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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「死んでいる父」と「叩かれる子供」:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その6)

 

第7講(07/01/1959)

 

 依存神経症という観念は、欲求とその抑制的な影響力を見えなくしている。症状は欲求不満(frustration)という減算・中断の帰結ではないし、主体の変形ではない。想像的な欲求不満はつねに現実的なものに関係している。欲求不満の諸帰結と症状の間に欲望という複雑な弁証法がある。欲望は現実界の残す印象に由来するのではなく、人間にとって現実界想像界象徴界が結ばれる、より緊密な結び目においてはじめて把握され、理解される。それゆえグラフにおいて、幻想にたいする欲望の関係は、あらゆるシニフィアン的な言表行為の構造的な二本のラインのあいだに位置づけられる。症状、つまり抑圧されたシニフィアンの顕在的なシニフィアンへの隠喩的な干渉が欲望に由来するのであれば、欲望の位置をつきとめることがひつようである。

 「死んだ父の夢」において、欲求の主体は要求の連鎖(défilé)へと記入される。要求は単なる何ものかの要求ではなく、それが言語によってなされるという事実によって、<他者>の象徴化をともなう。<他者>とは愛を与える者であり、現前と不在によって定義される。<他者>が与えるものは与えることのできるすべてのものの彼方にある。<他者>はそれをみずからの現前のみによってあたえる。それは現前と不在の関係のいっさいであるところの無である。

 「死せる存在」は、死んでいるというかたちで存在のうちに保持される。この夢においては死せる存在(「欠けている存在」「主体的moins-value」)を不滅化する象徴的確認がなされていない。かれは死せる存在ではなく、知らない存在である。主体(息子)がかれ(父)を前にしているのはそのためだ。父が死んでいることを父に言ってはならないのだ。この禁止はあらゆるコミュニケーションの根源に宿っている。相手に伝えてよいこととよくないことがつねにあるのだ。ことは言説の抵抗にかかわっている。ここからこの夢がトロツキーの見た「ことのほか感動的な」夢(『亡命日記』)に送り返される。生命力の衰えを自覚したトロツキーは、夢のなかでレーニンに相手の死期を告げる。「死んだ父の夢」においては無知が他者に帰されていたが、主体自身の無知も存在する。主体は夢の意味(父の死を望んだこと)を知らないだけでなく、夢に感じている苦しみの意味も知らない。それは父の臨終に立ち会う苦しみであると同時に生存そのものの苦しみである。いっさいの欲望が生存ゆえに消失する際の苦しみである。主体はこの苦しみを引き受けるが、不条理なことに、この苦しみを、他者の無知によって、動機づけているのも主体じしんである。この無知は苦しみの理由ではない。この点でヒステリー発作における情動とは異なる。この苦しみを引き受けることによって、主体は無知となる。父の死と死の苦しみが主体じしんへの脅威であることについての無知である。主体は夢のイマージュによってこの脅威から逃れる。夢のイマージュは、主体が生存の終わりに直面するたびに口を開く深遠から主体を切り離し、欲望という安らぎをもたらす(apaiser)ものへと主体を結びつける。主体がみずからとたえがたい生存とのあいだに介入させるひつようのあるものは、ひとつの欲望である。どんな欲望でもよいのではなく、かれを長いこと支配していた欲望、いまでは克服されてしまったが、しばらく想像的に甦らせるひつようのある欲望である。父との競合関係の根底にある力関係においていまや主体が勝ちを収める。主体が勝つのは、父が知らないからだ。たいして主体は知っているのだ。これこそ、死の不安との対峙において開く裂け目に呑み込まれることを避けることのできる隘路である。主体にとって父の死は、死という絶対君主にたいする父という盾、媒介、代理の消滅をいみしていた。ここでふたたび幻想のシェマ(S barré ◇ a)が想起させられる。

 L図がふたたび提示され、a-a’が対象にたいする主体の関係を表すことが確認される。たいして 「S barré ◇a」は、想像的機能との主体の関係にたいする欲望の影響を示し、そこでは主体は不在である。欲望は人間にたいし、主体の省略(élision)という問いを提起する。

 要求する者としてパロールの次元に記入されることで、主体は献身性(oblativité)の対象に近づく。

 欲望として、つまり、話す存在としての人間の運命の充足において、主体はこの対象に近づき、袋小路にはまり込む。この対象にたどり着くことができるのは、主体じしんが、パロールの主体として、省略を被り、外傷の闇のなか、不安そのものの彼方へとおいやられる。さもなければ対象にとって代わり、ファルスというシニフィアンに従属することになる(去勢)。ファルスというフロイト的概念に反論することでジョーンズは袋小路に立ち至った。そこでジョーンズはファルスのイマージュに由来する抵抗という機能を強調することとなった。ファルスは他のあらゆる身体的イマージュの集合から差し引かれたイマージュであり、主体のシニフィアンである。

