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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

子供への欲望:セミネール『同一化』第15講 (了)

 

 承前。煙突掃除夫としてのジョーンズ。ラカンのジョーンズ論へのいまひとりのウェールズ人(ウィニコット)の無理解。ジョーンズのフロイト伝の貢献は、フロイトダーウィンの区別だけ。男根期および女性同性愛についてのジョーンズの無理解(méconnaissance)そのものが注目に値する。ジョーンズは去勢複合のパラドクスにつきあたった。去勢を説明するためにアファニシスという述語を導入した。

 

 エディプスの効果を定義するために、ジョーンズは<他者>の一部を自認し、対象あるいは欲望のいずれか(排他的 ou)を禁じる。おまえが私の欲望するものを欲望するところで、私、死せる神は、お前にその欲望の対象を禁じる命令によってしか存在する証拠をもたない(それで十分)。あるいはより正確には、お前に欲望の対象を失われたもののレベルにおいて構成せよという命令だ。それとは別の対象を見つけることはもはやできない。ジョーンズを解釈すると以上のようになる。対象か欲望か。これにつけ加うるに「あるいは欲望を放棄せよ」。欲望放棄とはどういうことか。フロイトは女性同性愛にエディプス的葛藤を導入した。欲望が消失するとは、欲望が隠れていることなのか。クロスキャップにおいて要求へと反転することなのか。それは同性愛者がしていることでもある。[欲望が]要求のサイクルに反転するのだ。ここでは要求はそれじしんのメッセージを逆転したかたちで受け取る。

 

 つまるところ、隠された欲望とは何か。抑圧された欲望である。抑圧への恐れ。欲望が消失するその地点(抑圧)で、主体はこの消失から切り離されず、そこに含まれている。不安は欲望の消失から生じるのではなく、欲望が隠す対象から生じる。欲望の真理、あるいは<他者>の欲望についてわれわれが知らないものから。

 

 消失し得る欲望についての意識は共犯性だ(conscius = complice)。それゆえ先にサド的倫理と対象との関係に言及したのだ。いくつかの欲動の組み合わせのいわゆるアンビヴァレンツ、両義性、反転可能性。主体が対象となり、対象が主体となるのだ。これは<他者>に照らしてのみ意味をもつ。

 

 それゆえ、去勢複合における不安の源泉としてのアファニシスは問題を外れている。唯一の問題とは、なぜ欲望の道具としてのファルスが重要かだ。なぜ欲望ではなくファルスこそが不安に関与しているのかだ。あらゆる不安は無への不安だ。<<rien peut-être>>に主体は……[直面]するのだ。主体にとって最良の仮説は「恐るべきものはひょっとして何もない」。

 

 そこにファルスの機能が生じるのはなぜか。なぜファルスが、要求が含む空虚の秤として、つまり、快原則の彼岸から、要求を永久の反復にするものから、欲動を構成するものから、やってくるのか。

 

 欲望は欲望を脅かす問いの途上で構成される。それは n’être [ ≒ naître]の領域にある。教会と産児制限。いかなる立法者も報告していないが、子供の誕生の第一の存在理由は、子供が望まれる(on le désire)ということにある。人口政策の功利主義的必要と優生学的選択への不安にみちた恐れとのあいだで揺れる議論において忘れられているのはこのことだ。小さな一歩だが、この一歩は決定的である。

 

 

マゾッホとサド:『同一化』第15講(その3)

 

 承前。

 

 執筆中のサドの作品への序文(論文「カントとサド」)に基づくサドについてのコメントがしばしつづく。<他者>への道筋への構造化する親近性。この道筋が欲望の対象のいっさいの設立を規定する。サドにおいてこれは、<至高存在>への罵倒にみられる。<至高存在>の否定は罵倒というかたちをとる。対象の破壊は見せかけである。サドの犠牲者はあらゆる試練に抵抗するから。そして<自然>に受肉された母への転移がある。<自然>の(?)あらゆる行為への嫌悪である。<自然>の破壊行為を模倣しつつ、別のものを再創造すること。みずからの位置を創造主に返すこと。サドはそれと知らずに、言表行為によって、こう言っている。すなわち、私は父であるあなたにあなたのおぞましい現実をあたえる。母にたいする暴力的な行動においてわたしはあなたになりかわる。

 

