lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

愛への愛としての喪:講演「私の教えていることについて」(了)

 承前。 

 

 ここでフロイトが「メランコリー」論文で語っている奇妙な喪に出会う。これを métamour と呼ぼう。メタ言語は存在しないが、メタ愛はあるのだ。愛が走り(se courir)また近道をとる(court-circuiter)のもこの同じ道である。その途上で愛の営み(ébats)からひとつの対象を生じさせるが、それはひとつの奇跡といえるほどに予想外である。この対象は欲望の苦しみ(affres)へとすでに約束されている。享楽すべきものを手にするまえに人間主体は愛されている。主体は隷属している。人間の人間性は愛に与えられているから。その代償は承知のうえだ。

 

 それ(ça)を携えて主体は他人の許へ赴く。この他人は主体にみずからの人格(personne)を贈与する。そこで主体は立ち止まる。なぜならこの人格こそ主体の愛するものだから。神への愛しかり。ある間違い(maldonne)から居心地のわるさが生じる。この間違いは経験を果てまで辿ったすえにいっしゅの悲しみを投げかける。歓喜の方へ、最初に約束された忘我の方へと。おそらく喜劇的でもある忘我。わたしは愛が喜劇的な感情であると教えている。とはいえ愛は喜劇という迂回によってすがたをあらわすのではなく、欲望という迂回によってあらわれる。喜劇と欲望は機知において溶け合う。喜劇的なのは愛が呼び出す器官(=ファルス)である。喜劇的なものが弾けるにはこの対象がどこかになければならない。アリストファネスにおいては舞台上にある。今日ではもっと慎ましくではあっても、それは現前している。『守銭奴』が喜劇であるのは気取った男が守銭奴に娘のことを話しているのに守銭奴は金庫のことだと思っている場面である。金庫は他人のファルスである。

 

 愛とは愛の要求(demande)にたいして応えるものである。愛への渇きを満たすことなく赤ん坊のすべての欲求(besoin)を満足させることはできる。しかし呼びかけにおける愛の要求にかんしては、欲求を満たす手への要求ではなく[母親の]現前への要求である。ママとパパという言葉を覚えることで赤ん坊ははやくも二つの音域を区別する。パパにたいしては母親[へ]の呼びかけにたいしてたんにすがたを見せること(pur retour)が割り当てられ、ママは父親が運んでくるおやつを補う。(コンテのメモには「最初に獲得される音素たちの交換可能な使用」とある。)

 

 慰めの分配者は物質的な満足の配給者とは別の他人だ。両方の役割が母親に期待されているが、母親は巧妙に登場をじらすことがあるだけに、前者の役割の方が評価される。じらしたぶんだけ愛のありがたさを感じさせるわけである。現実的な欲求不満に基づく象徴的贈与。(同一化への chute。)

 

 フロイトは現実の獲得の起源に、到達不可能な失われた対象を位置づける。たとえ現前していても、その記憶が対象を「別の場面」へと位置づけるからだ。亀裂はこの喪失の身代金である。対象とその喪失はその外延を同じくする。それらはあらゆる要求の共通分子にして共通分母である。分子はシニフィアンであり、その多数性によって主体を一なるものとして指し示す。分母すなわちシニフィエは、隠喩としての主体のシニフィアンであり、抑圧されたシニフィアンである。不用心にこの機能を対象に付与しないこと。前性器的な対象として性格づけられる換喩的な対象aが口の端に上るとしても。乳房であれば母乳をもたらすが、ウン… であればそのとばっちりを食うだけ。ひとは口に入れるものによって汚れるだけではなく口から出るものによっても汚れるもの。

 

 自己愛的なファルス的変種(アンドレ・グリーン)についてペローのシンデレラを想起せよ。口から飛び出した薔薇と蝦蟇が小箱のテーマへと導く。これらは要求の小箱である。表向きの要求はつねに欺きの元。要求とは偽りという根源的な機能においてあらわれた真理である。

 

 ことはこの無秩序を引き起こした謎の彼方、じぶんが愛を要求する他人のなかにつねに主体がそれと知らずに探してきたものにかかわっているのではないか。主体の欲望は何か。問いを発するこの欲望は無意識の真の真理であり、それは言うことができない。欲望が<他者>の欲望なのであれば、転移において主体は言説が住まいにやってくる場所である。三つの小箱のドラマがドラマであるのは、まっすぐな欲望だけが正しい小箱を選ぶことができるからだ。

 

 分析における主体の欲望は真の対象があたえられることを期待する。よい対象へのよい要求を見出すことこそ分析家の仕事である。

 

 わたしは枠組みを提示することしかできない。分析家の欲望とはどのようなものであるべきか。フロイトはこの問いに答えを出すことがなく、われわれをその問いから遠ざけた。分析家の欲望は分析における主体の善への欲望であろうか。

 

 性器的成熟は考慮に値しない。子供以外に欲望の対象はない。女性は子供を欲するが、それによって不感症を免れることはない……。スクリプトには「このあと意味不明の呟きがいくたりか」とある。

 

 男性にとっても女性にとってもファルス的欲望の機能はかくのごとし。さいわいにもファルスをそなえていないので女性はファルスを欲望することができる。なんとなれば男性にとって欲望が生へと向けられるためには去勢がひつようであるゆえ。要求の小箱における対象は死せるファルスである。強迫神経症者の愛は葬儀に似る。防腐処理を施されたファルスへのオマージュである。対象が死せる対象であることがわかっていれば、精神分析における成熟についてこれほど愚かしいことが語られることはないだろう。乳房は切りとられた乳房である。欲望は言語のしるしづけ(marque)へと向かう。

 

