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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

コギトのパラドクス:セミネール第9巻『同一化』(その1)

*L'identification (1961-1962)

 

 ラカンの最重要作のひとつにしていまだ未刊行のセミネール。Michel Roussan 版にもとづき“超約”(「要」約でも超「訳」でもない)をお届けする。

 

 第1講(15/11/1961)

 

 これまでの八つのセミネールにおいては主体というテーマとシニフィアンというテーマが「拍動のごとくに」隔年で交互に扱われていた。本セミネールにおいてはシニフィアンにたいする主体の関係がテーマとなる。

 

 同一化というテーマに着手するにあたり、同一である(A=A)とはなにかが問われる。AがAであるのなら、なぜわざわざ分離してA=Aという命題を立てるひつようがあるのか?

 

 論理実証主義においてこれは意味をもたない命題として排除される。一方、ラカンパロールの経験からアプローチしようとする。

 

 自己(moi)の観念は語源的にも同一性(même)を示している(mihilisme)。ここでデカルトのコギトにおける「われ」が召喚される。コギトにおいては存在が主体に内在的であると考えられている。現代哲学はその乗り越えを図っている。デカルトのテクストにおいてコギトはじっさいにはわれわれがおもっているいじょうにfluent でありglissantでありvacillantであって、入り組んでいる。

 

 「伝統的な哲学における主体の観念を支えているのはシニフィアンの実在とその諸効果だけである」。「思考」もまたしかり。

 

 「私とはだれか?」という問題には無意識がかかわっている。

 

 問題は真理ということである。ラカンのある患者はラカンがなぜほんとうのことについてのほんとうのこと(le vrai sur le vrai)を言ってくれないのかという夢を見た。ほんとうの真理(vraie vérité)を期待するなど子供の態度だと言って済ますことはできない。ほんとうの真理はひとつの意味をもつから。精神分析の信憑性はもっぱらこの意味にかかっている。精神分析はほんとうの真理をもたらすものとして世に出た。

 

 分析家の言説のほんとうの真理はどこにあるのかと人は問う。哲学者にたいしてはこのことは問われない。たとえば哲学者(デカルト)は神に不確実な信仰しかもっていないとされるから。

 

 哲学者の信憑性を保証してきたのは二重の真理だ。真理という厄介な問題を持ち出したのは精神分析自身であり自業自得ではあるが……。

 

 コギトにおける主体の同一性の諸関係が検討される。デカルトを乗り越えることが問題ではなく、デカルトが突き当たった隘路から最大限のものを引き出すことが問題なのだ。

 

 コギトはマラルメの摩滅した硬貨のごときものだ。われわれの用に供すべくこれを復元しよう。「われおもうゆえにわれあり」の「われおもう」は思考ではない。

 

 思考は思考についての思考を前提しない。思考は無意識において始まる。

 

 思考は縮小された行為であるとする心理学的説明がある。フロイトもどこかで言っている。思考は自足的な自慰的満足であると(フロイトにはなんでも書いてある)。

 

 「われおもう」というパロールは「われあり」という現前を支えるにじゅうぶんであろうか。

 

 「われおもう」は「私は嘘をついている」と同じくらい論理学的に空虚である。「私は嘘をついている」と言う人は嘘をついていない。とはいえそのように言うことでぎゃくのことを述べているのであってみれば立派に嘘をついている(エピメニデスのアポリア)。

 

 この論理的アポリアはこの言述がそれじたいを対象としているという判断から生じる。そこでは[言表と言表行為の]二つのレベルの区別がなされていない。

 

 全称肯定命題(「すべてのクレタ人は嘘つきである」)の批判として存在否定命題(「嘘をつかないクレタ人は存在しない」)と同じであるというものがある。エピメニデスの言述のいみは、自慢ないしは警告である。

 

 全称肯定命題にはこのような斜に構えた意図がある。アリストテレスの「ソクラテスは死ぬべき運命にある」は解釈の機能について考えさせる。

 

 生身の人間ソクラテスの死はプラトンによる転移が蘇らせるその名声の不死を意味する。また、この言述は死への欲望(acting out)によって定義されるソクラテスの atopie を指しているともとれる。

 

 アリストテレスはこの言述によって知の発展にとっての障害となる転移を厄介払いしようとしていると解釈することもできる。しかしそのためにはプラトン以上の欲望の変形が必要である。近代科学は超プラトン主義から生まれたのであって、アリストテレス的な知の機能に回帰することによってではない。

 

