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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

エディプスという結び目:セミネール『同一化』第14講(1)

 

 第XIV講(21/03/1962)

 

 前回は二つのトーラスのサンボリックな抱擁で終えた。そこにおいて想像的に転倒(interversion)の関係が具現している。この関係を神経症者は生きている。神経症者がみずからの欲望を基礎づけよう(fonder)、立ち上げようとするのは<他者>の要求への依存関係においてである。

 

「話すものとしての主体の構造」において創設されたものがそこにはある。それを示すべくトーラスを援用する。トーラスはトポロジーでいう「基本群」の機能をもつ。

 

これが基本構造であるなら、なぜ哲学においてかくも無視されてきたのか。なぜ球といういまひとつのトポロジーがものへの関係をめぐる思想を支配してきたのか。

 

<他者>との結び目(nœud)のなかには罠の関係がある。

 

神経症の主体は<他者>たる分析家に答えを求め、分析家はその答えを保留する。

 

パロールにたいする欲求不満(frustration)の本質的関係は根本的な論点であり、それなしには欲求不満の概念は崩壊してしまう。必要性と差がなくなってしまう。

 

 欲望についてのフロイトの天才が明らかにしていること。欲望はオイディプスという結び目によって根本的に構造化されている。この内的な結び目をなくしてしまうことは不可能。この結び目は本質的に、要求(絶対的命令、法)と欲望(<他者>の欲望)との関係である。

 

 この要求は以下のように表現される。「おまえはわたしの欲望であった女性を欲望してはならない」。フロイト的真理の出発点をその構造において基礎づけているのはこのことである。

 

 そしてそこを出発点として、いっさいの可能な欲望が一種の迂回を否応なく強いられる。これはトーラスにおけるいくつかの周回におけるlacs の省略不可能性に似たものである。このものゆえに、欲望はおのれのうちに空虚を含まなければならない。原初的な法への関係において特殊化される内的穴を含まなければならない。

 

 この最初の関係をめぐってあらゆる愛の条件(Liebesbedingungen)、あらゆる愛の規定(déterminations)をフロイトにとって分節可能になる。

 

 愛の至高の形態は、原初的な殺人において殺害された父という他者への関係において宿る。

 

 これは明白なパラドクスであるが、オイディプスの神話的構造において、父へのこのような至高の愛という契機は本質的である。それがこの原初的な死、原初的な殺害をそれ以来絶対的なものとなる父の現前の条件とするのだ。

 

 死は、このような役割を担うことで、父をこのような現実に固定することのできるものとして現れる。おそらく、不在であることによって唯一の絶対的に永続的なものとして。原初的な掟の絶対性にこれ以外のいかなる源泉も存在しない。 

 

 ここにおいて制定される共通の領野においてこそ欲望の対象が構成される。想像的な次元においてのみ必要なポジション、すなわち第三者のポジションにおいて。

 

 鏡像段階の想像的な関係における移行的なものとしての他者への関係の唯一の弁証法は似姿に結びついた人間的関心の対象となる。すなわち対象aである。(つづく)