 セミネールの意義。われわれは精神分析によってしるしづけられている。そのことを知ることで、それは分析家の誤りそして先入観のしるしであることを免れる。したがう者には天国が約束される。運命のしるしづけのみならずしるしづけの運命が待つ。

 

 コンテのノートは最後のくだりをスルーしている。

 

表面としての人間:講演「私の教えていることについて」

 

 原題は<<De ce que j'enseigne>>。1962年1月23日(セミネール「同一化」第9回の前日)、 l’Evolution Psychiatrique の集会にて行われた講演。ミシェル・ルッサン版「同一化」は、テープから起こしたスクリプト(一部の晦渋なくだりは省略されている)とクロード・コンテによるノートを左右に対照させたかたちで付録として収録している。

 

 セミネールに出席していない聴衆を想定し、精神分析の始まり(敷居 seuil)から説き起こされる。ドイツ語でLust(快) とその複数形 Lüste(欲望)とは別物である。古代哲学からフロイトにいたるまで、快は原則にしたがう。快は緊張の解消をいみする。したがって緊張とは不快である(ファロスの緊張が不快ではないとしても)。

 

 伝統的心理学における全体性という観念は疑わしい。「現実的な個人」でじゅうぶんである。快原則は部分的なシステムとして作用する。

 

 「心理学草稿」におけるΨシステムがそれであるが、深層心理学の比喩によれば、無意識は湖(lac)の底にある。(『同一化』第12講で登場する同語源のlacune を含意する lacs なる語はこのくだりを踏まえている。ラカンはじっさいにはラテン語で lacus と言っていたのであろう)。

 

 しかるにフロイトにとって、無意識は二つの面(face)をそなえたひとつの表面(surface)である。

 

 ふたつの面のうちひとつ(善いそれ)は外部に対し、より無防備である他方は内部を向いている。無意識において起こるいっさいはこの表面のうちでネット状に展開する。これをいいあらわすにさいしてフロイトはブロックノートという比喩を思いついた。それは二つの次元をそなえている。たとえば胚「葉」(feuillet)のように。この「葉」に位置づけられるかそれをはみだすかが精神分析の製図法においては問題になる。

 

 解明すべきはこうした表面の構造である。

 

 この構造はシニフィアンの両義性を生み出す。

 

 Niederschrift(記載、「下に書かれた」)という表現が明かしているとおりだ。この表現は『夢解釈』に先立つ。『夢解釈』を読めば、「夢は自我の生産物」などという精神分析のイロハもわきまえぬものいいはできない(スクリプトは「分析的現実」論文への暗示とし、コンテのノートには「ブーヴェのことか?」とある)。

 

 シニフィエは無意識が記載される言語の効果にすぎない。無意識を情動に帰すこともできない。それは無意識の「メカニズム」を「マシーン」(フィードバック)に帰すことだ。

 

 フロイトは無意識の表象をマシーンとして図解した。快原則がそのようなものであるから。

 

 フェヒナーにも心的なものを恒常系とみなす発想はあった。フェヒナーはフーリエにおける周期性の機能を参照した。

 

 フェアバーンは快志向的(pleasure-seeking)リビドーおよび対照志向的リビドーを区別した。対象関係論はフロイト理論とはなんのかんけいもない。

 

 快原則は現実原則と弁証法的なかんけいをもつ。

 

 存在のもっとも美しい象徴は牡蠣である。牡蠣にも木にも快原則はかんけいない(フェヒナーへの暗示?)。

 

 リビドーの機能について問われるべきは現実界の末端、すなわち享楽とのかんけいであり、人間にとって享楽が現実原則への依存ではなく快原則への依存ゆえにとらえがたいものであることだ。フロイトはそれ(コンテは「享楽」ととる)を存在のコアに位置づける。セクシュアリティには無意識的備給のいっさいが積み込まれる。

 

 享楽の何たるかはわれわれの表面によって理解できる。われわれはみずからの身体を享楽する。身体とは何か。われわれはわれわれのものではない身体、他の身体をも享楽する。つかのま他人の身体がじぶんの身体として感じられることがあり得る。聖書にも『饗宴』にもそうある。アリストファネスふたなりの人間の神話である。神話は享楽の根本的な満足不可能性について教えている。

 

 分析家は(とくに女性の)オルガスムの機能不全を治療できなくなっている。抵抗は治療者の側にある。これは現在の「野生の」時代文化における性習慣にかんけいしているらしい。

 

 分析家は欲求の解消(écrasement du besoin)を享楽と区別せねばならない。性的欲求の(かつてなく大きな)叫びを鎮める(étouffer)ことが問題ではない。ぞんざいな性的関係こそ問題だ。これを考慮することは欲望の機能を理解することになる。[安易に]「卵」を「献ずる」(oblater)習俗への揶揄。

 

 oblater というわけで objet が問題になる。対象の観念を「他人への関係」に帰すことは大雑把すぎる。「固有の身体のイマージュ」との関係である。他人とイマージュは鏡のなかで入れ子状になっている。鏡はナルシシズムすなわち自我の原初的核のメディウムである。想像界は人間の現実を構造化し、そこにシステムΨの二次元の空間を具体化する。似た者に遭遇すると、人間はその周囲をめぐり、その視像(vision)を正面像(face)と横顔とのあいだにかけわたされた(tendu。コンテのノートでは tordu)ものとみなす。人間は正面像に反応する……しかしそれは禁じられた対象である……かくして「仮面」がひつようになる……。正面像が何であるかを知るにはニューギニアの仮面を見るにしくはない。

 

 ついで横顔。人間はイマージュを輪郭づけ(cerner)、その瞬間の調和のとれた形態をとりだす……。筋肉に命令を出す者がアニミズム的な悪夢の雌馬を乗りこなす騎士となる(?)。

 

