主体を位置づけるべく欲望のグラフが召喚される。

 

 ここではじめて(そしてこれをさいごに)グラフの完成図が提示されることになるわけであるが、このパートについては向井雅明氏の『ラカンラカン』(文庫版『ラカン入門』)に緻密にして明快な読解がある。

 

 

 

 

 

ヘーゲル、科学、そしてフロイト:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その1)

 

*「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(Subversion du sujet et dialectique du désir dans l’inconscient freudien, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 

 いわずと知れたラカン的カノンのひとつ。注釈書にも事欠かない。以下、冒頭のパートを段落ごとに要約する。

 

 精神分析という実践はひとつの構造をもつ。哲学者はこれに無関心ではあり得ない。

 

 哲学者は万人がそれと知ることなくかかわっている(intéressé)ことに関心をもつ(s’intéresser)。この言葉のおもしろさ(intéressant)は、この言葉が当を得ているとしても、[万人がそれと知ることなくかかわっていることというのがなになのかを]決定できないことだ。万人が哲学者にならないかぎりは。

 

 ヘーゲルが<歴史>についてそういっている。

 

 主体を知とのひとつの関係によって位置づけること。

 

 この関係は曖昧である。

 

 現代世界における科学の諸効果(≒影響力)とおなじくあいまいである。

 

 科学をなりわいとする学者もまたひとりの主体である。科学はひとりでこの世に生まれ落ちたわけではない(生まれ落ちるまでに中絶とか早産を経験していた)。

 

 じぶんのしていることを知っているはずのこの主体は、科学の諸効果において万人にかかわるものがなにかを知らない。すくなくとも現代世界においてはそうだ。現代世界においては、万人がこの点について無知である。

 

 かくして「科学の主体」が認識論のテーマになる。

 

 分析の終了においては主体が問題になる。この主体はヘーゲル的主体を覆す。

 

 精神分析の実践がそうした主体をもたらす。分析の終了についての科学的理論はまだない。

 

 英米における逸脱をみよ。

 

 くだんの覆しを定義しよう。

 

 科学の条件は経験主義ではない。

 

 科学的と称する既成の心理学がある。

 

 フロイト的な主体の機能は心理学を退ける。

 

 心理学は主体の統一性とか生体と心理の重なりを想定している。

 

 主体は認識主体ではない。

 

 認識は現実の鏡ではない。

 

 ヘーゲルも現代科学もそうした見解はとらない。

 

 深層心理学はフロイト的ではない。

 

 フロイトはヒステリーを催眠状態の観察よりも患者の言説から理解しようとした。

 

 フロイトは認識のパラノイア的構造も見抜いた。

 

 無意識は問い返す。

 

 主体に解釈を強いる。

 

 無意識の論理はつかまえにくい。

 

 それは類型化できない。

 

 フロイトの踏み出したコペルニクス的一歩を見極めること。

 

 それはたんに地球が中心という特権を剥奪されたということなのか。進化論が人間を特権的な位置から追い出したように。

 

 ここには利得あるいは進歩があるのか?[太陽中心説という]別の真理が顕現したのか?黄道は真なるもの(vrai)のモデルである。

 

 人間が最高の種でないと自覚しているのはダーウィンのせいではない。

 

 上位の諸真理とはなんのことはない、楕円軌道(省略 ellipse)がそれである。革命とは端的に天体の公転(révolution)のことである。

 

 ここに宗教が退けられると同時に知の体制と真理の体制がより密接に絡み合う。

 

 コペルニクスにおいてはいまだ二重の真理の原則が隠れ蓑になっていた。

 

 科学は真理と知の境目をふたたび閉ざしてしまったようにみえる。

 

 精神分析がこの境目をふたたび揺るがせる。

 

 ヘーゲル現象学を援用しよう。永久的修正主義という理想的解決である。そこにおいて真理は、それじたいが知の実現に欠けている要素として、不協和な要素を恒常的に吸収=解消する(résorption)。スコラ的伝統において原理的なものとされていた二律背反はここでは想像的なものとみなされる。真理とは、知がみずからの無知を作動させることによってしかそれを知っていることをまなびしることができないものである。この現実的な危機において、想像的なものは新たな象徴的形式を生じさせる。この弁証法が収斂し、両者が連結する地点が絶対知である。この弁証法は象徴的なものともはやなにも期待できない現実的なもの(un réel)との連結でしかありえない。つまりみずからと同一である主体である(自己意識存在 Selbstbewusstsein)。

 

  とはいえギリシャ数学に発する科学はこうした内在説を退けている。多くの理論は弁証法に吸収されない。

 

 物理学上の変革もそれを証している。

 

 精神分析はそれが孕む理論的希望ゆえに科学の世界において恐れられている。

 

 社会心理学に偏向した精神分析のことではない。

 

 ヘーゲルの絶対的主体と科学の廃棄された主体をともども参照することによってフロイトのもたらした劇変の真意がわかる。すなわち、科学の領域への真理の復帰であり、実践の領域への真理の復帰である。抑圧されたものは回帰するのだ。

 

 ヘーゲルにおける不幸の意識(ひとつの知の宙吊り)とフロイトにおける文明におけるいごこちのわるさ(主体と性とのねじれた関係)とを隔てる距離は明白である。

 

 心理学の「司法的占星術」とも「質」と「強度」の現象学的観念論ともフロイトは無関係である。フロイトにおいて無意識は意識のネガ(トマス)ではないし、情動は原初的な感情ではない。