 もちろん、対象を神話的に無へと返すことは、最終的に欲望の対象として崇められる特権的な犠牲者のみに狙いをつけるのではない。存在するすべての有象無象に狙いをつけている。サドの反社会的な陰謀のように、対象を無へと帰すことは、主としてシニフィアン的な権能の無価を装う(simuler)。これこそ、サド的欲望において設立される<他者>への根本的な関係と矛盾するもうひとつの項である。これはサドの遺言に示されている。「第二の死」である。存在そのものの死だ。死後に自分の痕跡が残ってはならないのだ。じぶんが埋葬されるであろう場所に草がふたたび生い茂らねばならない。その「痕跡の不在」にかれは主体として指示されたいのだ。より正確にはシニフィアン的な権能の無化として。

 

 シニフィアンの刻印そのものを含意する<他者>への関係において欲望の対象を内包することの正当性については、サド以上に最近復刊したポーランによる『ジュスティーヌ』序文を参照すべし。サド的想像力の対象との共犯性についての記述がある。ポーランははっきり述べていないが、サドの方法はマゾヒスムの本質に行き着く。犠牲者はサド的犠牲者の理想の、なんらかの不在の実質を担わされた「象徴」にすぎない。サド的主体は対象として廃棄される。ここでサドはマゾッホと通じ合う。マゾヒスム的享楽の行き着くところはしかじかの身体的苦痛を支えるべく身を差し出すことではなく、主体が純粋な対象となって廃棄されることにある。フェティシズムの対象でさえないひとつの無価値な財となること。<もの>への関係において、<他者>そのものの次元によって定義されるかぎりで享楽は根本的に混乱である。この<他者>の次元はシニフィアンの導入によって定義される。(つづく)

 

 

 

 

セミネール『同一化』第15講(その2)

 

 承前。

 主体とはわれわれに呼びかけるものである。同一化されるのは主体のみである。欲動やイマージュが同一化されることはない。フロイトはこれを主体と特定していないとしても。

 

 第一のタイプの同一化は体内化するそれである。身体のレベルで何かが生み出される。それは「神秘体」にかかわる。父とそこから生まれた者との身体の同一性。他方で教会という「神秘体」。フロイトは『群集心理学……』において自我の同一化を定義する際、<教会>の身体性を参照している。これをとっかかりにすることは混乱を招く。

 

 第二のタイプの同一化は、純粋なシニフィアンによるアプローチというかたちをとる。唯一の特徴がひとたび取り出されると(détaché)、主体を「数える=重要である(compter)者」として出現させる。

 

 シャクルトンと南極探検隊の逸話。数える行為は一人余計に数えてしまう。それゆえ[実際には]一人少ない。ここに主体が剥き出しの状態で現れている。一つ余計なシニフィアンの可能性のおかげで、欠けている者が一人いることが確認される。

 <他者>および<もの>とのかかわり。

 

 主体そのひとは最終的に<もの>へと差し向けられているが、その法、より正確にはその運命(fatum)は、<もの>への道筋が<他者>を経由するということである。<他者>がシニフィアンに刻印されているかぎりにおいて。シニフィアンを経由する必要に際して欲望と欲望の対象が構成される。

 

 <他者>の次元の出現と主体の出現における逆説は、欲望がこのような<他者>への関係によってうみだされる緊張関係によってしか構成され得ないことだ。この緊張関係が生まれるのは、唯一の特徴の出現がもののすべてを消し去ることによってだ。これはかつての「1」とはまったく別のものであり、けっして置き換えることができない。

 

 <もの>があったところに私が到来せねばならない。Wo Es war, da durch den Eins. 1としての1である唯一の特徴によって私が到来せねばならない。

 

 <<rien de sûr>> と <<sûrement rien?>>の両義性は、<<rien peut-être>>と<<peut-être rien>>の差異と同じ。 <<rien de sûr>>には<<rien peut-être>>と 同じく、もともとの問いの覆しという利点がある。<<sûrement rien?>>においてさえも、あり得る答え、とはいえ問いに先立つ答えという利点がある。子供にとって<<sûrement rien?>>は「すでに期待されているものとは別の答えは何もないにちがいない」ということ。期待(Erwartung)がもつ不安を取り除く利点は、フロイトが「われわれがすでに知っているもの以外のなにものでもない」と言い表している。

 