 近代科学の誕生は神々の第二の死を必要とした。ルネサンスにおいて神々の亡霊が蘇り、<御言葉>がその真なる真理をわれわれに示したのだ。その真なる真理が追い払うのは幻影ではなく近代科学の揺籃である意味の闇である。

 

 「われおもう」は判断の意志的な次元を示す。コギトが「わたしは嘘をついている」のようなパラドクスに陥るのは言表と言表行為を混同しているかぎりにおいてだ。真理とはその本質からして彷徨っている

 

 「われおもうとわれおもう」とはドクサでありイマジネールな思考である。「かのじょがわたしを愛しているとわたしはおもう」があてにならないのは周知のとおり。デカルトにおいて「われおもう」はイマジネールであり、それはいかなるものの支えにもならない。

 

 「わたしは考える存在である」も私の実在を導かない。「わたしはいっこの存在である」は、おそらくわたしが存在するために本質的な存在であるということをいみしているだけだ。

 

 「私はわたしがかんがえている[嘘をついている]と知っている」。あるしゅの現象学における主体の観念を支えているのはこれである。精神分析はこの先入観を転覆させる。このような哲学のリミットの彼岸に無意識がある。

 

 コギトに発する哲学的問いにおいては唯一の主体があるだけだ。すなわち「知を想定された主体」である。

 

 ヘーゲル的な現象学においてこのような知を想定された主体は共時的な価値をもつ。絶対知へと導くとされている通時態を構造のひとつの結び目がシャットアウトする。「想定(subjicere)された知」をいかなる主体にも帰してはならない。知は間主観(間主体)的である。<他者>の知であるといういみでそうなのだ。<他者>は主体ではなく場所である。アリストテレス以来、そこに主体のもろもろの権能が転移されるべき場所である。絶対知は主体の知ではなく全知の<他者>の知であるかぎりで存在する。とはいえ<他者>は主体以上に知らないのだ。<他者>は主体ではないという理由によって。

 

 <他者>は知のこのような想定の諸々の表象代表のゴミ捨て場(dépotoire)だ。それが無意識とよばれる。主体は知のこのような想定において喪失される。

 

 主体はそれと知ることなくそれ(ça)をひきずっている。çaとは主体の現実がこれによって苦しむものから主体へともどってくる屑(débris)である。「まさにこれだ(c’est bien ça)」。あるいは「ぜんぜんこれ(ça)じゃない」。実はそれがまさにこれ(ça)なのであるが。

 

 次回はデカルトにおける主体の機能とその精神分析における反響が考察されるだろう。

 

 

ラカン対エリアーデ:「象徴およびその宗教的機能について」(1954年)

*「象徴およびその宗教的機能について」(Du symbole, et de sa fonction religieuse, in Le mythe individuel du névrosé, Seuil, 2007)

 

 1954年、宗教心理学会議におけるミルチャ・エリアーデとの討論。ラカンは十字架のヨハネ(saint Jean de la Croix)の『暗い夜』に言及しつつ、ヨハネ的な象徴が言語であり、その神秘主義が象徴的な次元にあることを一貫して主張している。

 言語は関係論的かつ普遍的である。関係論的であるかぎりにおいて「数は典型的な象徴である」。普遍的(universel)とは、ひとつの宇宙(univers)をなすということである。象徴は単独では存在しない。「夜」はすでに「昼」を前提する。

 パロール以前には「世界」はない。人間と現実界との共-生性(co-naturalité)。「自然」はパロールという行為(action)によってもたらされ、パロール以前には存在しない。

 言語は意味(文法)と形式(語の使用)とによって重層決定されており、重層決定されているものはすべからく言語である。

 十字架のヨハネが「水」と言い、「父」と「子」というとき、これらの語は象徴的に使用されている。「いぬ座は地上の犬と同じように犬である」が、物質的な同一性をいみしない。ここがフロイトユングを分かつ最大の分岐点でもある。

 十字架のヨハネの時代(16世紀)に自我が神学に導入された。フェヌロンが神を口にするとき、その対極に自我が想定されている。一方、神秘主義はいっさいの利己主義(amour-propre)の情念の消滅を前提する。そこでは実存の統一性(unicité)、つまり「存在」が問題になっている。存在は「パロールの支持体」としての「人間」に還元されない。存在はパロールの次元をはみ出す。十字架のヨハネの「至高存在」は象徴を逃れる象徴である。

 エリアーデはイマージュを象徴とみなしている。たとえば螺旋は生成の象徴である。それゆえラカンが象徴を言語に帰すことを危険視する。ラカンによれば、重要なのはむしろ言語と存在のズレである。イマージュの世界は象徴的に使用されるときにおいてのみ意味をもつ。エリアーデが象徴を前言語的な(pré-langage)レベルにあるとしていることは、すくなくとも象徴を言語の一段階と捉えている点において評価される。

