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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

宇宙飛行士の純粋理性:セミネール第9巻『同一化』(その7)

 

 第XI講(28/02/1962)

 

 欲望は大哲学者たちではなく精神分析のことがらである。欲望は真理の機能と結びついている。

 

 「われわれの実践の素材である葛藤や隘路はその作用において主体の位置そのもの、経験の構造において主体として拘束されたものとしての主体の位置を介入させることによってのみ客観化され得る。これこそフロイトによって定義されているかぎりでの同一化の意味である」。

 

 カントが『実践理性批判』の言う意味での主体的情勢の計算ほど厳格なものはない。カントの普遍的格律とサドにおける享楽の自由の要請との相似性についての『精神分析の倫理』の指摘が回顧される。

 

 欲望の機能はカント的Wohlとも功利性とも、「パトロジックなもの」とも無縁。拒食症において問題になっているのも欲望であって欲求(besoin)ではない。

 

 欲望と妥協の機能。それは死の本能と生の本能との弁証法的関係にも関わる。死の本能は yang にたいする交代要素 yin のごときもの。死の本能に「生のシニフィアン」が対置される。

 

 フロイトにおける生の本能はエロス、リビード(ファルスの機能)に帰されている。身体の保存の機能と自己愛概念の関わり。精神分析の生物学への寄与(『精神分析概説』などを参照)?

 

 『自己愛の導入のために』以来の「苦痛」の自体愛的機能の強調。二つの苦痛を同時に感じることはできない。一方が他方を忘れさせる。リビード備給は自身の身体にたいするばあいでさえ欲望の対象の世界にたいする関係におけるとどうようの不公平さ(partialité)を示す。苦痛はフェティッシュであり得る(講演「わたしの教えについて」)一次過程と身体への関係を問うことは目下の問題意識にかかわっているとしてふたたびカントが召喚される。

 

 諸カテゴリーは純粋直観を要請する。時空間は感覚(Sinnlichkeit)という起源性(originalité)から排除され、綜合機能によって統合される。悟性のカテゴリーは「空虚な概念」にしか適応されない。哲学のあらゆる努力は Schwärmereien に反撃することにある。「理性の眠りは怪物を目覚めさせる」(ゴヤ)。この神学ふうヴィジョンがかずかずのファナティスムと結びつき、人類史上の血なまぐさい暴力に至ったのだが。理論的純粋化と道徳的薫化の境界は奈辺にあるのか。

 

 カントの超越論的感性論は、その批判における乗り越え不可能な功績にもかかわらずとって代わられねばならない。

 カント的感性論はまず、幾何学に支配された時代の数学に依拠しているがゆえに無効。時空間の秩序における直観的な自明性は、カントの時代にユークリッド幾何学が反駁しがたいものであったことに支えられている。こんにちではそれは容易に反駁可能である。

 

 「無の表」においては二辺しかない直線図形が「概念なき空虚な対象」の例とされているが、これはこんにちの初等幾何学で定義可能。

 

 綜合的判断以外は不毛であるとする断定も、数学の形式化への一連の試みを経たこんにちでは見直す余地がある。

 

 アプリオリな分析的判断(すなわち、いくつかの定義の初期状態から抽出された諸要素の純粋に組み合わせ的な使用)のいわゆる不毛性、この組み合わせ的な使用それじたいが固有の生産性をもっていることも、数学の基礎についてのもっとも最近の、もっとも押し進められた批判によって証明可能だ。

 

 最終的に、数学的創作の領域においては、どうしても証明不可能な残余がある。このことは、論理学的形式化への探求(ゲーデルの定理)が教えていることであり、その厳密さは今日に至るまで反駁されていない。とはいえ、形式的な証明という方途によってこそ、この明証性が得られるのだ。すなわち、論理学的な組み合わせにもとづくもっとも極端な形式主義的方法によって。

 

 カントにおけるカテゴリー的な作用と可感的な経験との交点の希薄さは、「事実上」と「権利上」の物体の実在という問題を提起する。

 

 無重力状態にある宇宙飛行士にとって純粋直観は重力下にあるのと同じであろうか。

 

 宇宙飛行士の経験は指令の「組み合わせ」(ボタンを押すこと)に還元されている。かれの純粋理性は複雑な「モンタージュ」によって装置化され、機械どうよう組み合わせの構成による自動運動を事とする。なぜこのような「組み合わせ的理性」の実践が可能か。

 

 重力下においては運動性が解放される。無重力状態ではこのような運動の主体は鎧(外皮)に幽閉されている。この鎧が「要素的連帯」と呼ぶことのできる生体の拘束(contention)を可能にしている。

 

 無重力状態における身体は軟体動物化しているが、植物的固着からは剥離している。

 