 ケンタウロスのようなハイブリッドな存在は、 ganz と alles を区別するとき、その同一性(mêmeté)を回復する。(コンテのメモによれば、ケンタウロスは古代の論理学において本質と存在との違いを説明するためにもちだされた形象。)ちぐはぐな存在は一瞬パニック状態をつぎはぎする。人間にとって理想我と自我理想の結合において何かが残る。

 

 表面の主体はみずからを自足した単一性(unité)として見ることのうちにはじめてみずからをみとめる(s’identifier)。この単一性は主体の ex-sistence の残部である。他人の身体が主体にとってみずからの身体以上にちかしいものであることを忘れる手立て(parti)である。主体はこの他人が他人になってしまうまえにみずからを愛するようにこの他人を愛することがあり得たのだ。主体にとってみずからよりちかしい存在であり得たのだ。

 

 ピンダロスの言うごとく人間は「影の見る夢」である。

 

 主体はこの他人を鏡のように利用してそこにじぶんという表面を投影し、そこに名をもたないもの、享楽の終焉というべきものが描き出されるのをみる。

 このものは、生の自己愛的固着の内部にはない。いかにたどりつけないものではあれ、享楽は死の危険として感知される。他人の身体を享楽できないのは、享楽することで他人の身体を餌食とするからであり、影にすぎないとはいえ、みずからの身体を餌食にすることであるからだ。

 

 現実界への接近は、身体が形態の移動(transition)にすぎないことを悟らせ、他の身体を再創造することにしかならないことを悟らせる。他の身体とは欲望の支えとして供される対象である。

 

 身体の生はみずからの無化という反復的な循環に供される。無意識とはある場所である。その場所から主体はじぶんの何たるかについての無知を見る(vit 生きる?)。主体とはみずからの先取りされた死である。人間にとっての唯一の選択肢は、みずからの反映を愛するか、もしくは愛する者を殺してみずからの死へ至るかだ。(次号につづく)

 

 

誤りとしての主体(承前):セミネール第9巻『同一化』(その9)

 

 第XII講(07/03/1962)

 

 前号の続き。 

 

 本日をもってわたしは「予知(pressentiment)の時代」の幕を開ける。しばらくのあいだ、誤りと正しさ(à tort ou à raison ならぬ à tort et à raison。もちろん tort は tores に掛けてある)の二重の側面からのアプローチをこころみたい。 

 

 トーラスをご存知だろう(ドーナツ状の図が板書される)。幾何学者にとってトーラスは回転(révolution)の図であり、軸の周囲の円周を回転することによって形成される。一周するとあなたはフラフープのようにトーラスの中にいる。幾何学的にはトーラスは回転の表面である。軸の周囲の円の回転の表面だ。閉じた表面である。

 

 これは主体の機能における表面にかかわるだけに重要である。そのことは講演「私の教えについて(De ce que j’enseigne)」で述べた。

 

 こんにちではさまざまな空間や無数のディメンションの理論が流行している。数学的観点からは無条件にそうしたものを信じるべきではない。

 

 哲学者の考えでは、現実界という観点からは、三次元にしてからが信憑性に欠ける(本講冒頭の議論参照)。主体にとっては二次元で十分である。

 

 深層心理学にたいするわたしの留保はここに由来する。トポロジー的な観点からは主体は無限に平らな存在である。

 

 フロイトが提示するかぎりでの同一化という事象に真の価値を与えたいなら、ここから出発すべきである。

 

 とはいえ、内部がなければ表面はあり得ない。

 

 球や平面にたいするトポロジーの独自性は前述の講演でのべた lacs (欠如 lacune)ということばにある。

 

 トーラスは球や平面とちがって lacs にかんして同質的でないという利点をもつ。

 

 表面に小さい輪をつくり、それを無、一点に帰すことができる。

 

 それゆえ超越論的感性論が存在する。ただしカントの超越論的感性論はよくない。それは空間ならざる空間の超越論的感性論であるから。また、表面記されたものが一点に還元され、円の規定する内包の総体が任意の一点の消失する単位に還元される可能性に基づいているから。すべてがすべてに重ね合わされる世界なのだ。すべてを手のひらにのせることができるような。言い換えれば、なにをそこに描こうとそこに落ち込み(collapse)ができる。シニフィアンの観点からはそれは同語反復である。すべてがすべてに帰され、その結果、ひとつの問いが提起される。純粋に分析的な構築(constructions)によって、数学どうよう現実界と競合する構築物(édifice)を生み出すことができるかという問いである。

 

 トポロジーの構造は主体の構造であり、そこには削除不可能な固有のlacs が含まれる。

 

 トーラスを輪切りにすると「充満した円」をいくつもつくることができる。その内部は直観に委ねられる。超越論的感性論は直観を根底とする。直観については数学者たちの論争がある。ポアンカレらは直観的要素を除去できないとする。公理主義者はトポロジー的直観は不要だとする。直観なしにトポロジーの科学はない。

 

 トーラスの構築についての基本的な真実がある。球や平面には地図が描ける。地図を塗り分けるには4色で済む。トーラスのばあい7色ひつようである。トーラスにはそれぞれの領域が別のすべての領域と接点をもつような六角形を7つ描くことができる(?)。

 

 (これは現実界の一貫性にかかわるらしい。)

 

 ドーナツ内部の空っぽの円がまんなかの穴をめぐっている。重要なのはこのような穴を穿たれた構造だ。それはハンス少年の小さなキリンのようにいくらでも歪めることができる。

 

 ドーナツのなかのコイル状の一連の周回は1なるものの反復である。回帰するものは反復強迫のシフニフィアン的関係において原初的主体を性格づける。

 