 

 

メルロ=ポンティ追悼:「モーリス・メルロ=ポンティ」

*「モーリス・メルロ=ポンティ」(Maurice Merleau-Ponty, in L’Autres écrits, Seuil, 2001)

 

 初出は『レ・タン・モデルヌ』(1961年、184/5号)。のちに『続・エクリ』に収録された。

 『エピステーメー』(朝日出版社ラカン特集に邦訳があるほか、向井雅明氏による試訳が東京精神分析サークルのサイト上で閲覧できる。

 

 盟友メルロ=ポンティについてはその死去の翌週のセミネール冒頭においてオマージュが捧げられている。これについてはすでに触れた。

 

 ガリレオからフロイトへといたるシニフィアン的な「理性」に照らして知覚理論の限界が指摘される。初期のポンティは思弁的な実存の観念を退け、実存を身体というフィルターにかけることで反省以前の「現象の根源における現前の純粋さ」に至れるとかんがえていた。ポンティはこのフィルターが一元的なものであるとの信念(「共感覚」)を抱いていたが、ラカンはそれに疑義を投げかける。また、ポンティは現象がつねにすでに構造(ゲシュタルト)化されて生起するとしつつも、この作用そのもののうちに主体のあらわれをみてとらず、これを主体と対立させた。

 

 セミネール第1巻において、ラカンサルトルの対自存在が想像的な類似存在との関係にすぎないと批判していた(その一方で、サディズムマゾヒズムが契約関係、つまり象徴的な契機に支えられているとの見解が評価されてもいた)。『知覚の現象学』の「性的存在としての身体」のパートにおいて、ポンティは眼差しを介したサルトル的な対他関係を「身体と身体との直接的開示」によって乗り越えようとしているが、サルトルどうよう「性的存在のシニフィアン」たるファルスを無視しており、それゆえフェティシズムも去勢複合も視野に入ってこない。ファルスはそれが作用しないところにしかあらわれないという点において「現象」のレベルでとらえることができないものだ。

 

 つづく「言語(パロール)における表現としての身体」のパートにおいては、言語に「思考」(あるいは意味)が内在していないとされるが、「主体」が言語に従属するという観点には至っていない。ポンティはサルトル的な自我の超越を批判しつつも、主体の消失という認識にはついに至らない。同セクションの「命名」と「身振り」についてもポンティとラカンは立場を異にする。ポンティはいわば主体の鏡としてのサルトル的な他者の眼差しを他者の身振り(身体)にとって代えているのだといえるだろうが、ラカンによれば命名も身振りもシニフィアンの機能そのものを一回的に作動させる契機であり、個々の事物のそれではない(身振りが「了解される」とのことばづかいもラカンの気に染まなかったことであろう)。

 

 『知覚の現象学』においてはある心理学的実験が事例として挙げられている。暗室に差すスポットライトの光の輪とぴったり重ねて置かれた白い円盤が、白い紙と並べることでじっさいには黒かったことがわかるというものだ。この実験においては知覚する主体と知覚される対象の二者関係に焦点があてられているが、ラカンによればポンティはそこで光という<他者>の存在を見逃している。白と黒を対照させるのはシニフィアンの作用であり、それゆえ知覚の主体はそこでは消失している。

 

 さいわいなことに、『眼と精神』(および『見えるものと見えないもの』)の絵画論において、ポンティは知覚という枠組みを踏み出て「見えないもの」への探求に乗り出した。絵画における幻影がシニフィアンの機能に帰されることを精神分析家らに先んじて指摘し、そこに欲望の関与をみてとっている。そしてここにおいてポンティはくだんの「光」を再発見する(しかも神学的なコノテーションなしに)。「目は見ないためにできている」。『未来のイヴ』の欲望は、盲目であることによってではなしに、すべてを見ずにはいないことによって消滅する。かくして、いわばプシシェ~パンセ・ドゥ・クーフォンテーヌ~イヴというひとつの系譜が打ち立てられる。

 

 ポンティの影響はこのあとさらに『精神分析の対象』および『精神分析の四基本概念』において確認されるだろう。

 

 

精神分析的宴:セミネール『転移』

*『その主体の不均衡、そのいわゆる状況、およびその技法の展望からみた転移』(1960-1961)(Le Seminaire livre VIII :  Le transfert, Seuil, 1991)

 