 推論する機械としての純粋な機能(“純粋理性”)とこのような身体的ポジションのコントラストは、先の問いにとって重要である。

 

 「誤った幾何学」に基づく直観はいまだに存在する。それは組み合わせ的な活動のいっしゅの反映として生産される。とはいえその反映は、反駁可能。なぜなら、数学者の省察の実験が示すように、この地上でわれわれは宇宙空間におけるとおなじくらい重力から分離させられているから。言い換えると、この自称純粋直観は、組み合わせ的機能そのものから分離させられているという幻影に発している。この幻影を追い払うことは可能である。それは数の影にすぎない。

 

 とはいえもちろん、それを確証するには、この直観とは別のところで数そのものを基礎づけてあることが必要。宇宙飛行士が空間についての(ひいてはカントにおいては空間にぶらさがっている時間についての)ユークリッド的直観を保持していないということは何を証明するのか。カント的な図式主義に依拠することなくボタンを正しく押すことは可能だということだ。地上ですでに反駁可能なものは、宇宙空間においては直観そのもののなかで反駁されている。

 

 より重要な問題。無重力状態において性欲動はどうなるのか。性欲動は退行(aller contre)しながら発現する習慣がある。もし宇宙飛行士がファルス的幻想を具現する装置の内部に完全に密着しているという事実がかれを疎外しないなら……?

 

 数の話に戻る。ラカンは数が純粋直観と可感的経験から分離された一要素となす。『算術の基礎』を読めばわかる。同書は『火星探検記』とおなじくらい魅惑的だ。数の機能は経験的に演繹できない。骰子の5は5を象徴する図形であり得るが、5という数はこの図形によってはいかなる仕方によってもあたえられない。動物にいろいろなフォルムを見せても、骰子の5と横に並べた5つの点、もしくは五角形に同じように反応する動物はいない。もしそうなら動物は計算できるということになる。

 

 このことは数の機能の非経験的な起源の証明にはならないが。この問題に関心をもつ数学者はほとんどいない。

 

 単一性(unité)とゼロは数の経験的生成にもっとも抵抗する。とくに、多様性から出発した抽象と差異から出発した数をあたえる際に。とくに数そのものをその同質性によって定義するばあいはとりわけ。

 

 このことはフロイトにおける「唯一の特徴」の機能とクロスする。差異の起源は単純化された棒であり、見かけ上同一なものの反復によって、記載されたシニフィアンとしての現実界への参入(象徴ではなく)が創り出される。エクリチュールの優位 primauté とはこのようないみである。実在するものとしての絶対的差異の現実界への参入のことである。

 

 フレーゲのテクストによれば、単一性の機能の最良の数学的分析(ジュヴォンとシュレデール)は唯一の特徴を強調している(フレーゲ自身はこの道へと踏み込んでいないが)。

 

単一性の機能の両極性を転倒させること。統合的な単位(Einheit)を放棄し、弁別的な単位(Einzigkeit)にとって代えること。唯一の特徴に結びついたものとしての主体のステータスはつぎの事実に結びついている。この主体はある構造のなかで構成されるが、この構造においては性欲動が特権的な機能を果たすという事実である。

 

 唯一の特徴への主体の結びつきにかんして結論めいたことを述べるなら、「小さな諸差異の自己愛」(フロイト)こそ唯一の特徴の機能である。これこそいっさいの比較から切り離された「絶対的差異」であり、自我理想にひとしい。自己愛のあらゆる問題がそこに収斂する。

 

 「剥奪、欲求不満、去勢」の図式をふたたびとりあげることによって、シニフィアンの様態と性欲動(即ち主体の構成における身体のエロス的な機能の優位)との関係を問うべし。

 

 もっとも単純な「剥奪」からアプローチしよう。世界には(-a)がある。あるべきところにないひとつの対象がある。「現実界」ということばがいみをもつのであるなら、このことは世界のもっとも不条理な考え方だ。現実界には何が欠如することがあり得るか?

 

 この問いのむずかしさゆえに、カントの純粋直観はその彼方に、宇宙論的な観念という名目の神学的残余を引きずっている。

 

 『純粋理性批判』によれば「世界に脱落(casus)はない」。偶然的なものはない。「世界に宿命(fatum)はない」。理性的必然を超えた運命はない。「世界に飛躍(saltus)はない」。「世界に断絶(hiatus)はない」。

 

 ところで無意識は「神託」である。弁別的なシニフィアンの数だけの「飛躍」があり、その都度メトニミーが生み出される。

 

 唯一の特徴によって印づけられている(あるいはいない)主体があるゆえに(-a)があり得、主体はフロイトの孫の糸巻きに(とりわけその欠如 ens privativum に)同一化することができる。

 

