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縫合としての主体:セミネール第9巻『同一化』(その11)

 

 

 第XIII講(承前) 

 

 ……前回は「剥奪」で話を終えたのだった。(-1)によって象徴化される主体についてはご理解願えたものと思う。計算に入れられない一周。マイナス1と計算される一周。つまり一周したときに巡っているトーラスの一周。

 

 この(-1)の機能を普遍肯定の可能性という論理的基礎に送付しよう。つまり例外を基礎づける可能性。そしてそのことが規則を要請する。例外は原則を立証しない。例外は原則を要請する。例外こそが普遍肯定の真の原則である。

 

 パースのカドランによって、普遍的肯定の唯一の真の保証は否定的な特徴の排除であることを示そう。「死ぬことのないような人間はいない(il n’y a pas d’homme qui ne soit mortel)」。混乱をただそう。これを象徴界を出発点とする過程の演繹とみなすべきではない。カドランのなかで何も[垂直線も斜線も]含まないマスは、切り離されたマスと見なさねばならない。主体という(-1)は、このレベルでは、それじたい、主体化されてはいない。まだ知も無知も問題ではない。何かがこの到来のレベルで生ずるためには、ひとつのサイクルぜんたいが埋まっていなければならない。それの剥奪は第一歩でしかない。

 

 問題になっている剥奪はレエルな剥奪である。

 

 長い迂回を経てはじめて主体にとって原初的排斥(rejet originel)の知が到来し得る。しかしそれが日の目を見るとき主体は知る。この知がかれを拒絶するということだけでなく、この知が、欲望の実現にとってつねに到達すべきものの向こう側か手前にあるかぎりにおいてそれじたい拒絶すべきものであることを。

 

 言い換えれば、仮に主体が(パルメニデスの時代以来の主体の目標だ)思考と存在との同一視に至るとすれば、そのとき主体みずからが欲望と理想とにとりかえしのつかないくらい分裂している。

 

 これにより、トーラスの対象的(objectif)構造と呼ぶべきものが示される。デカルトに至るまで用いられていた「対象的」という語をここで使っていけない理由はない。

 

 ここにいたってレエルに関することは完璧に触知可能となる。われわれをトーラスの構築に導いたものは、周回のそれぞれを決定的に異なる1として定義する必要である。それがレエルであるためには、つまりこの象徴的真理が、計算(comput)を想定しているという理由によって設立されるためには、なにかがレエルのなかに現れねばならない。それは trait unaire である。理想に現実性をあたえるこの1を前にすると、理想とは象徴的なものにおけるもっともレエルなものであることが理解される。そしてそれで十分。思考の起源においては、プラトンの時代そしてプラトンにあっては、それは賞賛、驚嘆を引き起こした。<一>は善であり美であり真である。至高存在である。

 とはいえ、この1は、小さな棒という現実以上のものではない。原初の狩人はレイヨウの肋骨に狩をした回数を刻んだ。計算ができなかったのでこの線を入れるひつようがあった。十回と十二回と十三回が混同されないように。

 それゆえ剥奪のレベルでは、主体がまず対象的に(objectivement)ものにおけるこの剥奪であるかぎりにおいて、その実態が計算されない一周であることを主体の知らないこの剥奪であるかぎりにおいて、主体が欲望として構成される条件が理解される。そして主体がこの構成のこの起源への関係を知る条件が理解される。この構成のおかげで、主体の欲望の構造の主体に対する象徴的関係についてこれまでよりもより適切に言い表すことができる。

 

 とはいえこのことは、主体が欲望の状況に置かれるときの主体の観念あるいは機能を推測させてはくれない。つまり、主体については経験についてのひとつの方法(ヘーゲル現象学の副題である「経験の科学」)に従わねばならない。同じ方法(chemin)によって[ヘーゲルとは]異なるデータを扱わねばならない。

 

 つぎの一歩は欲求不満(frustration)だ。欲求不満の水準においてこそ主体にとって新たな本質的な一歩が導入される。<他者>である。

 

 唯一の周回の1、絶対的な差異においていちいちの反復を区別する1は、主体に到来しない。たとえその支えがレエルな棒という支えにすぎないとしても。主体にとってそれは、この主体が生まれる以前に言説の宇宙の存在によって、この経験が<他者>の場から大他者とともに想定する必然によって、構成された経験に由来する。