 ほんらいのタイトルは、Le transfert, dans sa disparité subjective, sa prétendue situation, ses excursions techniques だが、Seuil 版には『転移』という恣意的に簡略なタイトルが付されている。

 

 これはミレール版の刊行から間を措かずに出版された膨大な正誤表 Le transfert dans tous ses erratas (E.P.E.L.)でも批判の対象とされていた。

 

 ミレールが『転移』のヴァージョンアップ版を公にしたのはそれに十年おくれてのことである。

 

 タイトルにいう「不均衡」とは、転移における分析家と患者の関係が非対称的であることをいみしており、それまでの転移をめぐる言説の前提への疑義がこめられている。

 

 前半のかなりのぶぶんがプラトンの『饗宴』への衒学的な注釈についやされる。

 

 「分析の先駆」(「フロイト的無意識における主体のくつがえしと欲望の弁証法」)たるソクラテスが導入した「エピステーメ」とは、いっさいをシニフィアンの秩序にゆだねることである。それによってソクラテスは知を無意識へと追放した。

 

 言説が真理の次元をうみだすのであり、そのぎゃくではない。ことばへの全権委任においてソクラテスキリスト教はつうじあう。

 

 『第七書簡』においてくしくもソクラテス的問答法が「もの(τὸ  πρᾶγμα)」をめぐっているとのべたプラトンフロイトの認識をさきどりしている。

 

 ソクラテスにおける死の欲望(コタール症候群の患者になぞらえられるのがゆかいだ)はシニフィアンの不滅性にこそ帰される。

 

 つまり、ソクラテス的主体の非在(a-topia)は欲望の純粋化(いっしゅのケノーシス)をいみする。

 

 それはたんなる職業倫理としての中立性とかストア派的な禁欲ではない。

 

 ソクラテスは発言にさいしてディオティマという“内なる女性”を召喚して主体の「分裂」を受け入れる。

 

 アリストファネスがかたる神話的なアンドロギュノスは完全な球体であり、これは想像界の充足性をあらわしている。

 

 アリストファネスはアンドロギュノスの腹部に男根をとりつけている。くしくもハンス少年がかれの「神話」においてしたのとおなじように。

 

 クローデルの<三部作>をもラカンはもじどおりの「神話」として分析している。

 

 ときあたかも『今日のトーテミズム』『野生の思考』が刊行されようとしていた時期である。

 

 ボロロ族のトーテムへの言及があり、サドの「野生の思索(réflexion)」が口にされる。

 

 フロイトが父のあらたな定義を提示しつつあったその同時代の作品であるという指摘をさしひくとしても、<三部作>がエディプスコンプレクスの戯画であるという観点じたいは凡庸である。

 

 これはいつぞやラカンじしんが揶揄していたデカダンス的なモダニティの定義に依拠している。

 

 「悲劇の死」なるおなじみの図式である。

 

 <三部作>注解の眼目はその「神話分析」的手法である。

 

 ラカンは<三部作>に『親族の基本構造』とおなじく“女性の交換”にもとづくひとつの構造をよみとっている。

 

 三つの世代のそれぞれにおいて、だれかがべつのだれかからその欲望をとりあげ、第三者へと贈与する。

 

 これは「去勢」そのものの定義でもある。

 

 もじどおり女性は市場でうりにだされ、せりにかけられる(金銭の流れと情動の流れのバルザック的なオーヴァーラップ)。

 

 第一世代においてはバディオンがシーニュをチュルリュールへと贈与する。

 

 第二世代においてはルミールがルイ(男性)をシシェルへと贈与する。

 

 第三世代においてはオリアンがパンセをオルソへと贈与する。

 

 これによって、[「否」という]シニフィアンの刻印によってじぶんじしんよりもたいせつなものを剥奪されたシーニュの犠牲(という価値もないそれ)が、弁証法的に第三世代において報われるといったキリスト教悲劇(ヘーゲル)のシナリオが完成する。

 

 法の樹立は法の創設者の記憶を消し去ることを条件とする。

 

 第二世代の「望まれない(non désiré)子」ルイの娘パンセにおいて「欲望」が復活する。

 

 そこにはルミールと、とりわけシシェルの女性の欲望が貢献している。

 

 「聖人」オリアンは享楽(jouissance もしくは joie)の所有にしがみついているだけである。

 

 しかり、聖人は享楽する。

 

 げんみつにいえば、享楽の使用ではなくその所有であろう。享楽は他者の享楽としてしかありえないから。

 

 享楽を「最大多数」なる他者(それはベンサム流の「フィクション」である)に帰した功利主義はまちがっていなかった。

 