 言うまでもなく空虚(un vide)は存在する。主体はそこ、すなわち「概念なき空虚な対象」に発する。カントの表における四つの無の定義のなかで、それのみが厳密に存在する(se tenir)ものである。そこには無(un rien)がある。

 

 「去勢ー欲求不満ー剥奪」の図式において、剥奪の言表行為は想像的な全能性の主体、つまり不能の転倒したイマージュである。剥奪はこのイマージュに発する。概念なき空虚な対象、純粋な可能性の概念。この剥奪(ens privativum)をラカンはカントの表における ens rationis(対象なき空虚な概念)に対応させたいようだ。

 

 おそらくカントは「あらゆる現実的なものは可能である」という自明に思える言い回しの純粋に形式的な使い方を皮肉っている。カントはさらに一歩を踏み出し、「それゆえ、いくつかの現実的なものが可能的である」と指摘する。それは「いくつかの可能なものは現実的ではない」および「現実的ではない可能なものがある」ということをもいみしている。

 

 カントはこのような詭弁を告発する。ここで問題にされている可能なものは、主体について可能的なものだけではない。主体のみが、現実的でない可能なものの否定化された現実的なもの(ce réel négativé d’un possible qui n’est pas réel)であり得る。ens privativum(剥奪)を構成する(-1)はわれわれの無意識の経験のもっとも原初的な構造に結びついている。その構造[経験?]は、禁じられたもののそれではなく、「否と言われた」もののそれでもなく、「言われざるもの」のそれである。そこでは主体はもはや「言う」ために存在するのではない。主体はもはや1への同一化の支配者でもなく、もしくは主体を印づける1の突然の不在の支配者でもないのだから。そしてここに主体の力と根源がある。

 

 「間隙」「飛躍」「脱落」「運命」の可能性において、いかなる別の形式の(空間的でさえある)純粋直観が「表面の機能」に関わっているかを次回に示す。こうした表面の機能は主体のいかなる文節にとっても重要である……。

 

 というわけで次回におけるトポロジーの導入が予告される。

 

 

 

コギトと固有名:セミネール第9巻『同一化』(その6)

 

 第6講においては固有名について考察される。ラッセルによれば、固有名とは個別的なもの(particular)を描写なしでそのもの自体として指示する。ミルは、固有名は意味をもたないことにおいて一般名詞と区別されるいっこの印であるとし、ガーディナーは意味ではなく弁別的な音声に固有名の本質をみるが、ラカンによれば弁別性は言語一般の特性である。ガーディナーは対象への「注意」の喚起に固有名の機能をみているが、そこにおける心理学的な主体性の再導入はラカンによって退けられる。文字による無意識の定義によって固有名の本質が明らかになる。命名するときの発声と文字との[恣意的な]関係が問題とされている。「エクリチュールは音声化されることを待っており、他の対象物とともに音声化され発声されることによってエクリチュールとしての機能を獲得する。……エクリチュールの進歩があるのは、ひとつの住民がみずからの言語、みずからの発音の分節化を、他の住民から借りてきたエクリチュールを使って象徴化しようと試みるときである。そのエクリチュールが元の言語にとってうまく適合しているものだと見えるのは外見上だけにすぎない。なぜならより適合しているエクリチュールなどというものはないから」(向井雅明氏によるレジュメより引用)。問題になっているのは心理学的な主体ではなく、構造的な意味での主体の機能である。

 第7講においてこのことが「言表行為には潜在的命名がふくまれている」と言い換えられる。「否定」はシニフィアンの連鎖に付け加えられたものではなく、シニフィアンの誕生の条件として否定性がある。固有名が他言語に翻訳不可能であるという事実はその名残である。印は対象の消去である。コギトが再導入される。「われおもう」のシニフィエたる「われあり」は意味作用ではない。

 第8講においてはパースのカドラン(全称肯定/全称否定/特殊肯定/特殊否定、 lexis / phasis)にそくしてアリストテレス~カントの否定概念が俎上に載せられる。「すべての父は神である」というフロイト的全称肯定が「父の名」と結びつけられる。

 第9講においては強迫神経症エクリチュールの関係が指摘されている。強迫神経症者が消去しようとしているのは自らの生の書き込みである。ロビンソンがふたたび召喚され、痕跡を消そうとする痕跡のうちに主体性が存することが確認される。ついでラッセルのパラドクスがとりあげられ、論理学においては文字が自分自身を表象しないこと、AがAでないことが忘れられているとされる。ついでに対象aの隠喩性(それじたいではないこと)、ファルス性が想起される