 呼びかけ(appel)と願い(vœu)のレベルを区別することでこれをより明確に説明できる。即自的な呼びかけ(「助けて!」「パンを!」)において、主体は欲求と同一である。しかし呼びかけは要求という quésitif なレベルで分節されるひつようがある。しかし祈願の(votif)レベルにある要素は、言語というフィルターに掬いあげられず、とうしょ欲求として表現されようとしていたものは抑圧を被る。quésitif なレベルで分節されるものは主体の経験に先立つコードたる<他者>のうちに残る。解釈において分析家は主体を要求そのものの構造に対峙させる。

 口唇期や肛門期において、要求は食物や糞便という取り外し可能な対象をめぐってなされるが、ファルスはシニフィアンであるかぎりでのみ取り外し可能である。欲望を完遂させるものは要求され得ないものである。神経症の本質は、欲望のレベルにあるものが要求として表明されることである。

ここでジョーンズによる性器的体制の記述が引かれる(男性性を実現できない患者は女性の性質を獲得する、云々)。インセスト的な体制とは要求の体制である。問題になっているのは欲望と要求いずれかの選択である。

 幻想が欲望の支えであることを示すべく「子供が叩かれる」が取り上げられる。この幻想の最初の定式は「父がわたしの憎む子供を叩く」。第二の定式においては「父が私を叩く」(原初的マゾヒズム)。マゾヒズム的幻想の本質は、物体として扱われること。第三の定式において主体の抹消(S barré)が実現する。神経症的主体はピカソのように「探さず、見出す」。幻想における主体の位置は不安定である。ここから夢の「内-主体的要素間の配分」がふたたび想起させられる。「死んだ父の夢」においてアクセントが置かれている情動は「苦しみ」である。どうように「子供が叩かれる」においては叩かれようとしている子供の幻想的イマージュに情動が照準を合わせている(この要素についてはのちに「不安の現象学」に即して再度論じられるであろうと予告される)。主体的不明確さの闇における不安と危険を前にしての主体の警告(設立=勃起)としての不安の区別については適切に認識されていない。

 『制止、症状、不安』においてフロイトはabwarten(subir)と erwarten(s’attendre à)を区別している。サディスム的幻想において情動は対象(a)に照準を合わせられる。くだんの幻想において主体はじぶんがどこに位置するのかを知るためにじぶんには欠けているなにものかの餌食になる。主体は折檻の道具の役割が典型的に示す二者の「あいだ」にいる。主体は「道具」と同一である。じっさい道具は、欲望の想像的な構造において本質的な人物として介入する。そこにおいて主体は廃棄され、その本質的存在において把握される。この本質的存在とは、スピノザが言うごとく欲望でる。

 セミネール『対象関係』において論じられた女性の男根期が参照される。そこでは母への憎悪とファルスへの欲望が問題になっている(ペニスナイド)。ファルスへの欲望とは、ファルスによって媒介された欲望である。ファルスと(a)が同一であるとは、想像的他者が、主体がもっている内なる欲動であることだ。根源的ないみでの<他者>への最初の同一化がかかわっている。ここで倒立した花束の図がふたたび召喚される。

 愛において男性は欲望の対象(ファルス)へと疎外されるが、エロス的活動においては、このファルスが女性を想像的対象に還元する。それゆえ男性における対象は二重性を帯びる。女性は男性において現実的ファルスを見出し、欲望を充足させる享楽の関係を得ようとする。しかし欲望の充足が現実的レベルでなされるとき、女性の愛(≠欲望)は欲望との遭遇の彼方にある存在に向けられる。ファルスのない男性である。話す存在として男性は去勢されている。

 

 

 

 

 

欲望の人質としての対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その5)

第6講(17/12/1958)

 

 「死んでいることを知らない父」の夢において、主体はみずからの無知を父に投影する。かれの欲望はこの無知のなかにみずからを位置づけることである。父の死によって、主体は死へと直面する。それまでは父の現前がかれを死への直面から守ってくれていた。「死に直面する」とは、父の機能に結びついたなにごとか、つまり去勢の意味作用との直面である。主体が引き受ける「実存の苦しみ」において現前しているのはそれである。

 

 「かれの願いによって」という文言の二通りの解釈。

(1)「かれの願いによって」かれは知らなかった(「かれの願いによって」は言表のレベルにある)

(2)「かれの願いによって」かれは死んでいた(くだんの文言は言表行為のレベルにある)

 

 (2)は父殺しへの幼児的欲望にかかわる。「資本家」たる幼児的欲望が現在の欲望という「起業家」によって夢を形成させている。

「かれは知らなかった」は、父の禁止の機能であったものを維持し、永遠化する。「かれは知らなかった」によって謎めいたものとなった夢の形式は、主体に欲望からの隠れ家を提供する。欲望を直視しなくて済む「道徳的な」口実を提供するのだ。欲望の消失についてはジョーンズが洞察を示している。

 欲望の対象は消失的な évanouissant な形式の下に現れる。幻想のシェマ(S barré ◇ a )が想起させられる。

 欲望の消失にかんして、ラカンが分析中の性的不能者への言及がなされる。ほとんどの性的不能者どうよう、この患者はまったく不能ではない。かれは愛の対象である妻とのあいだにだけ性交渉がもてない。