 あるいは「カマキリの享楽」を想定することは許容される。倒錯が自然的であるという前提は措くとしても。カマキリはまた部分対象の普遍性にも示唆をあたえてくれる(ただしオスの頭部はメスカマキリにとってひとつの「全体」であることが示唆される)。

 

 聖人は「持てる者」であるからこそ、なにもあたえようとしない。

 

 しかるに愛とは、じぶんのもっていないものをあたえることである(ポトラッチとはちがう)。

 

 「アガトンよ、知というものが、満たされた盃から糸を伝って空の盃へと注がれる水のようなものであればどんなにかよかったろうね!」

 

 ソクラテスの真理はその無知にゆらいする。

 

 かれは恋についてなにもしらないからこそ恋のエキスパートたりうる。

 

 分析家の知しかり。分析家はくだんの盃の水のように患者に真実を授けるのではない。

 

 分析家は知を「想定」されたかぎりでの主体である(SsSという術語はまだつかわれていないが)。

 

 それはアガルマを内蔵すると想定されるシレノスの像にひとしい。

 

 しかり。クラインの考えとはことなり、分析家は対象(客体)ではなく、主体として転移に関与する。

 

 分析家とはなにか?

 

 分析家はこれまでつねに分析家ほんにんの実在に帰されてきたが、分析家とはひとつの「座」にすぎない。

 

 祈る者の立場がプリアモスを祈る者の典型たらしめるように、分析家はひとつのポジションにすぎない。

 

 たんなる「座」であるかぎりでそのじったいは空虚である。

 

 それはソクラテス的な非在(atopie)であり、いっしゅの“ケノーシス”である。

 

 転移の原動力はそのような純粋な空虚、すなわち分析家が体現する欲望である。

 

 そのかぎりで「分析家の欲望」が問題になる。

 

 転移の定義は、“分析家の欲望の対象たろうする者”を“みずから欲望する者”に「置き換える」ことである(それゆえひとつの「隠喩」である)。

 

 ディオティマによれば、神々はすでに知をもっているので知をもとめることはない。いっぽう無知な者はじぶんが知をもたないことを知らないので知をもとめない。

 

 エロスはその中間的存在(ダイモン)であるがゆえに知をもとめる。

 

 エロスが知をもとめるのは、知がもっともうつくしいものであるからだ。

 

 エロスの愛の神たるゆえんは、美をそなえているからではなく、美をもとめるがゆえである。

 

 かくして欲望は対象としてではなく、主体としてとらえかえされる、ということらしい。 

 

 

 分析家の欲望は、分析家の不安にかんけいしている(不安は待機 Erwartung を内包する)。

 

 分析において、分析家はじぶんの不安ではなく(それは Versagung の対象となる。この語は frustration と訳されるべきではない)、不安の「信号」をもたらす他者をあらわれさせなければならない。

 

 不安とはそもそも主体の内部にとどまる情動ではない。不安は「信号」であり、そのかぎりで他者にゆらいする。

 

 周知のとおり、不安は翌々年のセミネールのテーマとなるであろう。

 

 

 「8つの交点からなる最小限の構造」としての「欲望のグラフ」上に理想自我と自我理想の区別が確認される。

 

 さらに、おなじ区別を装置化した「倒立した花束」の図式(「ダニエル・ラガーシュ論」の刊行によってふたたび関心を喚起しつつあったようだ)が、エロスとプシュケーを描いたツッキのタブローにおいて“先取り”されていた(!)ことが指摘される。

 

 エロスの局部がマニエリスティックに描き込まれた花束によってこれみよがしに隠されているが、花束の背後にプシュケーがみようとするファルスはない(ファリックなのはむしろ刃物をふりかざしたプシュケーのほうである)。

 

 このタブローは精神(プシュケー)と欲望(エロス)のすれちがいを描いている。

 

 性的器官はシニフィアンに変換されて精神へともたらされる。シニフィアンに変換されるためには、現実的な器官は切り取られねばならない。

 

 かくしてひとがファルスを象徴的に見るところにファルスは現実的にはない。

 

  フェニシェルのいう Girl = phallus、あるいはハンスにおけるファルスの「取り外し可能性」はいずれもこのことをあらわしている。

 

 部分対象が全体性に還元されないことが再度確認され(哲学は部分対象を無視してきたと指弾される)、自我理想が「einziger Zug(唯一の線、特徴)」であるとの『群集心理学と自我の分析』の指摘に注意が促される。

 

 einzeiger Zug への「同一化」は翌年度のセミネールのテーマになるだろう。

 