 そんなわけで、主体は<もの>を見出すために、最初は反対の方向に歩を踏み出す。主体のこの最初の一歩は無(rien)と表すほかないが、これを最初のシニフィアンの作用(jeu)の隠喩的および換喩的次元において捉えることが重要だ。というのも、無への主体のこのような関係を前にして分析家は二つの傾向にとらわれる。

 

 1)破壊の無への傾向。攻撃性を純粋に生物学的なそれと解釈すること。

 2)ヘーゲル的否定性に帰される無化。主体の創設における無は別のものである。主体は無そのものを導入し、この無は伝統的な否定性という理性存在とは区別される。ケンタウロスのような想像的存在とは区別される。ens privativum とも違う。カントが四つの無の定義において「概念なき空の対象」ということばで呼んでいる nihil negativum ではない。

 

 要求の彼方に対象が欲望の対象として構成されるのは、<他者>が<<rien peut-être>>(「最悪の事態はかならずしも確実ではない」)としか答えないからだ。それゆえ主体は対象のうちにみずからの最初の要求の価値を見つける。

 

 たとえば愛において現れる対象と<他者>の親近性。『人間嫌い』のエリアントがルクレティウスを引くくだり(「青白い顔の女はクチナシのようだと言われ……」)。欲望の対象は<他者>への関係において構成されるが、<他者>はそれじたい唯一の特徴に発している。対象における特権は、ひとつひとつの特徴が特権となるという不条理な価値に宿る。欲望の対象の構成が、<他者>が答えないことによるシニフィアンの最初の弁証法に構造的に依存していることはサドにおいて明らかである。(つづく)

 

 

 

『同一化』第15講(その1)

 第XV講(28/03/1962)

 

 主体の同一化の過程はトーラスによって示される。同一化の弁証法

 

 トーラスは球面ならざる表面で唯一われわれの関心を引く。どんなに変形しても恒常的な関係を保つ「ゴム製の論理学」。

 

 本質的にわれわれの関心を引く表面は閉じられた表面である。主体も閉じられたものとしてみずからを提示するからだ。

 

 あらゆる閉じられた表面は[突起のついた]球に帰される。クロスキャップの導入が予告される。クロスキャップにおいては裏と表の表面が連続的である。

 

 トーラスの周囲を無際限に回転する円は同じにして別物である。シニフィアンのしつこい自己主張(insistance)であり、とくに神経症者の反復的要求の insistance である。

 

 一方、一連の反復的要求によって主体の知らぬ間に形成される中心の穴は「受動的」象徴化を示し、これが無意識的欲望である。欲望はこれらいっさいの要求の換喩である。

 

 特権的な円は、トーラスの外部から出発しつつ、中心の円を通って中心の円を包括することで閉じられるそれである。この円は、同時に二つのことを行うという特権をもつ。横断すると同時に包括するのだ。これは二つの円の加算、要求と欲望の加算であり(D+d)、要求を、その基盤にある欲望によって象徴化することを可能にする。

 

 

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 このことの利点は何か。日常生活で経験されるように二つの要求の対立が起こったばあい(「私が要求するものか、あなたが要求するものか」)、要求の不一致を表せることだ。かくしてトーラスがオイラー図に重ね合わせられる。

 

 二種類の「……か、……か」がある。欲望は二つの要求の同意(contrat)、合意(accord)ではない。

 

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図の(1)と(2)の領域にかんして問題なのは、表面が閉ざされることであり、より正確には、内的な空(vide)(2)にたいして閉ざされることである。(2)は 対象a に相当する。これは「欲望にたいする主体の関係の究極的な基準」であるファルス(φ)に照らして理解される。(つづく)

 

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「不能」と「不可能」:『同一化』第14講(了)

 

 承前。

 

 <他者>は何も答えない。何ものも確実でないから。それにはひとつの意味がある。すなわち、それについて<他者>がこの問いについて何も知りたくないということだ。

 

 このレベルでは<他者>の「不能」がひとつの「不可能なもの」に根づいている。「可能ではない pas possible」は唯一の特徴がその分裂する価値のなかに現れる空虚であった。ここでわれわれはこの「不可能なもの」が受肉し、原初的な禁止において欲望の構築によってフロイトにより定義されたものに結びつくのを目にする。

 

 <他者>の答えることの不能は、ひとつの隘路(impasse)に由来する。この隘路は、<他者>の知の制限(limitation)とよばれる。「彼はじぶんが死んでいることを知らなかった」。かれが<他者>のこのような絶対性に到達するのは、受け入れられた死によってではなく被った死によってでしかない。主体の欲望によって被った死である。