主体は欲望を予兆(signe)、約束、予見というかたちでみずからからとおざけ(aliéner)、[欲望の]「喪失」の可能性を生ぜしめる。「欲望は欠如の弁証法に由来している」。

 ジョーンズのアファニシス概念は、「主体は欲望の剥奪を恐れる」という定式において去勢複合を解釈したものである(当時の精神分析的言説にあっては去勢という概念が背景に退いていた)。ファルスにたいする女性の関係を、欲望にたいする人間一般の関係として捉えており、ファルスというシニフィアンにたいする男女間の不均衡が考慮されていない。

 欲望は生の欲望に還元されない。「エラン・ヴィタル」はアントロポモルフィスムに基づいている。

 人間は欲望を満足させることを望まないこともある。欲望を満足させてくれる他人への依存を幻想において厭うから。他人への依存への嫌悪は他人の気まぐれゆえではない。他人は気まぐれをひとつの徴となす。ところで主体の徴とは、主体の廃棄(abolition)の徴だけである。「対象(a)を前にすると主体の消失が起こる」。

 エディプス複合の正常な出口としての「転倒したエディプス」(自我理想としての父への同一化)において、主体が逃れ去る。父への愛を受け入れることは去勢[脅威]ゆえである。同性愛者は父への愛を去勢の脅威とみなす。対象の操作は欲望の中断に対峙するための細工である。

 対象は主体とシニフィアン弁証法に取り込まれている。ハンスの Wiwimacherの想起が促される。シニフィアンの介入が主体と対象の関係を不可能にし、対象の「移動」が起こる。人間の欲望は一つの対象から別の対象へと移行する。のみならず、移行じたいが欲望のか脆弱なバランスを維持する。移行はつねにひとつの対象を確保しつつ、満足を妨げる。その一方で、満足を換喩的に象徴化する(『守銭奴』の金庫)。対象の肛門愛的な保管によって欲望が存続する。対象は欲望の支えであり、「享楽」の対象ではない。財(bien)の享受(jouissance)とは、法的には他人が享受する財の保管をいみする(“他者の享楽”概念の萌芽?)。対象とは欲望の「人質」とは言わないまでもその「抵当」である。

 ここでひとしきり動物行動学への脱線。ブロス著『諸事物の秩序』が絶賛される。動物における象徴的活動は糞便的象徴というかたちをとる。河馬は糞によって縄張りを確保する。たいして人間にとって糞便は縄張りの「抵当」である。言語が関係するので、対象への人間の関係は複雑。『哲学の貧困』のマルクスは、使用価値から交換価値への移行において欲求の対象の消滅を見ている。親族の基本構造において、対象としての性的パートナー(女性)は、交換の対象となる。ジョーンズが『フロイト伝』において紹介しているマルタ・ベルナイス宛書簡において、フロイトは「社会化された対象」としての女性の役割を家具や置物と同列とみなしている。

 父への想像的同一化は欲望の問題を解決しない。自己愛は欲望の問題の解決の支えである。あらゆる対象は自己愛的構造を刻印されている。

 

コレクターとしての人間:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その4)

 

第五講(10/12/1958)

 

 否定(Verneinung)の Je ne dis pas は言わないと言いつつ言っていることにおいて「シニフィアンのもっとも根源的な特徴(propriété)」を体現している。フライデーの足跡はそれじたいでは痕跡にすぎず、それが消されるとき(十字が刻印されるとき)シニフィアンとなる。ピションは否定にかんして排除的(forclusif)と不調和的(discordanciel)を区別している。後者は ne 単独での用法に対応し(「虚辞」と言うべきではない)、それは言表行為と言表のはざまに位置する。言表行為のレベルでは否定はシニフィアンの分節そのものに向けられる(「私は私があなたの妻であると言わない」)。言表のレベルでは「私はあなたの妻ではない」となる。これはフランス語に特有の現象ではない。

 

 主体と<他者>の弁証法言表行為と言表弁証法に帰される。主体は思考が<他者>のディスクールであるがゆえにみずからの思考を<他者>がすべて知っていると想定するが、実は「何も知らない」ことを発見する。そして思考の「言われざるもの」(無意識)のうちにみずからの「存在」を見出す。哲学的伝統は主体を対象(客体)の影と捉えてきたが、精神分析は「語る主体」をそれに対置する。精神分析は対象との関係を欲望によって捉え直す。精神分析における対象は欲求の対象ではなくすぐれて欲望の対象である。「対象は主体がみずからの実存に対峙する際の支えになるものである」。この実存とは「もっとも根源的ないみでの実存」つまり言語のなかに実存しているということだ。つまり対象は主体の外部に在り、主体が対象をつかまえられるのは、主体がシニフィアンの背後に消失するときだけである。この「パニックの地点」において主体は欲望の対象としての対象にしがみつく。それは端的に「宝石箱を盗まれたときに守銭奴が失うもの」(ヴェイユ重力と恩寵』)である。あるいはより「高貴な」例を挙げるとすれば、蒐集家のコレクションである。ルノワールの『ゲームの規則』におけるオルゴール蒐集家が最新のコレクションを披露する際の「恥じらい」。対象にたいする主体の「情熱」において見出される「揺らぎの地点」。それは「欲望の対象」がまとうひとつのかたちである。「かれが見せるのはかれじしんのもっとも親密な核心であろうか。否。というのはこの欲望によって支えられているものは主体がじぶんじしんにたいして明かすことのできないものだから。それはもっとも大きな秘密というべきものである」。主体はみずからの願いを「秘密」として言い表す。