 その「リビドー発達史試論」において喪が部分的な対象のとりこみであると指摘したとき、カール・アブラハムはすでにこのテーマを先取りしていた。

 

 エラ・シャープの症例においては「あれは犬だ」が einzeiger Zug にあたるらしい。

 

 パンセが盲目であるのはぐうぜんではない。かのじょは「みずからを見る(se voir)」という鏡像の無媒介性をのがれている。そのぶん、<他者>を媒介した「みずからのことばをきく(s’entendre)」。

 

 「人間はじぶんがみられていることをみてとるが、じぶんのことばがきかれていることをききとることはない」。じぶんのことばがきかれているのをききとるのは幻覚者だけである。

 

 パンセの「精神的盲目」が、プシュケー(精神)の“盲目”におくりかえされる。精神が視野をさえぎられているがゆえにパンセは欲望の具現となる。

 

 エロスのエロスたるゆえんは持てる者たる父ポロスではなく(ポロスはボアズとどうよう[父たることを]「知らなかった」男である)、持たざる母ペニアにゆらいする。

 

 自我をそれいじょう分析不可能な実体に帰して自我の同盟関係を治療の手段としたアンナ・フロイトとハルトマン一派が指弾され、ジョーンズ(「暗示の機能」)、ブーヴェ(「女性強迫神経症におけるペニス羨望の意識化の治療的波及効果」)、マニー=カイル(「正常な逆転移といくつかの逸脱」)、パウラ・ハイマン(「逆転移について」)、ナンバーグ(「転移の現実」)といった先行する仕事が俎上に載せられる。

 

 <三部作>注解のある回の冒頭で、死去したメルロ=ポンティへのオマージュが捧げられる。

 

 前年のセミネールにおいて「甘い生活」への言及が予想外に受けたせいか、ところどころで映画への小さな言及がある。フイヤード、フランジュ、ヒッチコックへの潜在的な参照に及ぶそれは、プラトンの洞窟への言及においてきわまる。

 

 岩波書店から刊行されている邦訳書はみたところいつもの誤植こそないが、訳語の不統一が気になる。

 

 

「精神分析はわれわれの時代の倫理たり得るか?」:ブリュッセル講演

 

*「精神分析の倫理ー精神分析はわれわれの時代が必要とする倫理たり得るか?」(Ethique de la psychanalyse ― La psychanalyse est-elle constituante pour une éthique qui serait celle que notre temps nécessite?)

 

 1960年3月9日、ブリュッセルのサン・ルイ大学哲学・宗教学部で行われた二部構成の講演の第一部。ウィニコット宛書簡において言及されていたブリュッセル講演がこれ。時期的には『倫理』のセミネールのちょうど折り返し地点あたりで、同セミネール前半のダイジェスト的な内容。タイトルはジョエル・ドール作成の書誌(E.P.E.L., 1994)に拠る。

 

 分析の経験は、哲学が現実を捉え損ねていることを教える。これが倫理へのアプローチへの出発点になる。ヘーゲルによれば現実的なものはすべて理性的である。しかるにその逆は真ではない。理性を用いる者たちは、現実的なものと理性的なものの一致を知らない。教師が教えるものは現実的であり、それゆえに効果をもつ。自我心理学には妥協とか社会的適応といった効果はある。しかしいわゆる効果に反比例して[性的]不能は深刻化する。人間は欲望をますます満たせなくなる。フロイトはここにひとつの真理をみてとった。欲望は単純なものではないということである。現代の分析家たちは欲望の重要性を捉え損ねている。フロイトは欲望を倫理[学]の新たな対象と位置づける。そのこころは以下のとおり。フロイト的無意識に固有な性質は翻訳可能であることだ。翻訳不可能な地点、すなわち症状の根源的なある一点においてさえ翻訳可能だ。解読されないものは解読可能である。すなわち無意識において翻訳されるものの機能をおびることによって表象される。翻訳されるものとはシニフィアンである。シニフィアンの二つの特性は置き換え可能であること(共時性)と連鎖をなすこと(通時性)である。シニフィアンのもっとも純粋な例は文字である。文字は一つだけではなにもいみしない。文字(または単語)の定義は一連の使用(emploi)によってしか効果をもたない。文字は既成の使用を変更することによってしか意味をなさない。あらゆる意味作用は既成の意味作用を分有する(換喩)。一方、新たな意味作用はシニフィアンの置き換えによって生まれる(隠喩)。かくして無意識はディスクールである。ディスクールとは、ランガージュの諸構造のある一定の使用(usage)のことである。とはいえそこに欲望がダイレクトに読みとれるというわけではない。無意識的欲望とは無意識のディスクールを担う者(=主体)が望むものである。その者は真理をいうことを強いられない。話すという事実そのものが嘘をつかせる。無意識的欲望はものじたい(chose en soi)とおなじく知り得ないが、ディスクールの連鎖というすぐれて「対自」(pour soi)であるものの構造をなす。親密なものの最極端(extrême de l’intime)にして排除された内部性(internité exclue)は哲学よりも精神分析になじみの領域である。神秘主義と異端の伝統に揺さぶられてきたベルギーにおけるような分裂がそこにあるのだ。パウロの書簡は真理の領域におけるこのような分裂を照らし出す。信仰は知を排除しない。信仰で問題になっているのはひとつの知である。「法は罪であるか?否。しかし法によらずして私は罪を知ることはない……」(ローマ書簡)。