 

 ここで主体は本質的なものを獲得する。私はそれを第二の次元と名づけた。これはその構造におけるみずからの位置づけ(repérage)の根源的機能である。それゆえに、隠喩的に、しかしこの隠喩においてものの構造そのものに到達するなどと主張することなく、われわれはこの第二の次元をトーラスの構造と呼ぶ。この次元はあらゆる lacs のなかでも一点に還元不可能な lacs、消失しない lacs の存在を構成している。

 

 <他者>においてこそこの二つの次元の還元不可能なものが必然的に具現する。この還元不可能なものがどこかで可感的であるとすれば、それは象徴的なものの領域においてであるほかない(われわれにとっての主体はこれまでのところ話す主体であるから)。象徴的なものの経験においてこそ、主体はかれのさまざまな移動の限界に出会わねばならない。この限界は主体にたいしてまず経験においてこの二つの次元の二重性の還元不可能な先端あるいは角(かど)を導入する。

 

 これにこそトーラスの図式が最大限に役立つ。そして精神分析とそれが目覚めさせる観察によって豊かになった経験が出発点となる。

 

 みずからの欲望の対象を主体は口にしようと企てることができる。主体はそればかりしている。それはひとつの言表行為以上のものだ。想像力の行為だ。それは主体のうちに想像的な機能のはたらきを引き起こし、必然的にこの機能は、欲求不満が現れるや否やその現前が明らかにされる。

 

 わたしはアウグスティヌスにならって、このしゅの対象の構成における嫉妬的情熱の目覚めを強調してきた。これはわれわれの満足のいちいちに潜在している。幼児は弟を前にして嫉妬の情熱に囚われる。弟はかれにとって、イマージュとして、この対象(とりわけ乳房)の所有を生じさせる。この対象は幼児にとってそのときまで潜在的な対象にすぎず、満足のいちいちに結びついた現前の回帰の背後に、省略され、隠された対象にすぎなかった。それはかれの最初の依存の必要が刻まれ、感じられるリズムのなかで、その回帰のいちいちの換喩的対象でしかなかった。ここでとつぜんその対象が、幼児にとって光の中に浮かび上がる。それは死の青白さを帯びている。欲望という新しいものの光。対象そのものへの欲望。その対象は根底から主体を捉え、主体を揺さぶる。主体のなりたち(constitution)を超えて。主体を満足させようとさせまいと、主体をその存在のもっとも親密な部分において脅かすように、主体の根本的な欠如をあらわにするように。小他者という形態において。この形態が条件づける換喩と喪失とをともども陽のもとにさらすように。

 

 こうした喪失の次元は換喩に本質的である。それは対象におけるものの喪失である。喪失され二度と同じものとして再発見されないことが対象という主題の真の意味だ。これはフロイトの言説の根底にあり、たえずくりかえされている。

 

 さらに一歩。換喩をさらに進めたところにあるのは、イマージュつまり自我と呼ばれる換喩における本質的ななにものかの喪失である。欲望が生まれるこの地点において、アウグスティヌスが幼児のまえで立ち止まった(その18世紀後にフロイトが孫を前にそうしたように)青白さにおいて、私が嫉妬している存在すなわち弟が私の似た者であると言えるのは誤った仕方によってだ。弟は私のイマージュである。このイマージュが私の欲望を創設するイマージュであるといういみにおいて。これは想像的顕現であり、これが欲求不満の機能の意味だ。

 

 こうしたことはすでに知られている。わたしはそれを経験の第二の源泉として想起させているだけだ。レエルな剥奪のあとで、イマジネールな欲求不満がくる。しかし、レエルな剥奪にとってとおなじく、イマジネールな欲求不満がサンボリックの創設に役立つことを本日私は示そうと試みた。同じくいかにこの創設的イマージュ、欲望を顕現させるこのイマージュがサンボリックのなかへ移行するかを。

 

 この投資は困難だ。もしサンボリックがすでに現前してないのであればそんなことはまったく不可能だ。もし<他者>と、主体が身を置くべき言説が、出生以前に主体を待ち受けていないのであれば。そしてもし母親や乳母の仲介によってだれか(on)が主体に語りかけていなければ。

 