 

 このことをいわば主体は知っている。<他者>はそれを知ってはならないこと、<他者>は知らないことを要求するということを。これこそが、混同されえない二つの要求における特権的な部分(part)である。つまり、<他者>の要求と主体の要求である。つまり、欲望は二つの要求のうちで言ってはならないものの交点として定義される。そこではじめて諸要求が解放され、欲望の領域以外のあらゆるところにおいて表現可能となる。

 

 欲望はかくしてまず、その本質からして、構造的に<他者>には隠されているものとして構築される。主体の欲望となるのは<他者>に属する「不可能」(l’imposoble à l’Autre)である。欲望は<他者>に隠された要求の部分(partie)として構築される。この<他者>はパロールの場であるかぎりで何も保証しない。そこでこそ<他者>は多大な影響力をもつ。すなわち、<他者>は欲望の位置そのもののヴェールとなり、覆いとなり、隠匿の原理となる。そこでは対象が隠されている。最初になんらかのものが実在するとすれば、それは欲望の位置である。ついでそれが主体そのものの実在に置き換わる。というのも主体は、<他者>に左右される(suspendu à l’Autre)ものであるかぎりで、<他者>の側では何も確実ではないということにも左右される。ただし、<他者>は対象を隠しており、この対象は欲望の対象になるかぎりでなお「おそらくは無 peut-être rien」である。

 

 欲望の対象はこの無そのものとして存在する。<他者>は、<他者>のいっさいがこの無であることを知ることができない。この無は<他者>に隠されているかぎりで一貫性をもつ。この無はいっさいの対象の覆い(enveloppe)となる。この覆いをまえにして主体の問いそのものが止む。主体はそのときもはやイマジネールでしかない。要求は<他者>の要求から解放される。そのとき主体は<他者>のこのような非知を排除する。

 

 とはいえ、二種類の排除がある。「あなたが何を知っていて何を知らないかはどうでもよい。私は行動する」。「あなたは知らないわけではない」とは、あなたが知っているか知っているかはどうでもいいという意味である。

 

 とはいえいまひとつの行き方がある。「あなたは絶対に知らなければならない」であり、神経症者の道だ。かくして神経症者は精神分析家の門を叩くのだ。

 

 ねずみ男は夜中に起きてドアを開け、父の幽霊に勃起しているところを見せる。神経症者は<他者>が何もできないことをおそれるので、せめて知っていてほしいと願う。

 

 さきほど engagement について述べた。神経症者は、そう信じられているのとはぎゃくに、主体として行為する人だ。かれは「メッセージ」と「問い」の二重の出口を閉ざす。<<rien peut-être>> と <<peut-être rien>> のどちからにきめようとバランスをとる。かれは<他者>の前にレエルとして身を捧げる。つまり「不可能なもの」として。

 

 ねずみ男には、欲望の対象を主体の実在に変換する媒体、より正確には道具がある。つまりファルスである。ファルスであろうとなかろうと、神経症者は、「不可能なもの」として特殊化されるものとしてレエルの領域に到来する。

 

 これは恐怖症にはあてはまらない。強迫神経症者はみずからを余計であるとすることによってレエルの次元を体現する。これが強迫神経症者に固有の「不可能なもの」の形態だ。隠された対象の罠にかかった位置から逃れようとするやいなや、かれはどこにもない対象でなければならない。ここから強迫神経症者の残酷な貪欲さが生まれる。どこにもいないために偏在しようとすることへの貪欲さだ。

 

 強迫神経症者の偏在への嗜好を無視して強迫神経症者の行動を理解することはできない。

 

 ヒステリーは別のモードをもつ。ヒステリー者もまた「不可能なもの」としてみずからをレエルなもののばしょに置くが、<他者>がヒステリー者を記号として認めてもこの不可能は残存する。ヒステリー者は<他者>が信じることのできる何かの記号になろうとするが、この記号となるには彼女はレエルなのであり、なんとしてもこの記号は<他者>に刻み込まれなければならないのだ。

 

 神経症の構造、根本的な弁証法は、確実なものの保証としての<他者>の最終的な失墜に基づいている。欲望の現実のパラドクス。隠されているものの次元は、「真理」が問題になるとき、もっとも矛盾に満ちたものとなる。哲学は全知の<他者>を「真理」の支えとしている。とはいえ、隠されたもの次元だけが<他者>に一貫性をあたえる。あらゆる信仰、神への信仰の源泉は、<他者>に全知を帰すことにある。