 このことは第10講において、「シニフィアン矛盾律に支配されない」と言い換えられる。『純粋理性批判』「超越論的分析への序」のカントが再度召喚され、カント的な統合(Einheit)と「一の印」の単一性(Einzigkeit)が区別される。前年度セミネール(ソクラテスアイロニー)へと立ち戻った後、『ナルシシズムの導入のために』、スピノザフロイトの「生物学主義」に言及され、ラカン強迫神経症者の「アフロディーテの恐ろしい疑惑」という言葉が紹介されたあと、キリスト教における欲望の発見(セミネール『転移』)が確認され、一切を主と奴の弁証法に帰したヘーゲル鏡像段階を知らなかったとコメントされる

 なお、セミネール『同一化』の第1講から第10講までは向井雅明氏によるレジュメがウェッブ上に公開されており、有益である。

 

 

 

現実界の方へ:セミネール第9巻『同一化』(その5)

 

 第5講(13/12/1961)

 

 「単一性とは、存在するものの各々が、それによって一と呼ばれるものである。数とは、単一性からなる多である」(ユークリッド『原論』)。これこそ差異の支え(支持体)そのものとしての唯一の線の定義というべきである。

 これはフロイトにとっての第二の同一化、すなわち退行的同一化に相当する(第一の同一化は食べることによる一体化であり、第三のそれはヒステリー的同一化)。それは愛される対象の放棄に由来している。自我は愛している対象あるいは愛していない対象を模倣するが、それはその人物の唯一の特徴への部分的同一化である。

 三つの同一化はひとつの「類」「クラス」を構成しない。同一化は本質的に構造の次元で、すなわち象徴界のレベルで起こる。ことは存在論的なレベルにはかかわらない。想像界象徴界現実界の三項においてこれまでクロースアップされてこなかった現実界は、フロイト的経験の領野の顕現によって構成される。ここでいう経験とは分析技法という人為によって構成されるそれである。想像界が重視されるようになって無意識の諸関係の顕現の驚きは失われてしまった。イマージュは芸術(漫画)、元型、ゲシュタルトとして通俗化した。ゲシュタルト概念は、自然的形成物と、シニフィアンの組み合わせによる構造的組成とを混同している。

 1946年の論文「心的因果性について」における「すでに目の届かない」「カモシカの足跡」への言及においてシニフィアンの観念がすでに提示されていることが確認される。

 シニフィアン現実界に変化を導入するが、その変化とはアリストテレス的な(実体的な)それではなく組み合わせとそれによって定義されるトポロジーの次元にある。それはデカルトフロイト的「思考」、すなわち無意識の次元にある。無意識において主体の自律性が問題になるが、この主体はただ「事後的に」のみ発見され、誤認(méconnaisance)を経由する。主体が世界という夢(デカルト)に還元されないのはそのかぎりにおいてだ。

 主体の永続性。ただし現前ではなく。一本の線(一の印)そのものは純粋な「差異の支持体」として消失するから。ここに根源的な他者性のパラドクスがある。反復自動症は[同一物の]永遠回帰という同一性を逃れる。反復強迫を始動させる「トラウマ」において重要なのはトラウマの単一性という性質だけである。反復されるものは、記号として指し示されることによってそこに在るのではなく、[反復の]行為(action)がすがたをかえた不在のシニフィアンとして現前する。抑圧されるものがシニフィアンであるかぎりにおいて、現実的な行い(comportement)の循環はみずからの場所に現前する(se présente à sa place)。

 

戦争は戦争である:セミネール第9巻『同一化』(その4)

 第4講(06/12/1961)

 

 「a=a」という“信仰”。「a=a」はシニフィエをなすようにみえるが、「a=a」は「何も」いみしない(ça ne signifie rien)。つまり、“無(rien)”をいみしている。

 

 fort : da が参照される。現れたり消えたりするピンポン球はシニフィアンではなく対象である。この a は a である。ピンポン球の二つの現れを繋ぐ「である」とはなになのか。そしてその中間の消失はなになのか?

 

 想像的なレベルでは、「である」はその原因となる消失に関係づけられる。くだんのケルト神話における主人の二度の出現(二度目は鼠として)の同一視は想像的な同一化の典型である。そこでは二つの「存在」が結びつけられている。

 

 たいして存在についてのわれわれの経験(Dasein)においては別である。Dasein においては他者(l’autre)のみならず「われわれよりも内密なもの」という主体の根源が問題になっている。飼い犬が想像的に主人を同一人物と認めるばあい、犬がみずからをアイデンティファイすることは含意されていない。

 

 象徴的な同一化はシニフィアンによってなされ、そこで問題にされているのは主体である。出現と消滅のレベルにあるものとは異質の次元にあるものとの主体の同一化である。シニフィアンのステータスそのものを問うこと。

 

 シニフィアンは記号ではない。主体はシニフィアンの効果として生じる(換喩的効果であるか隠喩的であるかはわからないが)。この効果以前に、シニフィアンへの主体の依存関係が分節可能なかたちで存在する。