 問題になっている管轄(ressort)はわれわれの経験のイロハ(b.a.-ba)であるが、イロハとしてそれを形式化することができないためにしばらくまえからその向こう側へは行くことができない。この管轄は、<他者>の次元によって、欲望と要求のあいだにつくりだされる素朴な交錯あるいは交換だ。

 

 もし、はじめに神経症者が囚われになる何かがあるなら、それはこの罠にである。そして神経症者は、みずからの欲望の対象であるものを要求のなかに移行させようとするだろう。小他者から、要求がさしむけられる必要性の満足をではなく、欲望の満足すなわち欲望の対象を得ようとするだろう。つまり要求され得ないものを得ようとするだろう。そしてそれは小他者への主体の関係におけるいわゆる依存の起源においてのことだ。

 

 どうように主体は、さらに逆説的なことではあるが、みずからの欲望の形成(conformation)によって、小他者の要求のままにこれを満足させようとするだろう。これこそ精神分析フロイトの発見の意味だ。超自我そのものの存在の意味だ。

 

 神経症者の隘路はまず欲望の隘路という問題以前に、各瞬間において可感的な隘路であり、それは粗野なほどに可感的であって、それに神経症者はつねにつまづく。神経症者の欲望にとっては、要求の承認(sanction)が必要だとでも言うことができるだろうか。分析家は神経症者に何を拒むか。神経症者が分析家に期待していることだ。つまり分析家が神経症者に適切に欲望することを要求することだ。神経症者が配偶者や親や親類や周囲のあらゆる日和見論者にたいして期待していることについては言うまでもない。

 

 それによってわれわれは何を構成し察知することができるのか?

 

 要求は充満した円を周回する度に更新され、その成功がさらなる周回を促すが、要求には要求の lacs [である]必要性が挿入されている。

 

 それゆえにその回帰のいちいちをつうじて、排除された円(空虚な円)が、あらゆる要求の下に換喩的対象を具現し(matérialiser)にやってくる。

 

 トーラスによってひとつのトポロジカルな構成が想像可能だ。その特徴は欲望の対象の貼り付け(application)を想像させてくれること。さいしょのトーラスの内部の空虚な円を第二のトーラスの充満した円に貼り付けると、還元不可能なlacs のひとつとしての留め金ができる。

 

 ぎゃくに最初のトーラスの円は、要求によって他方のトーラスに重なる。

 

 ここでトーラスは他方(小他者)の支えである。欲求不満の想像的他者の。

 ……ここにこのトーラスの空虚な円が重なり、つまりこの逆転を示す機能を満たしにくる。一方における欲望、他方における要求、一方における要求、他方の欲望が結び目をなし、そこに欲求不満の弁証法がすっぽり嵌り込む。

 

 二つのトポロジーのこうしたありうる依存、ひとつのトーラスのもうひとつのトーラスへの依存を示すことがわれわれのシェマの目的である。つまりカント的直感の空間がわれわれの導入した新たなシェマのおかげで括弧に入れられ無益なものとして廃棄され(aufgehoben)ねばならないとしても、というのは、トーラスのトポロジー的な延長が表面という特性だけを考慮することを可能にしてくれるからであるが、われわれは、深層についての直観に訴える必要なしに、システムの嵩(volume)の堅固さを維持することができると確信する。

 

 ふたつの表面のあいだで問題なのはもっぱら1対1の(biunivoque)貼り付けによる置き換えなので、ひとたび切断されて逆転しても、それがはっきりと示すのは、要求されている(exigé)空間の観点からは、内部と外部というこの二つの空間は、われわれがトポロジー的な実質以外の実質をそれらに付与することを拒否する瞬間から、同一だということである。

 

 これはローマ講演の要となる文において述べられていることだ。輪の特性は、一方から他方への関係において主体の機能を象徴するかぎりにおいて、内部の空間と外部の空間が同一であることに存する。主体はそこを出発点として、みずからの外部の空間を、内部の空間の還元不可能性というモデルに基づいて構築する。

 

 しかしこの図式が示すのは、明らかに、対象から要求へと、要求から対象へと要請されるかもしれない理想的な調和の欠損だ。その幻影は経験によって十分に示されているので、両者の必然的な不一致という必然的なモデルを構築する必要性(besoin)をわれわれは感じている。わたしのあゆみがゆるやかにみえるとしても、確実にあゆみをつづけるためには停滞は必要である。