 

 倫理と欲望。カント的実践理性への言及のあと、「幻想」の受容が欲求不満の解決策であることが予告される。

 

「たぶん何も」と「もしかして何も?」:『同一化』第14講(その3)

 

 承前。 

 

 欲望のグラフにおける裂け目は、<他者>への答えの求めが rien peut-être と peut-être rien のあいだで揺れることにある。

 

 以下のグラフ下段がメッセージである。

 

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 メッセージは現実界への主体の参入によって構成される開けとしてわれわれに現れるものへと開かれる。これは可能性(possibilité ; Möglichkeit)にかかわる。可能なものは<もの>の側にではなく主体の側にある。「メッセージは欲望を構成する状況における期待によって構成される偶然性(éventualité)へと開かれる」。「おそらく」(peut-être)における可能性は「無」(rien)という主格(nominatif)に先行している。この「無」はその究極において、肯定性(positivité)の代替(substitut)の価値をもつ。これはピリオドであり、ピリオドでしかない(un point c’est tout.)。trait unaire の位置はここでは欲望の期待にこたえることのできる空虚に割り当てられている。

 

 <<rien peut-être?>> という問いはまったく別(グラフ上段)。「おそらく」は問いに付されている要求(私は何を欲しているのか?)のレベルにある。「おそらく」はここではメッセージのレベルではあり得る答えをなしていたものと同じ位置にくる。

 

 <<peut-être rien>>はメッセージの最初の定式化である。

  <<peut-être:rien>>はひとつの答えでありうるが、これは<<rien peut-être?>>という問いへの答えであろうか。否。ここでは rien という平叙的言表(énonciatif)が結論することの non lieu [免訴]の可能性を立てるものとして、まず、実存の cote に先行するものとして、存在の潜在性(puissance)に先行するものとして、問いのレベルにあるこの平叙的言表(énonciatif)は、問いそのものの無(néant)の名詞化という価値をもつ。

 

 <<rien peut–être?>>という文のほうは、つぎのような可能性に開かれている。何ものもそれを問いとして規定しない可能性、何ものも全体(tout)によって定義されない可能性。何ものも確実ではないことがあり得、結論できないことがあり得(カフカ的『審判』の無限の遡行によらぬかぎり)、結論することの不可能性によって問いが存続する可能性。現実界の偶然性(éventualité)のみが何かを規定することができ、問いの存続によって無(néant)を指し示すこと(nomination)こそ、問いそのもののレベルにおいてかかわっていることである。

 

 <<peut-être rien>>は、メッセージのレベルにおいては、ひとつの答えでありうるが、メッセージはひとつの問いではないのであった。

 

 問いのレベルにおける<<rien peut-être?>>は、ひとつの隠喩でしかない。つまり、存在の潜在性(puissance)は彼方からくる。いっさいの偶然性はそこではすでに消滅している。いっさいの主体性もどうようである。

 

 あるのは意味の効果だけである。意味から意味への無限の送付だ。ただし、分析家はこの送付を二つのレベルに送付することに慣れている。このふりわけがすべてを変える。なんとなれば隠喩は圧縮、つまり二つの連鎖であり、メッセージのさなかに思いがけない仕方で現れ、問いのさなかにメッセージともなる。famille という問いは分節化されて、millionnaire の million のさなかに現れる。メッセージのさなかにおける問いの闖入は、メッセージが問いのさなかに、真理へと導かれる道筋において現れ、真理についての問い(問いそのものであり、問いへの答えではない)をとおしてメッセージは現れるというふうになされる。

 

 言表行為と言表の差異。このような「無の可能性」がこの裂け目を見えなくする。この裂け目は記号からシニフィアンへの移行において具現化している。そこにおいてこの差異において主体を識別するものが現れる。

 

 主体は記号であろうかシニフィアンであろうか。記号である。何の記号か。何ものでもないものの記号である。シニフィアンがいまひとつのシニフィアンにたいして主体を表象するものであるなら(意味の無際限な先送り)、そしてそのことが何かを意味するのであれば、それは、シニフィアンはいまひとつのシニフィアンにたいしてなにものでもないもの(rien)としての主体という特権的なものを表象するから。(つづく)

 

 

 

 

トーラスの動物:『同一化』第14講(その2)

 