 

 足痕(「否」の痕跡 trace d’un pas)というかたちで。足跡はロビンソンにかれが島に一人ではないことを示す。この pas は歩みであると同時に否定の pas である。連鎖のこの二つの極端のあいだに主体が生じる。

 

 かくして「a=a」は相対化される。これは信仰であるかぎりで「スティグマ」であり「エポケー」である。

 

 「a=a」という偽りの一貫性は神学的な時代における超越者としての同一なるものへの到達をいみする。「a=a」というシニフィエはいかなる真理にも基づかない。これはデカルトのいうかぎりでの表現的実在性に基づく。シニフィエの効果は影にすぎない。

 

 シニフィアンはいかなるばあいにもみずからと同一でない。「戦争は戦争だ」(この年 La guerre c’est la guerre という小説が刊行されている。)は同語反復ではない。これは“釘が穴にはまらなくなった”(ペギー)ことを前提している。戦争は釘を穴にはめなおすためにはじめられる。

 

 「私の祖父は私の祖父だ」が同語反復でない理由。さいしょの「私の祖父」は固有名ないし「この人は」と同じ。

 

 固有名は this と同じでないが、ラッセルによれば this などの代名詞と同じ意味するクラスに属する。

 

 あらゆる同語反復においては現実界象徴界への関係が問題になっている。

 

 可能な同語反復はない。「a=a」の二つの a は別のものであるということではなく、a が a でありえないのは a のステータス(シニフィアンであること)そのものによっている。シニフィアンは他のシニフィアンがそれでないところのものである。

 

 シニフィアンの支え(支持体)として文字が必要とされるが、漢字の本質は表意文字ということにはない。

 

 サン=ジェルマン博物館所蔵の肋骨に刻まれた一連の棒線(獲物の勘定)においても、幽閉されたサドがベッドの柱に刻み込んだ棒線(性行為の勘定)においても問題になっているのはシニフィアン的な差異であって質的差異(類似性に基づく差異)ではない。

 

 シニフィアンは主体をいまひとつのシニフィアンにたいして表象する。たいして記号はなにものかを誰かにたいして表象する。犬が求めるのは飼い主signe(消息)である。飼い主は犬にとって signe を与えるものであり、シニフィアンをあたえることはできない。パロールは前言語的な水準にもあり得るが、ランガージュはもっぱらシニフィアンの機能に関わる。

 

 

言葉を話す犬:セミネール第9巻『同一化』(その3)

 

 第3講(29/11/1961)

 

 同一化において問題となる「一」は、パルメニデス的な一なるものでもプロティノス的な一者でもなく、いっこの全体性でもなく、教師が黒板に書くような一本の線である。

 

 同一化は「考えるもの」(res cogitans)なるなんらかの実体への同一化ではない。

 

 身投げしたスフィンクスを食べた怪猫シャパリュ(キャスパリーグ?)が「[ひとを]食べた者はもはやひとりではない」と言ったとかいうエピソード(『精神病』の最後の講義を参照)が引かれる。これが現実界における「同一化」の一例なのか、もしくはスフィンクスがそれゆえに死んだ「真理」なるものに関しての言及であるのかはよくわからないが、いずれにしても後続する一連の動物学的な考察への呼び水になる。

 

 ラカンは言語を重視するあまり身体を軽視しているという批判にたいし、ラカンはみずからの「前言語的なもの」についての持論を披瀝する(1954年のエリアーデとの討論を参照)。

 

 ラカンはサドへのオマージュによって飼い犬にジュスティーヌと名付けている。ラカンによれば、犬は話す。犬はパロールをもっているが、それはかならずしもランガージュではない。

 

 犬は人間と違い、話す必要があるときのみ話す。犬は話すが相手を<他者>とみなさない。

 

 純粋な「話す主体」を導入したのは精神分析である。相手を他人とみなすことで主体は相手を<他者>のレベルに置く。

 

 犬には転移の能力がない。転移は人間関係の情緒的な側面に帰されない。

 

 ラカンが言語の優位を説くとき、傲慢にも人間を全存在中の頂点と見なしているわけではない。

 

 犬のことばには閉塞(occulsion)がない(ルスロの音声学が参照される)。それゆえラングではない。犬のことばは「歌」である。閉塞は歌えないので歌手のおしゃべりは理解不能である。かくして犬は「歌う」……。

 

 ラカンが所蔵するブリティッシュコロンビアのKwakiutl 族の彫刻には鳥の背中に乗った人間らしき姿をしたものが蛙と話している(Michel Roussan 版に写真が出ている)。聖フランチェスコも動物に話してかけていた。何語で話していたのだろうか。