 フロイトはマテリアリスト(実利主義者)であったが功利主義に訴えなった。功利性は貪欲な法が課す享楽の不満足という道徳とは無関係である。こうした法の起源をフロイトゲーテに倣って過去の重大な出来事の痕跡に見出そうとした。しかし個体発生は系統発生をくりかえすというときの「個体(onto-)」が曲者である。問題は個人としての存在者ではなく、存在への主体の関係である。この関係はディスクールによって形成されている。人類史のある時点でこの関係が変容を遂げたのだ。フロイト自身に獲得形質の遺伝をほのめかすくだりがあるとはいえ、フロイトが参照しているのは発生学ではなく、ディスクールにおいて主体を基礎づける伝統、つまりユダヤキリスト教的な一神教の伝統である(父の名)。『モーセ一神教』においてフロイトはみずからをモーセになぞらえたと言われている。しかしフロイトは家庭生活においては父親的ではなく、もっぱら分析家の集団(horde)においてエディプス的ドラマを生きたにすぎない。フロイトはむしろ<知性=母>、言い換えれば、<フロイト的もの>(la Chose freudienne)であった。<フロイト的もの>とはまずもってフロイトの<もの>、すなわち無意識的欲望の中心にあるものだ。『トーテムとタブー』における恐怖症的対象の考察がフロイトに父の機能を発見させた。この父の機能が欲望の全能(「思考の全能」というべきではない)を断念させる。父が禁止の機能を担えるのは、この父が死んだ父であり、かつじぶんが死んでいることを知らない父であるかぎりにおいてである。神が死んだ(それゆえすべてが許されている)と信じている現代人にたいしてフロイトは「神は死んだ。もはやなにひとつ許されていない」という事実をつきつける。エディプス複合の終焉は父の喪であり、これに際して愛されざる父への同一化(超自我)が起こる。神経症の構造は、法の場(lieu)であり座(siège)である父という象徴的な審級の逸脱、欠陥の名残(déchet)に由来している。これに現実的父(≠象徴的父)の影響が与っていることにフロイトは気づいていたが、現代の精神分析においては無視されている。フロイトは宗教性を倫理の核心に置いた。フロイトの弟子らは神々に欲望の隠喩を見出したが、フロイト一神教における不可視なものの優位(ロゴス)、信と法とにしか基づかない(それゆえ霊的なものである)父性に欲望の起源をみた。人間を重層決定するロゴスは上部構造ではなく下部構造である。フロイトヒューマニストでも進歩主義者でもなかった。それゆえにブルジョワ的な倫理を乗り越えた。道徳的秩序と国家への忠誠にほかならない共産圏の倫理をも含めて。古代的倫理の構成要素である至高善と誠実さと効用のいずれをもフロイトは退けた。快は善でも悪でもない。精神分析は現代における誠実さの希望(ユング)ではありえない。フロイトの教えは、罪悪感が無意識的なもので、それは根源的な犯罪に由来し、それをいかなる個人も贖えないということである。理性は人間の内奥に住まう。欲望そのものは分節不可能であるが、分節言語のなかに現れる(le désir est à l’échelle de langage articulé)。理性とは論理学的な整合性と考えられている。フロイトは無意識には否定がないと述べているが、一方で否定は無意識に由来するともしている。すなわち虚辞の ne に欲望が刻印されるのだ。欲望とその法則(règle)が結びつく「真理の結び目」がエスであるが、そこは存在者的な実体性ではなく存在欠如をその性質とする。

 

 

サントロペより永遠に:ウィニコット宛書簡

 

*ドナルド・ウッズ・ウィニコット宛書簡(1960年8月5日付)

 