 ここで、接続法ではなく不定法を用いた願望の表現としてリーズ・ドゥアルムの詩(「密かな願い」)が引用される。Etre une belle fille / blonde et populaire / qui mette de la joie dans l’air…ここでは願望の主語(主体)が完全に省略されているわけではない。ここで願望は主体の前に(devant)表現(分節)され、遡及的に主体を定義する。ここで表現(分節)されているのは単なる願望ではなく、あるしゅの「存在」のなかで遡及的に主体を定義するものとして主体の前に位置するなにものかである。これはまったく en l’air な状態にある。願望されたものが表現されるのはすべからくこのようにしてである。ここで、『夢解釈』の結びの一節が引用される「破壊できない欲望が現在[原語はZukunft]を過去に似せてかたどる」。ここには反復や事後性といったこと以上のなにかがかかわっている。ロバの鼻先につり下げられた人参のようにそれは永久に主体の「前に」ある。

 「密かな願い」は願望を詩によって表現しているが、そもそも隠されたものをいかに他人に伝達し得るのか。なんらかの嘘によってである。詩では「わたしがブロンドで人気者の女の子であるという嘘と同じくらい本当」というかたちで願望が表現されている。「くうきのなかによろこびをおく」ことは換喩的な幻想の対象である。

 

 グラフにおいて欲望は、シニフィアンの連鎖において疎外される主体と、言われざるものの次元が導入される彼岸とのはざまに位置する。「死んでいる父の夢」における「彼は知らない」「彼は死んでいる」がそれぞれグラフの下段、上段に位置づけられる。みずからの正体を知らない主体は「彼は知らない」という意味不明な(inutile)言表のうちにみずからを位置づける。この言表は上段の「彼は死んでいた」によって支えられている。「彼は死んでいた」は話さない存在にとっては意味をもたない。動物は同類の遺骸に無関心である(犬には超自我はあるが無意識はない)。「彼は死んでいる」はすでに実存の秩序に導入されている主体を前提している。つまりシニフィアンの連鎖に組み入れられているかぎりで破壊不可能な主体を……。

 夢の「四つの要素」が二人の登場人物(主体、父)に振り分けられる。主体の側において「彼は死んでいた」は苦痛の対象である。父の側において「彼は死んでいた」は「彼は知らなかった」の内容である。「かれの望みによって」がこれに加わる。フロイトによれば夢の意味は「かれの望みによって」のなかにある。「彼は彼の望みによって死んでいた」が『コロノスのオイディプス』における「むしろ生まれなかったほうが」へ送り返される。

 オイディプスが「むしろ生まれなかったほうが」と言うのは欲望そのものへの罰としてである。夢見の主体の「苦しみ」は「実存の苦しみ」である。この苦しみを主体は知っていた。父がこの苦しみを知っていたかどうかはわからないが、息子がその苦しみを継承する。夢ではこの苦しみがシニカルで不条理に表現されている。『夢解釈』に言われるごとく「不条理な夢」はときとしてことのほか激しい「苦しみ」の表現である。

 主体は父が死んでほしいという願いがかつて父にではなくじぶんじしんに向けられた願いであったことを理解している。とはいえ、父の苦しみをじぶんがそれと知らずに引き受けていることは理解していない。「彼は知らなかった」というかたちで主体が父という対象の人格に帰している無知を、主体はじぶんが「生まれないほうがよかった」ことを知らずにいるために必要とする。実存の果てにあるのが実存の苦しみでしかないのであれば、他人の実存の苦しみとしてそれを引き受けたい。この願いのもっとも秘められた内容である最終的な謎を知るよりは……。この密かな内容とは父の去勢である。この究極的な願いは、父の死によってみずからに跳ね返ってくる。みずからの去勢にはなんとしても目を塞がなければならない。父を去勢する欲望は、欲望の構造のもっとも基底にある“シニフィアンによる去勢”という必然を隠蔽することに役立っている。この必然を表すのは「彼の望み」ではなく「によって」のほうの本質的な機能である。抑圧とは主体が無知という救いのうちに消失することである。抑圧の原動力は完全なかたちで現れるものでも完全なかたちで理解されるものではなく、「によって」という一個の純然たるシニフィアンの省略である。この「によって」が言表行為と言表の関係(一致ないし不一致)を規定する。かくして単独では意味作用をなさない「彼は知らなかった」のいみが夢の欲望において明らかにされる。

 