 

 赤ちゃん言葉(parler babyish)においては赤ん坊の言葉と大人の言葉の区別が前提されている。二つの言語の存在を前提しているかぎりでそれはピジン言語にひとしい。この問題についてはフェレンツィが先鞭をつけている(「ラングの混同)。

 

 人間のうちに動物を認めること(「この野牛はかれだ」)にかんしてレヴィ=ブリュールの「前論理的心性」「神秘的分有」の観念が召喚される。

 

 ここでケルト神話に登場する鼠が紹介される。主人の死に際して小作人は鼠が現れるのを見た。主人の幽霊がいう。「わたしはこの鼠の中にいる」。ついでにアポリネールの『ティレジアスの乳房』の台詞が引かれる。

 

 同一化は言語においてしか起こらず、言語のおかげによってしか起こらない。「A=A」を問いに付すことでしか同一化にアプローチできない。ソシュールへの参照が促される。「差異化の原理:単位の性質は単位そのものとまじりあう。ひとつの記号を区別するものがその記号を構成する。差異が記号の性質をなす」(『講義』2-4-4)。あるシフィニアンとは他のシニフィアンがそうでないところのものである。「一」そのものは<他者>である。

 

 というわけで、ほぼ余談の連続だけで講義が終わる。

 

行為としてのコギト:セミネール第9巻『同一化』(その2)

 

 第2講(22/11/1961)

 

 精神分析家にとって同一化とはシニフィアンの同一化である。

 

 ラカンヤコブソンの亜流であると言われているが、主体の実現におけるシニフィアンの機能の優位を指摘したのはラカンである[らしい]。

 

 ソシュールによれば、たとえ日によって別の車両を使用していても8時45分(ラカンは10時15分としている)パリ発ジュネーヴ行き急行は時刻表という差異の体系中ではつねに「同一」である。この例においてはシニフィアンの組成の連鎖が話す主体をとおして現実界に参入する。これはシニフィアンの同一化としての同一化の法則である。

 

 想像的同一化は鏡面上のイマージュへの同一化である。その変態にあたってサバクトビバッタは分身のイマージュの「いくつかの特徴(trait)」に同一化する。たいして象徴的同一化は唯一の特徴への同一化であるということらしい。

 

 通時性と共時性共時性とはコードのなんらかの想定された主体における潜在的な同時性であるというだけではじゅうぶんではない。それは「知を想定された主体」のひとつの形である。

 

 主体に絶対知を想定すること(ヘーゲル)はできない。分析家はこのような主体をいつも避けねばならない。

 

 コギトが「かれはじぶんが死んでいるのを知らなかった」の夢に送付される。ことは言表行為の主体にかかわっている。一人称によって言表行為の主体にアプローチすることはできるが、そのとき主体は消失する。「わたしはわたしが死すべき存在として生きていることを知らなかった」。これがくだんのフレーズの一人称ヴァージョンである[らしい]が、このことによって「われわれはわれわれの生にとって異質(étranger)」ということにもなる[らしい]。

 

 これはもっとも現代的な哲学的問いの基盤である。ハイデガーにおける死へと向かう存在が想起させられる。

 

 現代的哲学的省察が応えようとしているこうした空虚は精神分析的経験における知らないものとして構成される主体と響き合う。

 

 このような主体はデカルトに遡る。「われ思う、ゆえにわれあり」は隘路ひいては不可能へとたどりつく。この不可能なものによってこそコギトは「重きをなす」(penser と peser は語源を同じくする)。「わたしが何を考えているか」は「わたしがどこから考えているか」を覆い隠す。われわれがそこにみずからを基礎づけるべき純粋な「われおもう」という特権的な地点があるのだろうか。

 

 「われおもう、ゆえにわれあり」は、存在をみずからに保証するためにたえず考えていなければならないことを含意する。とはいえそもそも、「存在すると考える pense être」だけで「考える存在 être pensant」にたどりつくことができるのか?

 

 être pensant とは êtrepenser なる動詞の現在分詞であろうとラカンは洒落をとばす。je pensetre は夢以上の一貫性をもたない。pensetrer  は s’empetrer に帰着させられる。

 

 「ゆえにわれあり」という結論には「われ」が密輸されている。誇張的懐疑はこの「われ」を根本的な揺らぎにゆだねる。

 

 この揺らぎはふたとおりに説明できる。1)トマス=ブレンターノ心理学。すなわち、存在は考えるものとしての自身を交代的に(忘却→想起)しか把握しない。いかなる瞬間にもこの思考に確実性はともなわない。2)デカルトはこの「わたし」に消失的な性質を帰す。「われおもう、ゆえにわれあらず」。ラカンはしばしこれをフランス語の形態論によって説明しようと試み、c’est moi(≠je)、j’sais pas.(無音化)、 je ne sais.(ne は savoir にではなく je にかかる)……そこにはシニフィアンへの主体の関係が関与しているとほのめかす。