 2月に受け取っていた手紙への返事が遅れたこと、および主幹を務める「精神分析」に掲載の「移行対象」論文の著者名のスペルミス(tが一つ脱落)を詫びたあと、ロンドン・ソサイエティーでの講演の依頼にたいして多忙を理由に断りの返事をしている。3月にブリュッセルで行われた二度の講演(「精神分析はわれわれの時代が必要としている倫理のひとつであるか」)、「倫理」のセミネール(野心的な主題が自画自賛される)と旺盛な活動の一端が報告される。ジョーンズ追悼論文が理解できないとのウィニコットの言葉に遺憾の意が表明され(「理解し合える点が多いと感じていたあなたからそのような言葉を聞くとは……」)、論文のポイントが懇切丁寧に箇条書きされる。ジョーンズの失敗は教訓的である。ジョーンズはファルス的象徴の概念を先取りしていながら、じぶんではそれに気づいていなかった。シニフィアン現実界の関係についてのラカンの考えを理解している者にはそれがわかるはずだとして論文の一節が引かれる。「思考と現実界の関係はシニフィアンシニフィエの関係とは異なる。思考にたいする現実界の優位はシニフィアンシニフィエにたいする関係においては逆転している」。アファニシスおよび剥奪(privation)の概念もラカンのセミネールに多くのものをもたらしたとされ、ジョーンズの洞察があらためて讃えられる。象徴理論を主題に選んだのにはセミネール出席者への啓蒙といういみもあった。セミネールの開講以来、ラカンのテクストはすべて教育の場を源泉としている。要求と欲望の区別を明らかにした「治療の方向づけ」しかり(The rules of the Cure and the lures of its power なるタイトル英訳が記されている)。「移行対象」概念にも必要性と欲望の区別を理解させる教育的効果があった。そろそろ業績を一冊の著作にまとめるべきときだとかんじている。アムステルダムで催す会合は女性のセクシュアリティがテーマになる。ジョーンズ以来ないがしろにされてきたいまひとつのテーマである。義理の娘ロランスが政治活動で逮捕、釈放される。同居中の甥もこのほどアルジェリア反戦活動で懲役判決を受けた。

 

科学モドキの洪水:「主体の隠喩」

 

*「主体の隠喩」(La métaphore du sujet, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 法哲学者カイム・ペレルマンの発表への回答として1960年6月23日にフランス哲学協会にて報告されたものに加筆。『エクリ』第二版の刊行時に「補遺」の一篇として収録された。

 隠喩と無意識との関係を見て取っていたとしてラカンはぺレルマンを高く評価していた。ペレルマンは隠喩をイマージュに還元しない。ラカンペレルマンが隠喩を(三つではなく)四つの項の関係としてとらえていることを評価する。父性隠喩もまた四つの項を関係づけている。ペレルマンは「譬えるもの(phore)」(シニフィアン)と「譬えられるもの(thème)」(シニフィエ)からなる二組のペアの「類比」として隠喩を捉えているようであるが、ラカンは隠喩を構成する四項を一つのシニフィエと三つのシニフィアンに振り分けるべきだとする。ラカンペレルマンバークレーから引いている「科学もどきの海」(a ocean of false learning)というフレーズを「海」「科学」「もどき」「x」の四項に分解したうえで、父性隠喩の式に当てはめ、絵解きしてみせる。波の寄せ返しと大聖堂の鐘の音(lear-ning, lear-ning…)の音素的交代という共通点が強引に読み込まれ、隠喩において問題になるのがイマージュではなくシニフィアンであることの傍証とされる。この隠喩において生産される新たな意味作用(x)は「もどき」としての想像界というそれであるらしい。

 このあと幼い「鼠男」の名高い呪詛(「おまえなんかランプだ、ハンカチだ……」)が召喚され、隠喩が呪詛に発していることがほのめかされたかとおもうと、同時期のセミネール『欲望とその解釈』で論じられた「犬はニャーと鳴き、猫はワンと鳴く」に立ちもどり、いっさいの言語活動を支えるノンサンスが確認され、ふたたびペレルマンがこんどはアリストテレスから借りたとおぼしき「人生の暮れ方」(=老年)という隠喩に寄り道したあと、さいごはお得意の「眠れるブーズ」(束=ファルス)で終わる。

 幕切れの一句は『四基本概念』におけるアリストテレスの参照を予告している。

 「唯一の絶対的な言表はその筋の人によって(par qui de droit)発された。すなわち、シニフィアンにおけるいかなる賽の一振りも偶然を廃棄することはない。その理由は、いかなる偶然も言語の(による)決定においてしか存在せず、それは自動運動(automatisme)とか偶然の出会い(rencontre)とも呼ばれている」。