 かくして主体はいちれんの要求をへめぐるが、そのとき計算を1だけあやまつ。ここに無意識的な(-1)がふたたびすがたをあらわすのであるが、これは主体の構成要素である。主体が数え損ねる周回はトーラスの一周である。充満した円(=ドーナツの内部)と空虚な円(=まんなかの穴)というふたつの lacs のうち、後者は欲望の機能にかんけいしている。この穴が充満した要求の円のすべてを結びつけ、輪を形成させている。そのかぎりで換喩の対象a とかんけいがある。空虚な穴はこうした対象である。欲望がこれらの円によって象徴されているのではなく(ジョーンズの名がほのめかされる)、対象そのものが欲望に供されるのである。

 

 さいごに種明かしがなされる。トーラスの充満した円のひとつに沿って鋏を入れると両側に穴の空いた腸詰が得られる。ふたたび鋏を縦方向に入れて展開するとトーラスにひとしい平面を得る(『エクリ』553ページの「シェマR」)。向かい合う辺の各点が反対側の辺の点のひとつと繋がっている。

 

 というわけで、ただひとつの lacs にほかならないものが二度鋏を入れることでしかるべく切断されたトーラスのうえにあらわれる。斜めの線が円のみっつめの空間を定義するが、これが主体の構造である。一周しかしていないのにたしかに二周しているのである。充満した円を一周することで同時に空虚な円を一周しているのだ。算入されないこの一周こそ、主体が、無限に平面的であるという主体固有の表面の必然によって内包する一周であり、主体性が、ある迂回を経ることによってでなければ把握することのできない一周である。この迂回は<他者>という迂回である。

 

 以上をもって√-1についての受講者の質問にたいする回答があたえられた。

 

誤りとしての主体:セミネール第9巻『同一化』(その8)

 

第XII講(07/03/1962)   

 

 冒頭、前夜逝去したルネ・ラフォルグへのオマージュがささげられる。

 

 哲学者にとっても分析家にとっても主体は誤るということが創設的な経験。分析家にとっては、主体が「言われうる」ということが関心の対象。

 

 “知の手段の修正”は、われわれを絶対的なものからとおざける。ここで問題になっているのは現実界である。現実界とは絶対的なものである。

 

 科学批判の哲学的パースペクティブにおける「外見」という語に注意せよ。現実界にかんして「外見」は退けられるべきものではない。『論理哲学論考』の立方体の図には、立方体の「現実」があらわれている。

 

 このイマージュを視覚的幻影の機能に帰すことは、立方体の「現実」から遠ざかることになる。

 

 女性への関係もしかり。女性への関係を科学的につきつめるとモーロワのブランブル大佐のごとく女性をアルブミノイドの塊に還元することになる。これは欲望の対象がもたらす「めまい」を説明しない。

 

 女性のリアリティはそこにはない。性的魅惑を科学的に解明しようとすることはその幻影(leurre)を問いに付すことになるが、この幻影こそが性的魅惑の現実そのものなのだ。とはいえ、欲望に関心を向ける分析家にとってさえ、間違い(erreur)という語は依然として意味をもつ。

 

 すなわち計算における間違いである。言い換えると、数えない主体にとっては間違いはありえない。

 

 ここでピアジェ『子供における数の発生』『クラス、関係、数』が参照される。クラス、関係、数のあいだの構造的関係は子供にアプリオリにそなわっている。

 

 子供は何かを集める以前から数を数えている。子供はその sensorium と運動機能によって数える(comput)関係に主体として関与させられている。

 

 

 フロイトはそれに気づいている。フロイトにとって sensorium はいかなる機能をもつのか。主体の計算においてすでに存しているものは現実的であり、たしかに存在しているということを示してくれるのだ。はじめて「存在判断」ということを述べたのはフロイトである。「存在判断」は計算の正しさを確認する。

 

 主体にとっての計算の基盤となるのは trait unaire である。 trait unaire とは差異である。この差異は1+1+1……を支える(supporter)だけでなく、推測する(supposer)。ここで「+」とは差異を示すものにほかならない。加法によって「2」や「3」が意味をもつという問題が生じる。ジョン・スチュアート・ミルのように「3」を出発点にすると、永久に「1」にたどりつけない。

 

 言語という事象をシニフィアンの効果として考えよう。これは換喩のレベルにある。数のあらゆる意味作用において換喩の効果を認めることは分析家にとっては容易である。この換喩の効果は同数のシニフィアンの継起によって生じる。

 

 いくつかの trait unaire の継起によってのみ意味をなすなにごとかが起こるかぎりで、たとえば3という数字が意味をもち得る。

 

 フロイトの推論において、trait unaire はこの原初的経験にとって根源的なことがらを示している。すなわち反復における周回の単一性である。

 

 無意識における反復の機能は、あらゆる自然的な循環とは絶対的に区別される。強調されているのがその回帰ではないといういみにおいて。つまり、主体によって探求されているものは、そのシニフィアン的単一性である。反復の周回のひとつが主体に印を穿つ(marquer)。主体は反復することしかできないものを反復する。それは永久にいっこの反復でしかない。反復は、周回によって原初的単一性(unaire)を現出させることを目指している。

 

 主体が数を数えることができるようになる以前から、それは作用している。主体はそれと知らずに反復している。反復という事実はこの原初的な一なるもの(unaire)に根を下ろしている。この一なるもの(unaire)はフロイト的ないみにおいて反復するものと考えられている主体の構造そのものにむすびついている。

 

 主体の機能に不可分の必然性において主体が計算間違いを犯すかをあるモデルによって示そう。主体は数えるできるひつようはないし、数えようとするひつようさえない。それにもかかわらずこのような計算間違いが主体の構成要素である。「間違い」というのはそのようないみにおいてである。

 

 この誤りは永続的であり、それなりの根拠をもつ。この誤りは個人にたいしてのみならず思考にたいしても影響を及ぼす。

 