 

 分析家はヘーゲル的な絶対知という幻影(知の観念という物質化された虚無。それはあるしゅのSFである)にたいする警戒心が人一倍強い。

 

 デカルト的主題系が論理学的に正当化不可能であるとしても、それは非合理的ということではない。欲望は分節化された事実であるという理由によって分節化不可能であるが、だからといって非合理的でないのとおなじである。

 

 デカルト的懐疑は懐疑主義における懐疑とは異なる。デカルトによれば、懐疑主義的な懐疑は現実界のレベルでなされている。現実界を問いに付すことなくすべてを現実界の枠組みのなかで考えている。そこで問いに付されているのは感覚にすぎない。ヘーゲルの『精神現象学』(知のじぶんさがし)もこの枠組みを出ていない。

 

 しかるにデカルトは主体そのものを問いに付す。デカルト自身はそれを知らないが、そこで問題になっているのは「知を想定された主体」である。精神に可能なもののうちにみずからを認めることが問題なのではない。創設的な行為としての主体そのものが問題なのだ。デカルトの常軌を逸した歩みは「行為への移行」である。

 

 つまりコギトは思考の外へと踏み出し、思考の外部にみずからの立脚点を仰ぐ。かくしてデカルトは神の存在証明へと赴く。そこで導入されるのはいっさいの真理を保証する神である。つまり、神がそう「望めば」(ことは欲望にかかわっている)真理が別様であり得たような神。いっさいの思考(シニフィアン連鎖)をその外部から支えるこの一点をラカンは唯一の痕跡(線 trait unaire)と呼ぶだろう。

 

 消失する主体についてのデカルト的経験の限界においてみいだされるのはこのような保証の必要性だ。それは「もっとも単純な構造の trait」である。それは絶対的に非人格化されたものであり、いっさいの主観的な内容をともなわないばかりか、一なるものであることいがいのいっさいの属性を欠いている。

 

 これこそ自我理想の内実である。伝統的な哲学における理想化された主体にこのような「理想」の機能をとって代えること。根源的なシニフィアンへの主体の原初的同一化。それはプロティノス的な一者とはちがう。唯一の痕跡そのものである。そこに知らないものとしての主体が基づく。

 

コギトのパラドクス:セミネール第9巻『同一化』(その1)

*L'identification (1961-1962)

 

 ラカンの最重要作のひとつにしていまだ未刊行のセミネール。複数の受講者のノートを照合して作成された Michel Roussan 版にもとづき“超約”(「要」約でも超「訳」でもない)をお届けする。

 

 第1講(15/11/1961)

 

 これまでの八つのセミネールにおいては主体というテーマとシニフィアンというテーマが「拍動のごとくに」隔年で交互に扱われていた。本セミネールにおいてはシニフィアンにたいする主体の関係がテーマとなる。

 

 同一化というテーマに着手するにあたり、同一である(A=A)とはなにかが問われる。AがAであるのなら、なぜわざわざ分離してA=Aという命題を立てるひつようがあるのか?

 

 論理実証主義においてこれは意味をもたない命題として排除される。一方、ラカンパロールの経験からアプローチしようとする。

 

 自己(moi)の観念は語源的にも同一性(même)を示している(mihilisme)。ここでデカルトのコギトにおける「われ」が召喚される。コギトにおいては存在が主体に内在的であると考えられている。現代哲学はその乗り越えを図っている。デカルトのテクストにおいてコギトはじっさいにはわれわれがおもっているいじょうにfluent でありglissantでありvacillantであって、入り組んでいる。

 

 「伝統的な哲学における主体の観念を支えているのはシニフィアンの実在とその諸効果だけである」。「思考」もまたしかり。

 

 「私とはだれか?」という問題には無意識がかかわっている。

 

 問題は真理ということである。ラカンのある患者はラカンがなぜほんとうのことについてのほんとうのこと(le vrai sur le vrai)を言ってくれないのかという夢を見た。ほんとうの真理(vraie vérité)を期待するなど子供の態度だと言って済ますことはできない。ほんとうの真理はひとつの意味をもつから。精神分析の信憑性はもっぱらこの意味にかかっている。精神分析はほんとうの真理をもたらすものとして世に出た。

 

 分析家の言説のほんとうの真理はどこにあるのかと人は問う。哲学者にたいしてはこのことは問われない。たとえば哲学者(デカルト)は神に不確実な信仰しかもっていないとされるから。

 

 哲学者の信憑性を保証してきたのは二重の真理だ。真理という厄介な問題を持ち出したのは精神分析自身であり自業自得ではあるが……。

 