 次回はガリバルディの恰好をした父に会った夢における「フロイトの欲望」が明らかにされるだろう。「死んでいる父の夢」は死への主体の対峙を表す典型的な夢である。夢における死の出現は主体が死ぬ代わりに苦しんでいることをいみしている。この苦しみの背後に父殺しへの想像的固着(幻想)という罠が潜む(S barré ◇ a)。

 この公式の意味するところは以下のとおり。シニフィアンの行為によって抹消された(斜線を引かれた)主体は、他者(l’autre)の中にその支えを見出す。この他者は語る主体にとって対象そのものとなる。この他者は人間のエロスを支配する対象である。この他者はみずからの身体のイマージュである。ひとつの影にすぎないこの幻想のなかに人間の実存は支えを見出し、語る主体でありつづけることを可能にするヴェールを維持する。

 

 

タンタン・マニアとしてのラカン:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その3)

 

第4講(03/12/1958)

 

 快と欲望の区別についてのグラノフの発表を踏まえて快の定義が確認される。一次過程においては欲望が「細分化」されている。幻覚(局所論的退行)とは<興奮→運動>という回路(反射弓)が塞がれたとき、行き場を失った興奮が幻覚的表象に満足を見出すこと。幻覚をホメオスタシス的な電気回路(電流による「点灯」)としてイメージしたことはフロイトの独創である。フロイトは表象を「タイポロジー的空間」における刻印の連続として定義している(「シニフィアントポロジー」)。二次過程は動物における本能に対応するが、満足をもたらす対象はあってもそこへ至る道筋はあたえられていない。一次過程において召喚されたシニフィアンの「批判」は批判の対象となるものを除去せず、それじたいシニフィアン的次元にある現実指標によって複雑化する。表象は一挙に欲求を満足させるものではなく、スロットマシンのように正しい穴に球が入ると電球が点灯するのだが、正しい穴とは以前に球が入った穴のことである(一次過程において求められるのは新しい対象ではなく、再発見すべき対象である)。一次過程の目的が電球を点灯させることであるのにたいし、二次過程の目的は電球の点灯によってあらかじめマシーン内にストックされていたコイン(つまり現実)をじっさいに出すことである。

 

 『夢解釈』「願望成就としての夢」の章におけるアンナの夢(「アンナ・フオイト、苺、野苺……」)にフロイトは「裸形の欲望」を見てとっているが、この文における一連の命名はシニフィアン連鎖であり、それゆえ欲求(besoin)の対象をちょくせつ指し示すものではない。出だしの「アンナ・フオイト」はいわば電話における名乗りである。アンナの夢はグラフの上段、下段のいずれに位置しているのか。グラフの下段は連続的であり、普遍的ディスクール、要求(demande)をあらわす。これは完結した文(holophrase)に対応する。その典型は間投詞である。とはいえ「パンを!」という要求はその主体に送り返される。これがグラフの上段に対応する。この主体(言表行為の主体)はみずから名乗る(s’annoncer)ことなく、文がおのずから主体の名を告げる。対してランガージュ(言表)において人間主体はみずからをそのうちに算入する(se compter)。ビネが引く「ぼくには三人の兄弟がいる。ポールとエルネストとぼくだ」という文は言表の主体と言表行為の主体の混同を表している。幼児の発達におけるこの区別の獲得は、ピアジェの言う人称代名詞の使い分けについての諸段階よりも重要である。

 アンナは禁じられている(inter-dit)ものを言葉にすることで満足を得ている。抑圧の関与している大人の夢においては事態はより複雑である。「国王がばかだという人は誰であれ斬首される」という無意識的な検閲が斬首される懲罰夢を見させるというセミネール第2巻の例が想起させられる。ついでにタンタン・マニアぶりを発揮しつつ、検閲をかいくぐる別の仕方として「タピオカ将軍はアルカザール将軍ほどの人物ではないと言う者は誰であれ私が許さない」という文言が提示される。これはいずれの将軍の支持者をも満足させず、両将軍の支持者をそれ以上に満足させない(タピオカを擁護しているように読めるけれども、実際に「タピオカはアルカザールほどの人物ではない」と言っているからだろう)。アンナは「だめと言われている」シニフィアンが実際には言われ得るものであることを知っていた。「欲望の真理はそれだけで法の権威にたいする攻撃である」。「言われざること(non-dit)が言われざるままであるためにはそれを言表行為のレベルで言わなければならない」。言うことができるから言わずにおくこともできるということであろう。文法は接続法や「虚辞」によって言表行為と言表のレベルを分節している。子供はこの二つのレベルの区別を知らないので大人は何でも知っており、じぶんの考えも見透かされていると思っているが、やがてそうではないと知る。ここで話題は「死んでいる父の夢」(「父は知らなかった……」)とクロスする。知と死の関係という観点からこの夢が解釈されることが予告される。

 

 

主知主義的精神分析宣言:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その2)

 

 第2講(19/11/1958)

 