 思考というテーマにたちどまろう。話を人間の思考にかぎる。われわれはクラスの機能およびそれと普遍的なものとの関係を問いに付し、その逆と反対物を導こうとしてきた。

 

 ここでパースのカドランを想起しよう。そこには普遍と特殊、肯定命題と否定命題の関係が示されていたのであった。

 

 単一性(unité)と全体性(totalité)は伝統的には結びついているとされる。この前提にたちもどろう。単一性と全体性は内包(inclusion)の関係によって互いに結びついていると同時に、全体性はさまざまな単一性に照らして全体性である一方、単一性は単一性をある全体の単一性とは別の方向へ向けることによって全体性を基礎づける。

 

 クラスの論理の誤解がここから生じる。外延(extension)と内包(comprehension)をめぐる誤解はアリストテレス以来解決されていない。

 

 とはいえ、クラスの構造そのものにおいて、新たな考え方が準備されている。根源的な関係としての排除の関係を内包の関係にとって換えることだ。論理学的に主体にとって根源的なことがある。すなわち、クラスの真の基礎はその外延でも内包でもないということ。クラスはつねに分類(classement)を前提していること。すなわち、たとえば哺乳類は mamme という唯一の特徴によって脊椎動物から排除されるものである。

 

 つまり、唯一の特徴が欠けることがあり得るということが出発点になる。まず mamme の不在があり、ついで mamme が欠けていることはあり得ないということが帰結する。それによって哺乳類というクラスが構成される。

 

 それがクラスの唯一の定義である。それにつぎのふたつのいみで真に普遍的なステータスを保証しようとするのであれば。

 

 一方で、その非存在の可能性。該当する要素のないクラスを定義することは可能。それにもかかわらずそれは普遍的に構成されたひとつのクラスである。

 

 この極端な可能性を、経験に由来するいっさいの帰納的な推論を超越するものとしての普遍的判断の規範化する価値と和解させることによって。

 

 それこそくだんのカドランにおける垂直線のクラスのいみだ。

 

 主体はまずこのような線の不在を構成する。そのものとしては、主体は右上の(垂直線も斜線もない)マスである。動物学者は、あらゆる母親の mamme を確認することで哺乳類のクラスを切り出すのではない。 mamme を切り離すことによって mamme の不在を同定し得るのだ。このばあいの主体そのものは(-1)である。

 

 排除されているかぎりでの唯一の特徴を出発点として、動物学者は、普遍的にmamme の不在があり得ないひとつのクラスがあるとする(-(-1))。左上[2]のマス。

 

 そこを出発点とするとすべてつじつまが合う。特に、特殊命題のケースにおいて。任意のケースにおいて、それがある[左下3]もしくはない[右下4]。

 

 矛盾する対立が斜めに構成される。そしてそれが trait unaire による普遍-個別、否定-肯定の弁証法の設立の水準にある唯一の真の矛盾だ。

 

 それゆえ、すべては下の部分の任意の要素(tout venant)において整合する。そのような要素があったりなかったりするが、それは trait の排除によってtout valant あるいは valant comme tout が上の部分の階に形成されるかぎりにおいて。

 それゆえ剥奪(privation)を導入するのは主体である。それはつぎのような言表行為によってなされる。「se pourrait-il qu’il n’y ait mamme?(ひょっとしてmamme があるなどということがありうるだろうか)」。

 

 この ne は否定ではない。いわゆる虚辞の ne にひとしいものだ。「ありえない。おそらく何も」。ここに現実界についての主体のいっさいの言表行為がはじまる。

 

  マス[1]では「無」の諸権利を保持することが問題になっている。というのは、無こそが、下のマス(3,4)に、「あり得る(peut–être おそらく)」を、つまり可能性を創出するから。超越論的なものについての抽象的な推論が誤って言うごとくに「あらゆる現実界は可能である」とは言えない。「あり得ない(pas possible)」を出発点としてはじめて現実界は場をもつのだ。

 

 主体が探し求めるものはまさにありえない(pas possible)ものとしての現実界である。この例外があってこの現実界は存在する。いっさいの言表行為の起源にはなにほどかの「ありえない」(du pas possible)しかない。それが理解されるのは、この言表行為が発する「無」という言表によってである。

 

 それはけっきょく「剥奪-欲求不満-去勢」の三項図式においてすでに明らかにされている。

 

 では Verwerfung はどこにあるのか。その前にあるのだ。とはいえそこを推論の出発点とすることはできない。主体はまず(-1)として形成される。それゆえ、主体は「排除」されたものとして再発見されるのだ。それを証明するために本日は離れ業に訴える。

 

 ローマ講演ですでに暗示しておいた。輪としての主体の構造のことだ。昨年、『饗宴』の球の神話にそくしてふたたび話題にした。

 

 球は鈍い対象だ。すぐれた形だが間が抜けている。球は宇宙論的だ。月は唯一の対象の例としてやくだつ。閑話休題

 

 生物学的な生体とは球への郷愁である。内界、外界というユクスキュルのメタファーが示すとおりだ。

 

 生物学者は innen と um の照合、接合(coaptation)によって生体を定義する。これは主体の定義とは一致しない。

 

 Welt にとって球のイメージが根本的であるとしても、ではなぜ細胞(blastula)はたえず原腸胚(gastrula)を形成し、次々に胃の穴を二重化させる(肛門)のか。そしてまたなぜ神経組織のある段階で、トランペットのように二極において外部へと開くのか。ここで自然科学から離れよう。私が間違っている(tort)と見えるとしても。これから話題にするのはトーラス(tore)である。(この項つづく)

 

 

宇宙飛行士の純粋理性:セミネール第9巻『同一化』(その7)

 

 第XI講(28/02/1962)

 