 われわれがすでに知り、直観的に表現されていることは、それじたい欲望の対象であるかぎりにおいて、対象は<他者>が要求に応えることの不可能性の効果であるということだ。欲望の如何にかかわらず要求を満たすために小他者は十分ではない。小他者は構造の大半を必然的にむき出しのままに残す。言い換えれば、主体は<すべて>のうちに包まれているのではなく、すくなくとも話す主体のレベルでは、環界 Umwelt がその内界 Innenwelt を包括しない。つまり、理想的な球面(sphère)に照らして主体を想像するためにしなければならないことがあるとすれば、すでにコスモスの構造という直観的で心的なモデルは、むしろ主体をくだんの球面の穴の存在によって、そして二つの縫合による補填によって表象することであろうということだ。

 

 主体をコスモス的球面のうえに構築すべきものと仮定しよう。ひとつの無限の球面の表面はひとつの平面である。無際限に拡張された黒板の平面だ。

 

 ここに主体がいる。四角い穴だ[円の中に黒い長方形が描かれた図]。さきほどの私の皮(?)の一般的布置であるが、こんどはネガ状である。

 

 わたしはひとつの縁を他方の縁と縫い合わせる[円の中に破線で繋がれた黒い円が上下に二つ並んでいる図]。ただし条件がある。これらは相対する縁で、二つのもう一方の縁はそのままにしておく。その結果としてつぎの図形を得る。つまり、ここで埋められた空虚をそなえた、無限の表面の領域において残っている二つの穴。あとはこの二つの穴の縁のそれぞれを引っ張れば、無限の平面上に主体が構成される。この平面には取っ手がついているが依然としてトーラスである。

 

 以上が<全体>との主体の関係について最大限言えることだ。

 

 ここで理解が重要なのは、要求にたいする対象の一致(recouvrement)のためには、欲望の円と要求の円の機能の逆転において想像的な他者がかくして構成されるならば、小他者は主体の欲望の満足のために力(pouvoir)なき者として定義されねばならないことだ。「なき」を強調したい。というのは、これによって、新たな形態の否定が現れるから。そこにおいては厳密ないみでの欲求不満の諸効果が示される。「なき」は否定であるが、とくべつな否定である。それは否定=関係(liaison)であり、英語において whitin とwhithout という二つのシニフィアンの二つの関係の因襲的な相応がこれを巧妙に具体化している。これは拘束された(lié)排除であり、すでにそれじたいにおいてその逆転を示している。

 

 さらに一歩を進める。「なしにではなく(pas sans)」という一歩だ。小他者はおそらく、力なきものとしての欲望の素朴な観点において導入されるが、本質的に、他人を欲望の構造に拘束するものは「なしにではなく」だ。それ?もまた力をもたないのではない。それゆえに唯一の特徴の隠喩としての<他者>は、このレベルにおいては、無限の退行において、というのも<他者>は、主体がその換喩であるところのこれらすべて異なる「1」どもが継起する場であるからだが、この「1」としての(comme un = commun という機知)<他者>は、想像的な欲求不満の諸効果の必要が、この固有の(unique)価値をもつものとして、ひとたび満たされる(bouclé)と、というのも、それのみが「なき」ではないからだが(「力なしにではなく」pas sans pouvoir)、これは条件として設定された欲望の可能な起源にある。たとえこの条件が保留されているとしても。そのために、それは「1ではないように(comme pas un)」だ。それは主体の(-1)にもうひとつの機能を付与するが、その機能はまず、この「ように(comme)」があなたを隠喩の次元に位置づけるこの次元において具現化される。

 

 このレベルにおいて、comme pas un のレベルにおいて、そして、そのつづきにおいて「欲望の絶対的な条件性」とわたしが呼んだものとして保留されたままであるものすべてのレベルにおいて、次回、すなわち第三の項において、欲望という行為そのものの導入に手をつける。その主体への関係、力の根源(racine)への関係、この力のもろもろの時間(局面)の再分節化への関係において。というのも「力」と「力なき」という語の導入によって成し遂げられた道をしるしづけるためにありうる一歩(あり得ない pas possible)にたちもどるひつようがあるからだ。両者の弁証法が次回扱われる。