 

 フロイト以来、無意識はシニフィアンの連鎖である。この連鎖は「別の舞台」のうえで反復され、しつようにあらわれて(insister)、効果的な言説がもたらす切れ目と[無意識に]固有の思考(cogitation)に影響をおよぼす。

 

女の謎:「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」

*「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」(Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 1960年9月にアムステルダム市立大学のシンポジウムで発表されたが、執筆されたのはその二年前であるという。セミネール第5巻に関連させて読まれるべきテクスト。われわれのバックナンバー「享楽の最初の一グラム」「女性性の本質化に抗して」を参照していただきたい。そこで問題になっているのは享楽という問題であり、それはまさに1960年代初頭のこの時期にラカン理論の中心的な道具立となりつつあった。

 

 同時代の対象関係論的潮流における理論的逸脱が指弾される。精神分析は父の抑制による去勢複合から、母の愛情の欠乏による欲求不満へと焦点を移動させてきた。女性における男根期の問題は現在ではなおざりにされている。クラインはエディプス的空想を母の身体におしこめ、父の名の射程を度外視した。

 フロイト的な共時性(同時的構造化)がジョーンズ=クライン的な発達の図式に対置される。「ファルスが象徴する剥奪(privation)の関係、あるいは存在欠如(manque à être)の関係は、要求(demande)に固有な欲求不満(frustration)が生み出す所有欠如(manque à avoir)へと逸脱することで形成される。そしてこの代理物(男根との比較によってやがて手放されるクリトリス)を出発点として、欲望の領野が新たな諸対象(その筆頭としては生まれてくる子供)をつぎつぎと繰り出し(précipiter)、いっさいの欲求(besoins)が関与する性的隠喩にとって代わる(récupération)」。

 「去勢は法の場としての<他者>の主体性を前提とするがゆえに発達から導出することはできない。性の他性はこの疎外によって変質をこうむる( se dénaturer 脱自然化する)。男性は女性が、男性にとって<他者>であるとどうよう、女性自身にとって<他者>となるための仲介(relais)となる。そのことにおいて転移に関与した<他者>の覆いの取り去り(dévoilement)は象徴的に命じられた防衛を変容させ得る。防衛はここでは、<他者>の現前が性的役割において解放する仮装(mascarade)という次元で理解される」。

 これは不感症の分析治療の効果に関連してのコメント。セミネール『無意識の形成物』において紹介されたリヴィエール論文「仮装としてのフェミニティ」においては、空想において父を去勢したことへの男性による復讐にたいする防衛としてフェミニティをひけらかす女性の事例がとりあげられていた。

 このような「覆い(voile)」の効果は、ファルス中心主義において女性が絶対的<他者>を体現する(représenter)対象となるというツケを支払うことの証左である。

 去勢において犠牲に供される(consacrer 聖別化される)男性性は、それが覆い隠すものゆえに女性の尊敬を勝ち得る。キリストの形象は<神秘>というもっとも奥深く隠されたシニフィアンの覆いゆえに女性を蠱惑する。

 それはようするにドラや「女性同性愛者」が[男性として]探求した女性性という神秘に収斂されるのであろう。

 「女性におけるイマージュと象徴は女性についてのイマージュと象徴と不可分である」。「分析可能なすべては性的であるということは、性的なものすべてが分析可能であることをいみしない」。いずれも女性性なるものを狙った一節であろうか。

 女性が去勢されていることは、夫への従属による“去勢”によって隠され、<他者>への忠実性は女性固有の忠実性によってみたされ、やはり隠されている。

 クライマックスとなるのは女性の倒錯へのコメントである。女性の倒錯は女性のフェミニティのみならず欲望そのものへのアプローチを可能にする。男性の倒錯は母親のファルスを保持するという想像的動機がある。それを端的に示すフェティシズムが女性にみられないことは、女性の倒錯においては別のことが問題になっていることを暗示する。

 ジョーンズは女性同性愛の考察において、女性の欲望を父というインセスト的な対象と女性自身のファルス(sexe)という選択に分裂させているが、問題は対象の分裂ではなく、むしろ対象の交代(relève)である。あるいは高尚な(relevé)「挑戦」(フロイトの「女性同性愛者」症例において用いられている語)というべきか。フロイトの「女性同性愛者」は、もっていないもの(ファルス)を捧げようとすることで「騎士道的恋愛」を体現する。彼女はファルス(sexe)を代償にインセスト的対象を選ぶのではない。彼女が受け入れないのは、この対象が去勢を代償にしてしかみずからのファルス(sexe)を保証してくれないことである。かのじょがみずからのファルス(sexe)を放棄するということではない。女性同性愛者の究極的な関心は女性性である。ジョーンズは男性の空想と、パートナーの享楽(他者の享楽)への気遣いの結びつきを見抜いている。 

 女性のセクシュアリティは受動性において捉えられるべきではなく、みずからの間接部(contiguïté。割礼はこれとの象徴的な別離である)が包み隠す(envelopper)享楽への努力として現れる。女性は、男性において去勢のシニフィアンがファルスとしてあたえられることで解放される欲望と「対抗的に」みずからを実現する(réaliser à l’envie du désir… 「ペニス羨望」のもじり)。フロイトが男性的なリビドーしか存在しないとしているのはこうしたいみにおいてである。