 欲望は大哲学者たちではなく精神分析のことがらである。欲望は真理の機能と結びついている。

 

 「われわれの実践の素材である葛藤や隘路はその作用において主体の位置そのもの、経験の構造において主体として拘束されたものとしての主体の位置を介入させることによってのみ客観化され得る。これこそフロイトによって定義されているかぎりでの同一化の意味である」。

 

 カントが『実践理性批判』の言う意味での主体的情勢の計算ほど厳格なものはない。カントの普遍的格律とサドにおける享楽の自由の要請との相似性についての『精神分析の倫理』の指摘が回顧される。

 

 欲望の機能はカント的Wohlとも功利性とも、「パトロジックなもの」とも無縁。拒食症において問題になっているのも欲望であって欲求(besoin)ではない。

 

 欲望と妥協の機能。それは死の本能と生の本能との弁証法的関係にも関わる。死の本能は yang にたいする交代要素 yin のごときもの。死の本能に「生のシニフィアン」が対置される。

 

 フロイトにおける生の本能はエロス、リビード(ファルスの機能)に帰されている。身体の保存の機能と自己愛概念の関わり。精神分析の生物学への寄与(『精神分析概説』などを参照)?

 

 『自己愛の導入のために』以来の「苦痛」の自体愛的機能の強調。二つの苦痛を同時に感じることはできない。一方が他方を忘れさせる。リビード備給は自身の身体にたいするばあいでさえ欲望の対象の世界にたいする関係におけるとどうようの不公平さ(partialité)を示す。苦痛はフェティッシュであり得る(講演「わたしの教えについて」)一次過程と身体への関係を問うことは目下の問題意識にかかわっているとしてふたたびカントが召喚される。

 

 諸カテゴリーは純粋直観を要請する。時空間は感覚(Sinnlichkeit)という起源性(originalité)から排除され、綜合機能によって統合される。悟性のカテゴリーは「空虚な概念」にしか適応されない。哲学のあらゆる努力は Schwärmereien に反撃することにある。「理性の眠りは怪物を目覚めさせる」(ゴヤ)。この神学ふうヴィジョンがかずかずのファナティスムと結びつき、人類史上の血なまぐさい暴力に至ったのだが。理論的純粋化と道徳的薫化の境界は奈辺にあるのか。

 

 カントの超越論的感性論は、その批判における乗り越え不可能な功績にもかかわらずとって代わられねばならない。

 カント的感性論はまず、幾何学に支配された時代の数学に依拠しているがゆえに無効。時空間の秩序における直観的な自明性は、カントの時代にユークリッド幾何学が反駁しがたいものであったことに支えられている。こんにちではそれは容易に反駁可能である。

 

 「無の表」においては二辺しかない直線図形が「概念なき空虚な対象」の例とされているが、これはこんにちの初等幾何学で定義可能。

 

 綜合的判断以外は不毛であるとする断定も、数学の形式化への一連の試みを経たこんにちでは見直す余地がある。

 

 アプリオリな分析的判断(すなわち、いくつかの定義の初期状態から抽出された諸要素の純粋に組み合わせ的な使用)のいわゆる不毛性、この組み合わせ的な使用それじたいが固有の生産性をもっていることも、数学の基礎についてのもっとも最近の、もっとも押し進められた批判によって証明可能だ。

 

 最終的に、数学的創作の領域においては、どうしても証明不可能な残余がある。このことは、論理学的形式化への探求(ゲーデルの定理)が教えていることであり、その厳密さは今日に至るまで反駁されていない。とはいえ、形式的な証明という方途によってこそ、この明証性が得られるのだ。すなわち、論理学的な組み合わせにもとづくもっとも極端な形式主義的方法によって。

 

 カントにおけるカテゴリー的な作用と可感的な経験との交点の希薄さは、「事実上」と「権利上」の物体の実在という問題を提起する。

 

 無重力状態にある宇宙飛行士にとって純粋直観は重力下にあるのと同じであろうか。

 

 宇宙飛行士の経験は指令の「組み合わせ」(ボタンを押すこと)に還元されている。かれの純粋理性は複雑な「モンタージュ」によって装置化され、機械どうよう組み合わせの構成による自動運動を事とする。なぜこのような「組み合わせ的理性」の実践が可能か。

 

 重力下においては運動性が解放される。無重力状態ではこのような運動の主体は鎧(外皮)に幽閉されている。この鎧が「要素的連帯」と呼ぶことのできる生体の拘束(contention)を可能にしている。

 

 無重力状態における身体は軟体動物化しているが、植物的固着からは剥離している。

 

 推論する機械としての純粋な機能(“純粋理性”)とこのような身体的ポジションのコントラストは、先の問いにとって重要である。

 

 「誤った幾何学」に基づく直観はいまだに存在する。それは組み合わせ的な活動のいっしゅの反映として生産される。とはいえその反映は、反駁可能。なぜなら、数学者の省察の実験が示すように、この地上でわれわれは宇宙空間におけるとおなじくらい重力から分離させられているから。言い換えると、この自称純粋直観は、組み合わせ的機能そのものから分離させられているという幻影に発している。この幻影を追い払うことは可能である。それは数の影にすぎない。

 

 とはいえもちろん、それを確証するには、この直観とは別のところで数そのものを基礎づけてあることが必要。宇宙飛行士が空間についての(ひいてはカントにおいては空間にぶらさがっている時間についての)ユークリッド的直観を保持していないということは何を証明するのか。カント的な図式主義に依拠することなくボタンを正しく押すことは可能だということだ。地上ですでに反駁可能なものは、宇宙空間においては直観そのもののなかで反駁されている。

 

 より重要な問題。無重力状態において性欲動はどうなるのか。性欲動は退行(aller contre)しながら発現する習慣がある。もし宇宙飛行士がファルス的幻想を具現する装置の内部に完全に密着しているという事実がかれを疎外しないなら……?