 「抑圧されたもの」「欲望」「無意識」――この三者の区別が問われ、グラフ上に位置づけられねばならない。グラフの上階と下階との関係は建築学的(architectonique)なモデルに則ってはいない。グラフはディスクールなので、すべてを一度に言うことはできない。ディスクールはすべからく<他者>のディスクールであり、それゆえ上階と下階の区別は恣意的であり、両者は相似的である。グラフの目的は「語る主体」とシニフィアンの諸関係を見せることである。言表行為(「パロールの行為」)の主体もしくは語る主体もしくは「真の主体」がグラフの上段に、言表の主体もしくは「語られた主体」もしくは shifter としての je がグラフの下段にそれぞれ位置づけられる。デカルト的「われ思う」(「自我の超越」のサルトルが援用される)、命令法における主体、”Tu es celui qui me suivras.” における je は shifter としての je ではない。フロイトによれば、主体は語りつつみずからの為していることを知らない。グラフ上段の Che vuoi? は「主体の話す行為にたいする<他者>の答え」であり、それは問いいぜんにあたえられている答えである。主体はこの答えを手にいれることができない。これは去勢に関わり、したがって分析の終了に関わる。

 

 『夢解釈』における Wunsch とは欲望そのものではない。Wunsch とは「言語化された欲望」「分節された欲望」である。性的欲望は Wunsch の逸脱した形態である。『夢解釈』第7版以後、フロイトは欲望は性的欲望に帰されないと明言している。

 「私はあなたを欲望する(Je vous désire.)」は「汝の意志が果たされんことを(Que votre volonté soit faite! )」の逆であろうか。否。「わたしはあなたを欲望する」と言うとき、欲望の対象とみなされている「あなた」は主体の「さまざまな欲望の共通項」にすぎない。この文は「あなたは美しい」と述べているにひとしく、相手の美が醸し出す曖昧な神秘に欲望が帰されているのであり、「わたしはあなたをわたしの根源的なファンタスムのなかに関与させる」と言い換えることができる。そのかぎりで欲望はファンタスムの構造に規定されている。

 フロイトは「無意識」を「抑圧されたもの」に帰している(メタ心理学論文)。そして抑圧されるものはもっぱらシニフィアン的要素である。第二局所論に欠けているのは「ランガージュの根本的に隠喩的な機能」である。

 

 

 

 第3講(26/11/1958)

 

 夢の基底であるかぎりでの欲望が定義されねばならない。夢における欲望はまず眠りつづける欲望、現実をシャットアウトする欲望としてあり、また死の欲望としてある(両者は両立可能)。Wunsch の主体は死の欲望において充足を得る。何にたいする充足なのか? 充足されていることにたいする充足である(il se satisfait de l’être.)。Wunsch の充足は言語的充足である。上の文における être の実体は être という語以外のなにものでもない。

 

 現代心理学における原子論にたいし、イギリス起源の観念連合理論(associationnisme)が擁護される。観念連合理論はもともと現実界シニフィアンの連鎖によって断片化され、構造化されている場ととらえていたが、新心理学はこの現実界を適応すべき環境(Umwelt)と誤解した。観念連合理論は主体の精神において諸観念の連鎖をみてとる。その諸観念は近接性つまり換喩のメカニズムにしたがう。精神分析と心理学のベクトルはけして逆向きではない。

 

 フロイト「無意識」論文において Triebregung と区別されるかぎりでの Vorstellungsrepräsentanz の概念がシニフィアンのそれに帰される。これが無意識の実体であり、「無意識の主体」を規定する。無意識は情動に帰し得ない(ラカンは「主知主義精神分析」を以て任じる)。グローヴァーの唾棄すべき論文は多くの論者と異なり情動を前景化させていない点で正しい。無意識のうちに実体としての情動はない。情動は欲動という量的観念に還元されている。「無意識」論文のいくつかのくだりが引用され、このことが確認される。

 

 「精神現象についての二原則」における「死んでいる父の夢」がとりあげられる。無意識的欲望が明確に示されているこの夢においてフロイト的な表象代表の概念が理解され得る。一次過程における欲望の充足(幻覚)はイマージュでも知覚でもなくシニフィアンに関わる。夢は wishful thinking ではない。くだんの夢が呼び起こす「苦痛」はそのような観念にふさわしくない。この夢においてはあるしゅのシニフィアンがその欠如によって生み出されるものであることが示されている(抑圧とはシニフィアンの減法である)。そのシニフィアンを補うことによって「夢の知性 Verständnis」(フロイト)を復元(解釈)できる。省略されている「彼が望んだとおり」というフレーズは、それじたいでは意味を欠いた空のフォルム(表象代表)であり、後続する文に依存する。つまり抑圧されるのはシニフィアンであり、イマージュでも対象でもない(マールブルク派の「イメージなき思考」への脱線のあと、ブレンターノの表象概念の影響がほのめかされる)。抑圧(フレーズの欠損)は新たな意味をうみだす(「意味の効果」「シニフィエの効果」)。欠如した項を空白、零(「零は無ではない」)で「置き換える」ことであるかぎりでこの省略は「隠喩的」効果をもつ。「夢はひとつの隠喩である」。

 

