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愛への愛としての喪:講演「私の教えていることについて」(了)

 承前。 

 

 ここでフロイトが「メランコリー」論文で語っている奇妙な喪に出会う。これを métamour と呼ぼう。メタ言語は存在しないが、メタ愛はあるのだ。愛が走り(se courir)また近道をとる(court-circuiter)のもこの同じ道である。その途上で愛の営み(ébats)からひとつの対象を生じさせるが、それはひとつの奇跡といえるほどに予想外である。この対象は欲望の苦しみ(affres)へとすでに約束されている。享楽すべきものを手にするまえに人間主体は愛されている。主体は隷属している。人間の人間性は愛に与えられているから。その代償は承知のうえだ。

 

 それ(ça)を携えて主体は他人の許へ赴く。この他人は主体にみずからの人格(personne)を贈与する。そこで主体は立ち止まる。なぜならこの人格こそ主体の愛するものだから。神への愛しかり。ある間違い(maldonne)から居心地のわるさが生じる。この間違いは経験を果てまで辿ったすえにいっしゅの悲しみを投げかける。歓喜の方へ、最初に約束された忘我の方へと。おそらく喜劇的でもある忘我。わたしは愛が喜劇的な感情であると教えている。とはいえ愛は喜劇という迂回によってすがたをあらわすのではなく、欲望という迂回によってあらわれる。喜劇と欲望は機知において溶け合う。喜劇的なのは愛が呼び出す器官(=ファルス)である。喜劇的なものが弾けるにはこの対象がどこかになければならない。アリストファネスにおいては舞台上にある。今日ではもっと慎ましくではあっても、それは現前している。『守銭奴』が喜劇であるのは気取った男が守銭奴に娘のことを話しているのに守銭奴は金庫のことだと思っている場面である。金庫は他人のファルスである。

 

 愛とは愛の要求(demande)にたいして応えるものである。愛への渇きを満たすことなく赤ん坊のすべての欲求(besoin)を満足させることはできる。しかし呼びかけにおける愛の要求にかんしては、欲求を満たす手への要求ではなく[母親の]現前への要求である。ママとパパという言葉を覚えることで赤ん坊ははやくも二つの音域を区別する。パパにたいしては母親[へ]の呼びかけにたいしてたんにすがたを見せること(pur retour)が割り当てられ、ママは父親が運んでくるおやつを補う。(コンテのメモには「最初に獲得される音素たちの交換可能な使用」とある。)

 

 慰めの分配者は物質的な満足の配給者とは別の他人だ。両方の役割が母親に期待されているが、母親は巧妙に登場をじらすことがあるだけに、前者の役割の方が評価される。じらしたぶんだけ愛のありがたさを感じさせるわけである。現実的な欲求不満に基づく象徴的贈与。(同一化への chute。)

 

 フロイトは現実の獲得の起源に、到達不可能な失われた対象を位置づける。たとえ現前していても、その記憶が対象を「別の場面」へと位置づけるからだ。亀裂はこの喪失の身代金である。対象とその喪失はその外延を同じくする。それらはあらゆる要求の共通分子にして共通分母である。分子はシニフィアンであり、その多数性によって主体を一なるものとして指し示す。分母すなわちシニフィエは、隠喩としての主体のシニフィアンであり、抑圧されたシニフィアンである。不用心にこの機能を対象に付与しないこと。前性器的な対象として性格づけられる換喩的な対象aが口の端に上るとしても。乳房であれば母乳をもたらすが、ウン… であればそのとばっちりを食うだけ。ひとは口に入れるものによって汚れるだけではなく口から出るものによっても汚れるもの。

 

 自己愛的なファルス的変種(アンドレ・グリーン)についてペローのシンデレラを想起せよ。口から飛び出した薔薇と蝦蟇が小箱のテーマへと導く。これらは要求の小箱である。表向きの要求はつねに欺きの元。要求とは偽りという根源的な機能においてあらわれた真理である。

 

 ことはこの無秩序を引き起こした謎の彼方、じぶんが愛を要求する他人のなかにつねに主体がそれと知らずに探してきたものにかかわっているのではないか。主体の欲望は何か。問いを発するこの欲望は無意識の真の真理であり、それは言うことができない。欲望が<他者>の欲望なのであれば、転移において主体は言説が住まいにやってくる場所である。三つの小箱のドラマがドラマであるのは、まっすぐな欲望だけが正しい小箱を選ぶことができるからだ。

 

 分析における主体の欲望は真の対象があたえられることを期待する。よい対象へのよい要求を見出すことこそ分析家の仕事である。

 

 わたしは枠組みを提示することしかできない。分析家の欲望とはどのようなものであるべきか。フロイトはこの問いに答えを出すことがなく、われわれをその問いから遠ざけた。分析家の欲望は分析における主体の善への欲望であろうか。

 

 性器的成熟は考慮に値しない。子供以外に欲望の対象はない。女性は子供を欲するが、それによって不感症を免れることはない……。スクリプトには「このあと意味不明の呟きがいくたりか」とある。

 

 男性にとっても女性にとってもファルス的欲望の機能はかくのごとし。さいわいにもファルスをそなえていないので女性はファルスを欲望することができる。なんとなれば男性にとって欲望が生へと向けられるためには去勢がひつようであるゆえ。要求の小箱における対象は死せるファルスである。強迫神経症者の愛は葬儀に似る。防腐処理を施されたファルスへのオマージュである。対象が死せる対象であることがわかっていれば、精神分析における成熟についてこれほど愚かしいことが語られることはないだろう。乳房は切りとられた乳房である。欲望は言語のしるしづけ(marque)へと向かう。

 

 セミネールの意義。われわれは精神分析によってしるしづけられている。そのことを知ることで、それは分析家の誤りそして先入観のしるしであることを免れる。したがう者には天国が約束される。運命のしるしづけのみならずしるしづけの運命が待つ。

 

 コンテのノートは最後のくだりをスルーしている。