 コギトにおける主体の同一性の諸関係が検討される。デカルトを乗り越えることが問題ではなく、デカルトが突き当たった隘路から最大限のものを引き出すことが問題なのだ。

 

 コギトはマラルメの摩滅した硬貨のごときものだ。われわれの用に供すべくこれを復元しよう。「われおもうゆえにわれあり」の「われおもう」は思考ではない。

 

 思考は思考についての思考を前提しない。思考は無意識において始まる。

 

 思考は縮小された行為であるとする心理学的説明がある。フロイトもどこかで言っている。思考は自足的な自慰的満足であると(フロイトにはなんでも書いてある)。

 

 「われおもう」というパロールは「われあり」という現前を支えるにじゅうぶんであろうか。

 

 「われおもう」は「私は嘘をついている」と同じくらい論理学的に空虚である。「私は嘘をついている」と言う人は嘘をついていない。とはいえそのように言うことでぎゃくのことを述べているのであってみれば立派に嘘をついている(エピメニデスのアポリア)。

 

 この論理的アポリアはこの言述がそれじたいを対象としているという判断から生じる。そこでは[言表と言表行為の]二つのレベルの区別がなされていない。

 

 全称肯定命題(「すべてのクレタ人は嘘つきである」)の批判として存在否定命題(「嘘をつかないクレタ人は存在しない」)と同じであるというものがある。エピメニデスの言述のいみは、自慢ないしは警告である。

 

 全称肯定命題にはこのような斜に構えた意図がある。アリストテレスの「ソクラテスは死ぬべき運命にある」は解釈の機能について考えさせる。

 

 生身の人間ソクラテスの死はプラトンによる転移が蘇らせるその名声の不死を意味する。また、この言述は死への欲望(acting out)によって定義されるソクラテスの atopie を指しているともとれる。

 

 アリストテレスはこの言述によって知の発展にとっての障害となる転移を厄介払いしようとしていると解釈することもできる。しかしそのためにはプラトン以上の欲望の変形が必要である。近代科学は超プラトン主義から生まれたのであって、アリストテレス的な知の機能に回帰することによってではない。

 

 近代科学の誕生は神々の第二の死を必要とした。ルネサンスにおいて神々の亡霊が蘇り、<御言葉>がその真なる真理をわれわれに示したのだ。その真なる真理が追い払うのは幻影ではなく近代科学の揺籃である意味の闇である。

 

 「われおもう」は判断の意志的な次元を示す。コギトが「わたしは嘘をついている」のようなパラドクスに陥るのは言表と言表行為を混同しているかぎりにおいてだ。真理とはその本質からして彷徨っている

 

 「われおもうとわれおもう」とはドクサでありイマジネールな思考である。「かのじょがわたしを愛しているとわたしはおもう」があてにならないのは周知のとおり。デカルトにおいて「われおもう」はイマジネールであり、それはいかなるものの支えにもならない。

 

 「わたしは考える存在である」も私の実在を導かない。「わたしはいっこの存在である」は、おそらくわたしが存在するために本質的な存在であるということをいみしているだけだ。

 

 「私はわたしがかんがえている[嘘をついている]と知っている」。あるしゅの現象学における主体の観念を支えているのはこれである。精神分析はこの先入観を転覆させる。このような哲学のリミットの彼岸に無意識がある。

 

 コギトに発する哲学的問いにおいては唯一の主体があるだけだ。すなわち「知を想定された主体」である。

 

 ヘーゲル的な現象学においてこのような知を想定された主体は共時的な価値をもつ。絶対知へと導くとされている通時態を構造のひとつの結び目がシャットアウトする。「想定(subjicere)された知」をいかなる主体にも帰してはならない。知は間主観(間主体)的である。<他者>の知であるといういみでそうなのだ。<他者>は主体ではなく場所である。アリストテレス以来、そこに主体のもろもろの権能が転移されるべき場所である。絶対知は主体の知ではなく全知の<他者>の知であるかぎりで存在する。とはいえ<他者>は主体以上に知らないのだ。<他者>は主体ではないという理由によって。

 

 <他者>は知のこのような想定の諸々の表象代表のゴミ捨て場(dépotoire)だ。それが無意識とよばれる。主体は知のこのような想定において喪失される。

 

 主体はそれと知ることなくそれ(ça)をひきずっている。çaとは主体の現実がこれによって苦しむものから主体へともどってくる屑(débris)である。「まさにこれだ(c’est bien ça)」。あるいは「ぜんぜんこれ(ça)じゃない」。実はそれがまさにこれ(ça)なのであるが。

 

 次回はデカルトにおける主体の機能とその精神分析における反響が考察されるだろう。