 「死んでいる父の夢」については本講義ではとりあえずこのことだけが確認され、つづきは次回以降にもちこされる。以下、今後の課題と『ハムレット』読解の序曲めいた妄言。

 

 夢の隠喩においてうみだされる新たな意味はそれじたい謎めいたものである。この夢における死者という「存在」は降霊術師の呼び出す「影」にもひとしい。「影」の話す言葉の真理は降霊術師にも口にできない……。

 

 ところで、くだんの夢における父との出会いというシナリオはファンタスムであろうか? 夢のファンタスムは白日夢におけるそれとは別物である。

 

 「彼は死んでいる」「彼は知らない」「かれの望みどおり」という三つのシニフィアンを主体の連鎖とシニフィアンの連鎖の経路の上に(「トポロジー的」に)位置づけねばならない。これらは抑圧されているが、夢のレベルではそうではない。

 

 この夢における無知と精神病における méconnaissance(「それについて何も知りたくない」) との関係は?そして日常生活においてもわれわれは半死半生の存在(demi-mort)と共存している……。

 

 

スピノザの徴の下に:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その1)

*セミネール第6巻『欲望とその解釈』(Le Séminaire Livre VI : Le désir et son interprétation, Seuil, 2013)

 

 精神分析は療法(thérapeutique)というよりも処置(traitement)であり、それが対象とするのはまず夢や機知などの「周縁的で残りものの」現象である。また広義の「症状」である。症状とはさまざまな「制止」のあらわれである。さらに traitement は構造を変容させるものである。とくに神経症という構造である。フロイトは当初これを防衛神経精神病として構造化した。精神分析はこれらの現象に欲望が作用しているかぎりで処置の対象とする。周縁的にして残りものである欲望はフロイトによってまずさまざまな症状のなかに発見された。症状を規定する重要な要素である「不安」は、症状にかかわる活動がエロス化されるというかたちで欲望のメカニズムにくみいれられる。神経症はまず防衛神経精神病と規定されたが、それは何からの防衛なのか。欲望からの防衛である。リビドーもまた「欲望の心的エネルギー」である。「エネルギー」は現実界象徴界の連結を導入するために不可避の概念である。精神分析理論がリビドー概念に立脚しているのはリビドーが「欲望のエネルギー」であるからにほかならない(こうしてセミネールの主題としての欲望に脚光があてられる。制止、症状、不安というフロイトの重要論文のタイトルを構成する各用語がここで出そろっていることにも注目しておこう)。

 

 ついでリビドーが[快ではなく]対象を指向するべくさだめられているとする対象関係論への疑義がなげかけられる(object-seeking / pleasure-seeking というフェアバーン的概念)。つづけて、詩における欲望の扱われ方が一瞥される。詩において欲望は「主体のシニフィアンへの諸関係」にかかわるとされ、「欲望との関係における詩作」という問題意識が提示される。詩において欲望がかかわるのは歌われる対象としてではないことが確認され、そのような「具象的」詩人の対極にある形而上学詩人ジョン・ダンにおいて「欲望の諸関係の構造」が探られねばならないとされる(この主題はじっさいには本セミネールのひとつのクライマックスをなす『ハムレット』の分析においてとりくまれることになるだろう)。

 

 ついで話題は哲学へ飛び、快楽主義的伝統における対象と快の一致がアリストテレス的な「主人の倫理」における快と善の一致を導いたとされ、それがカント的な実践理性と対置させられる。アリストテレスは欲望(エピテミア)という制御不能なものが自我の範疇からはみだすことをみてとり、これを獣性の範疇に組み入れた。アリストテレスにおける人間と主人の一致はこうして保証されている。獣性というかたちで倒錯という範疇を予見したことにアリストテレスのモダニティがある。そして、欲望を人間の本質として位置づけたスピノザ精神分析の先駆がみいだされる。このあとラランドの哲学事典の定義へのよりみちがあって、おもむろに欲望のグラフへとたちもどる。

 

 グラフの「構築」(≠「生成」)において主体がたどる諸段階は「発達」の諸段階ではなく、「論理[学]的」な世代交代である。第二段階までのおさらいは端折るとして、第三段階において本年度の主題である欲望がかかわってくる。欲望(グラフの第三段階における「d」)における言語の裂け目(béance)のなかに主体はみずからの「存在」を実現する。

 

 不透明な<他者>の欲望をまえにして主体は「よるべなさ」の状態に置かれている。これが外傷経験である。これは実存哲学における「不安の実存的経験」のような漠然とした性質のものではない。フロイトは不安を「信号」というコミュニケーション理論をおもわせる用語によって定義し、それを分節化され positif なものとみなした。欲望から不安が生まれるのではなく、[外傷体験における]不安から欲望が生まれるのだ。そして不安は自我における信号としてあらわれる。『制止、症状、不安』の読解が予告され、グラフの第三段階における理想我と自我理想の議論へと移行する。鏡像的な関係に亀裂を入れるのは象徴的な行為(action)である。自我が防衛の主体なのではなく主体が自我を用いて(avec)「よるべなさ」からみずからを防衛しているのだ。欲望が位置づけられるのは幻想(S barré ♢ a)においてである。「幻想の機能は主体の欲望にたいして適応(accomodation)、位置どり(situation)の水準をあたえることである」。かくして「人間の欲望は対象にではなく幻想に固着し、適応し、捕らわれて(coapté)いる」。