 

 数の話に戻る。ラカンは数が純粋直観と可感的経験から分離された一要素となす。『算術の基礎』を読めばわかる。同書は『火星探検記』とおなじくらい魅惑的だ。数の機能は経験的に演繹できない。骰子の5は5を象徴する図形であり得るが、5という数はこの図形によってはいかなる仕方によってもあたえられない。動物にいろいろなフォルムを見せても、骰子の5と横に並べた5つの点、もしくは五角形に同じように反応する動物はいない。もしそうなら動物は計算できるということになる。

 

 このことは数の機能の非経験的な起源の証明にはならないが。この問題に関心をもつ数学者はほとんどいない。

 

 単一性(unité)とゼロは数の経験的生成にもっとも抵抗する。とくに、多様性から出発した抽象と差異から出発した数をあたえる際に。とくに数そのものをその同質性によって定義するばあいはとりわけ。

 

 このことはフロイトにおける「唯一の特徴」の機能とクロスする。差異の起源は単純化された棒であり、見かけ上同一なものの反復によって、記載されたシニフィアンとしての現実界への参入(象徴ではなく)が創り出される。エクリチュールの優位 primauté とはこのようないみである。実在するものとしての絶対的差異の現実界への参入のことである。

 

 フレーゲのテクストによれば、単一性の機能の最良の数学的分析(ジュヴォンとシュレデール)は唯一の特徴を強調している(フレーゲ自身はこの道へと踏み込んでいないが)。

 

単一性の機能の両極性を転倒させること。統合的な単位(Einheit)を放棄し、弁別的な単位(Einzigkeit)にとって代えること。唯一の特徴に結びついたものとしての主体のステータスはつぎの事実に結びついている。この主体はある構造のなかで構成されるが、この構造においては性欲動が特権的な機能を果たすという事実である。

 

 唯一の特徴への主体の結びつきにかんして結論めいたことを述べるなら、「小さな諸差異の自己愛」(フロイト)こそ唯一の特徴の機能である。これこそいっさいの比較から切り離された「絶対的差異」であり、自我理想にひとしい。自己愛のあらゆる問題がそこに収斂する。

 

 「剥奪、欲求不満、去勢」の図式をふたたびとりあげることによって、シニフィアンの様態と性欲動(即ち主体の構成における身体のエロス的な機能の優位)との関係を問うべし。

 

 もっとも単純な「剥奪」からアプローチしよう。世界には(-a)がある。あるべきところにないひとつの対象がある。「現実界」ということばがいみをもつのであるなら、このことは世界のもっとも不条理な考え方だ。現実界には何が欠如することがあり得るか?

 

 この問いのむずかしさゆえに、カントの純粋直観はその彼方に、宇宙論的な観念という名目の神学的残余を引きずっている。

 

 『純粋理性批判』によれば「世界に脱落(casus)はない」。偶然的なものはない。「世界に宿命(fatum)はない」。理性的必然を超えた運命はない。「世界に飛躍(saltus)はない」。「世界に断絶(hiatus)はない」。

 

 ところで無意識は「神託」である。弁別的なシニフィアンの数だけの「飛躍」があり、その都度メトニミーが生み出される。

 

 唯一の特徴によって印づけられている(あるいはいない)主体があるゆえに(-a)があり得、主体はフロイトの孫の糸巻きに(とりわけその欠如 ens privativum に)同一化することができる。

 

 言うまでもなく空虚(un vide)は存在する。主体はそこ、すなわち「概念なき空虚な対象」に発する。カントの表における四つの無の定義のなかで、それのみが厳密に存在する(se tenir)ものである。そこには無(un rien)がある。

 

 「去勢ー欲求不満ー剥奪」の図式において、剥奪の言表行為は想像的な全能性の主体、つまり不能の転倒したイマージュである。剥奪はこのイマージュに発する。概念なき空虚な対象、純粋な可能性の概念。この剥奪(ens privativum)をラカンはカントの表における ens rationis(対象なき空虚な概念)に対応させたいようだ。

 

 おそらくカントは「あらゆる現実的なものは可能である」という自明に思える言い回しの純粋に形式的な使い方を皮肉っている。カントはさらに一歩を踏み出し、「それゆえ、いくつかの現実的なものが可能的である」と指摘する。それは「いくつかの可能なものは現実的ではない」および「現実的ではない可能なものがある」ということをもいみしている。

 

 カントはこのような詭弁を告発する。ここで問題にされている可能なものは、主体について可能的なものだけではない。主体のみが、現実的でない可能なものの否定化された現実的なもの(ce réel négativé d’un possible qui n’est pas réel)であり得る。ens privativum(剥奪)を構成する(-1)はわれわれの無意識の経験のもっとも原初的な構造に結びついている。その構造[経験?]は、禁じられたもののそれではなく、「否と言われた」もののそれでもなく、「言われざるもの」のそれである。そこでは主体はもはや「言う」ために存在するのではない。主体はもはや1への同一化の支配者でもなく、もしくは主体を印づける1の突然の不在の支配者でもないのだから。そしてここに主体の力と根源がある。

 

 「間隙」「飛躍」「脱落」「運命」の可能性において、いかなる別の形式の(空間的でさえある)純粋直観が「表面の機能」に関わっているかを次回に示す。こうした表面の機能は主体のいかなる文節にとっても重要である……。

 

 というわけで次回におけるトポロジーの導入が予告される。

 

 

 

コギトと固有名:セミネール第9巻『同一化』(その6)

 