 承前。

 

 objet a は、鏡像段階のレベルでの他人(l’autre)のイマージュ、i(a)自我理想を内包している。

 

 とはいえ、この関心はひとつの形態でしかない。それはこのニュートラルな関心の対象であり、ピアジェはかれが相互性とよぶこの関係を前景化しているが、ピアジェはそれを論理的関係のひとつの根源的な定式たり得ると考えている。想像的なものであるかぎりでのこの他人との同一化によってこそ対象の出現の三項性は打ち立てられるのであるが、これは不十分で部分的な構造でしかない。

 

 <他者>への関係は包括的な(générique)形態の特殊性に基づくこの想像的な関係ではない。というのも<他者>へのこの関係はそこにおいては要求によって特殊化されるからだ。要求がこの<他者>から出現させるのは、主体の構成における本質性(essentialité)、もしくは inter-esser という動詞をいまいちどとりあげるならば、主体にとっての<他者>の間-本質性(inter-essentialité)である。

 

 ここで問題になっている領野はいかなるいみにおいても必要性(besoin)の領野に還元され得ない。もしくは似姿との競合関係においてひつようとなる生体の代替対象の領野には。トーラスは別の領野にある。シニフィアンの領野、現前と不在の connotation の領野。そこでは対象はすでに代替の対象ではなく、主体の脱存在 ex-sistence である。最初の競合関係の対象a はこうした機能に高められる。

 

 他人の支配における欲求不満の関係から去勢へ。去勢は主体を欲望のなかに位置づけ、ex-sistence の状態に置く。

 

 主体は représentant-représentatif によって表象される。そこで主体は個人としての他人との[クルト・]レヴィン的関係からは排除されている。レヴィン的領域においては主体がトポロジー的に二つの場所において定義される必要をもたない。すなわちレヴィン的領域とそこから排除されている領域である。

 

 二重否定の罠。「私が欲していると私は知らない」は「私は欲していないと私は知っている」と同じことではない。『精神病』でとりあげられた例に立ち戻るなら、「いずれにしてもご存知でしょう」と言うために「知らないわけではないですよね」というごとく。プレヴェールのあるテクスト。

 

 「カナール・アンシェネ」のアンドレ・リボーによる記事(il ne faut pas se décombattre de quelque défiance des rois.)。

 

 二つの否定が重なり合う。打ち消しあうのではなく、お互いを支え合う。トポロジー的二重性。il ne faut pas de décombattre は、de quelque défiance des rois と同じレベルにおいて言われていない。言表と言表行為は切り離すことが可能であるが、ここでは両者の裂開が明白である。

 

 トーラスはこの二重化、主体の両義性において橋の役割を果たす。迂回の必要性。入ること(s’engager)にはすでに通路のイメージ、入口と出口のイメージ、背後で閉ざされた出口のイメージを含意する。engagement の最終的なイメージは、「おのれの出口を閉ざす」ことへの関係に現れている。

 

 平面に取っ手のついたトーラスが示される。これをひっくり返すと穴倉が現れ、人間がかつて穴倉に住まう動物、トーラスの動物であり、なおそうでありつづけていることがわかる。

 

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 内部と外部の通底。先述の「通路」「回廊」「地下室」。『地下生活者の手記』。社会的群れの通行路(voies)への関係。通行路の吻合(anastomose)は生体のもっとも内奥に存在するものを模倣している(simuler)。人間だけではない。蟻、シロアリ、そしてカフカの語っている穴倉のなかのアナグマも。

 

 思考が主体の世界にたいする関係を組織するとき、それを無視する。抑圧や無視(méconnaissance)がある。なぜか。

 

 <他者>への関係は自然的な関係とは別のところにある。それは思考を逃れ、思考はそれを拒む。<他者>への問い。欲望とその満足についての問いから出発すべし。主体の位置の根源的二重性に罠が宿る。

 

 それをシニフィアンのレベルで感じ取ること。シニフィアンは主体の位置の二重性によって特徴づけられる。欲望のグラフにおけるメッセージと問いの差異。

 

 ここで取っ手状のトーラスが欲望のグラフに重ね合わされる。

 

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  「グラフは、主体がそこを通って普遍的ディスクールの平面に二重に一致する裂け目のうちに位置づけられる」。

 

 欲望のグラフにおける裂け目は、<他者>への答えの求めが rien peut-être と peut-être rien のあいだで揺れることにある。(つづく)