 

 ここでダーウィンが紹介している機知(?)で使われている overlooked という多義的な語への脱線。病気の老婆を「大目に見た」主体としての「悪魔」は名指されていないが、英語の話者には見当がつく。これはシニフィアンの置き換えというメカニズムそのものではないがそのヴァリエーションであるということらしい(この台詞が「なにくわぬ顔で」発されたこととダーウィンの「表情」論とのなんらかの繋がりをラカンは暗示したがっているようだが……)。もともとラカンがこの話を振ったのは『恋する悪魔』(グラフの Che vuoi? )があたまにあってのことらしく、とうぜんのようにグラフへの参照が促される。シェマ(グラフ)の効用は「現実界において起こっていることを示す」ことだ。[「感情」のように]おのずから伝達される何ごとかを表出するという仕方によってではなしに。そこにおいては主体が純粋なかたちであらわれる。ここでシニフィアンそのものの到来の条件であり、言語によって覆い隠されている最終的な項としての「死」が導入される。無意識という「知」を担う<他者>において主体とその「存在」のあいだに「距離」を導入するのが「存在の換喩」としての欲望である。かくして「主体とシニフィアンの関係」を指し示す欠如したシニフィアンとしてのファルスがつぎのようなアフォリズムによって召喚される。「欲望は主体における存在の換喩であり、ファルスは存在における主体の換喩である」。

 

 以上、第一講(12/11/1958)。

 

 

バルセロナにおける十の提言:「真の精神分析と偽の精神分析」

*「真の精神分析、そして偽の精神分析」(La psychanalyse vraie, et la fausse, in Autres écrits, Seuil, 2001 )

 

 1958年9月、バルセロナで行われた第四回国際精神療法会議における発表の要旨。『続エクリ』所収。向井雅明氏による試訳がある。

 「真の(vrai)精神分析を偽ものから区別するために真正な(authentique)精神分析という観念、および精神分析の経験において明らかにされた真理(vérité)に適う精神分析という観念を参照しよう」。「真の精神分析パロールにたいする人間の関係にその基盤(fondement)をもつ」。

 「主体の生物学的実体(substrat)」は分析においてその基底(fonds)にいたるまで関与しているが、このことは「多元的決定」によって説明可能。ここでは「多元的決定」という術語が『ヒステリー研究』において使用された[相補系列といった]いみあいで使われているが、後続のくだりではシニフィアンの多義性をあらわすために使用されている。まぎらわしい。

 一方で「文化主義」的立場も退けられる。フロイトの発見した秩序は社会的なものにも還元できない。圧縮と移動は、「生物のなかの、言語のためにある器官の生理学的はたらきそのものから不可分でさえある構造のなかにシニフィアン固有の作用を摂取」する。聴衆の精神療法家たちを意識した慎重な言葉遣い。

 「一般心理主義」には「人間中心主義」の残滓を捨て去っていない。これは「魂」の自律性という「霊的動物主義」(zoologisme spirituel)への後退である。フロイトは構造言語学を予言し、「発信にたいする受信の先行性」という現代情報理論の盲点を指摘した。重要なのは認識の主体ではなくパロールの主体、すなわち「ディスクールのなかでメッセージの発信者としてのみずからの場所を示す主体」である。フロイトの第二局所論はディスクールの抵抗と主体の抵抗との混同への解決策として提示されたが、自我の導入が混乱を増強するはめに。

 情熱(愛、憎悪、無知)とは「対象をもたない要求」である。ロゴスとファロスの関係。暗示と転移の区別(「欲望が実存的問いにおけるシニフィアンとして分節化されるべきなのは、無意識に由来する暗示の効果がみずからの幻影を追い払うのと同時である。この実存的問いが転移の領域である」?)。

 主体が<他者>の場に位置することが Wo Es war, soll Ich werden. のいみであるとされ、さらにこの倫理的命題が「汝の隣人を汝じしんのように愛せ」および「梵我一如」(Tât twam asi )に送付される。この「奇妙な」命題のいみするところが「汝じしんは汝が知らないがゆえに憎むこれである」であると解釈される……。

 欲望の倒錯性が指摘され、十八世紀における欲望の裸形化(dénudation)(「カントとサド」)を推進した啓蒙主義者の自然主義が現実適応を説くメインストリームの分析家の立場に帰される。啓蒙主義者は教会を批判したが、国際精神分析協会はひとつの教会となっている(フロイトによるナチズムの予言)。実践としては「外面的な非理性の深部に潜む理性に入り込むこと」が「~の精神分析」であると万人に認知されているのにもかかわらず、科学としては村八分(quarantaine)にされている精神分析の矛盾は精神分析家そのひとに原因がある……。