 第6講においては固有名について考察される。ラッセルによれば、固有名とは個別的なもの(particular)を描写なしでそのもの自体として指示する。ミルは、固有名は意味をもたないことにおいて一般名詞と区別されるいっこの印であるとし、ガーディナーは意味ではなく弁別的な音声に固有名の本質をみるが、ラカンによれば弁別性は言語一般の特性である。ガーディナーは対象への「注意」の喚起に固有名の機能をみているが、そこにおける心理学的な主体性の再導入はラカンによって退けられる。文字による無意識の定義によって固有名の本質が明らかになる。命名するときの発声と文字との[恣意的な]関係が問題とされている。「エクリチュールは音声化されることを待っており、他の対象物とともに音声化され発声されることによってエクリチュールとしての機能を獲得する。……エクリチュールの進歩があるのは、ひとつの住民がみずからの言語、みずからの発音の分節化を、他の住民から借りてきたエクリチュールを使って象徴化しようと試みるときである。そのエクリチュールが元の言語にとってうまく適合しているものだと見えるのは外見上だけにすぎない。なぜならより適合しているエクリチュールなどというものはないから」(向井雅明氏によるレジュメより引用)。問題になっているのは心理学的な主体ではなく、構造的な意味での主体の機能である。

 第7講においてこのことが「言表行為には潜在的命名がふくまれている」と言い換えられる。「否定」はシニフィアンの連鎖に付け加えられたものではなく、シニフィアンの誕生の条件として否定性がある。固有名が他言語に翻訳不可能であるという事実はその名残である。印は対象の消去である。コギトが再導入される。「われおもう」のシニフィエたる「われあり」は意味作用ではない。

 第8講においてはパースのカドラン(全称肯定/全称否定/特殊肯定/特殊否定、 lexis / phasis)にそくしてアリストテレス~カントの否定概念が俎上に載せられる。「すべての父は神である」というフロイト的全称肯定が「父の名」と結びつけられる。

 第9講においては強迫神経症エクリチュールの関係が指摘されている。強迫神経症者が消去しようとしているのは自らの生の書き込みである。ロビンソンがふたたび召喚され、痕跡を消そうとする痕跡のうちに主体性が存することが確認される。ついでラッセルのパラドクスがとりあげられ、論理学においては文字が自分自身を表象しないこと、AがAでないことが忘れられているとされる。ついでに対象aの隠喩性(それじたいではないこと)、ファルス性が想起される

 このことは第10講において、「シニフィアン矛盾律に支配されない」と言い換えられる。『純粋理性批判』「超越論的分析への序」のカントが再度召喚され、カント的な統合(Einheit)と「一の印」の単一性(Einzigkeit)が区別される。前年度セミネール(ソクラテスアイロニー)へと立ち戻った後、『ナルシシズムの導入のために』、スピノザフロイトの「生物学主義」に言及され、ラカン強迫神経症者の「アフロディーテの恐ろしい疑惑」という言葉が紹介されたあと、キリスト教における欲望の発見(セミネール『転移』)が確認され、一切を主と奴の弁証法に帰したヘーゲル鏡像段階を知らなかったとコメントされる

 なお、セミネール『同一化』の第1講から第10講までは向井雅明氏によるレジュメがウェッブ上に公開されており、有益である。

 

 

 

現実界の方へ:セミネール第9巻『同一化』(その5)

 

 第5講(13/12/1961)

 

 「単一性とは、存在するものの各々が、それによって一と呼ばれるものである。数とは、単一性からなる多である」(ユークリッド『原論』)。これこそ差異の支え(支持体)そのものとしての唯一の線の定義というべきである。

 これはフロイトにとっての第二の同一化、すなわち退行的同一化に相当する(第一の同一化は食べることによる一体化であり、第三のそれはヒステリー的同一化)。それは愛される対象の放棄に由来している。自我は愛している対象あるいは愛していない対象を模倣するが、それはその人物の唯一の特徴への部分的同一化である。

 三つの同一化はひとつの「類」「クラス」を構成しない。同一化は本質的に構造の次元で、すなわち象徴界のレベルで起こる。ことは存在論的なレベルにはかかわらない。想像界象徴界現実界の三項においてこれまでクロースアップされてこなかった現実界は、フロイト的経験の領野の顕現によって構成される。ここでいう経験とは分析技法という人為によって構成されるそれである。想像界が重視されるようになって無意識の諸関係の顕現の驚きは失われてしまった。イマージュは芸術(漫画)、元型、ゲシュタルトとして通俗化した。ゲシュタルト概念は、自然的形成物と、シニフィアンの組み合わせによる構造的組成とを混同している。

 1946年の論文「心的因果性について」における「すでに目の届かない」「カモシカの足跡」への言及においてシニフィアンの観念がすでに提示されていることが確認される。

 シニフィアン現実界に変化を導入するが、その変化とはアリストテレス的な(実体的な)それではなく組み合わせとそれによって定義されるトポロジーの次元にある。それはデカルトフロイト的「思考」、すなわち無意識の次元にある。無意識において主体の自律性が問題になるが、この主体はただ「事後的に」のみ発見され、誤認(méconnaisance)を経由する。主体が世界という夢(デカルト)に還元されないのはそのかぎりにおいてだ。

 主体の永続性。ただし現前ではなく。一本の線(一の印)そのものは純粋な「差異の支持体」として消失するから。ここに根源的な他者性のパラドクスがある。反復自動症は[同一物の]永遠回帰という同一性を逃れる。反復強迫を始動させる「トラウマ」において重要なのはトラウマの単一性という性質だけである。反復されるものは、記号として指し示されることによってそこに在るのではなく、[反復の]行為(action)がすがたをかえた不在のシニフィアンとして現前する。抑圧されるものがシニフィアンであるかぎりにおいて、現実的な行い(comportement)の循環はみずからの場所に現前する(se présente à sa place)。