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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

表面としての人間:講演「私の教えていることについて」

 

 原題は<<De ce que j'enseigne>>。1962年1月23日(セミネール「同一化」第9回の前日)、 l’Evolution Psychiatrique の集会にて行われた講演。ミシェル・ルッサン版「同一化」は、テープから起こしたスクリプト(一部の晦渋なくだりは省略されている)とクロード・コンテによるノートを左右に対照させたかたちで付録として収録している。

 

 セミネールに出席していない聴衆を想定し、精神分析の始まり(敷居 seuil)から説き起こされる。ドイツ語でLust(快) とその複数形 Lüste(欲望)とは別物である。古代哲学からフロイトにいたるまで、快は原則にしたがう。快は緊張の解消をいみする。したがって緊張とは不快である(ファロスの緊張が不快ではないとしても)。

 

 伝統的心理学における全体性という観念は疑わしい。「現実的な個人」でじゅうぶんである。快原則は部分的なシステムとして作用する。

 

 「心理学草稿」におけるΨシステムがそれであるが、深層心理学の比喩によれば、無意識は湖(lac)の底にある。(『同一化』第12講で登場する同語源のlacune を含意する lacs なる語はこのくだりを踏まえている。ラカンはじっさいにはラテン語で lacus と言っていたのであろう)。

 

 しかるにフロイトにとって、無意識は二つの面(face)をそなえたひとつの表面(surface)である。

 

 ふたつの面のうちひとつ(善いそれ)は外部に対し、より無防備である他方は内部を向いている。無意識において起こるいっさいはこの表面のうちでネット状に展開する。これをいいあらわすにさいしてフロイトはブロックノートという比喩を思いついた。それは二つの次元をそなえている。たとえば胚「葉」(feuillet)のように。この「葉」に位置づけられるかそれをはみだすかが精神分析の製図法においては問題になる。

 

 解明すべきはこうした表面の構造である。

 

 この構造はシニフィアンの両義性を生み出す。

 

 Niederschrift(記載、「下に書かれた」)という表現が明かしているとおりだ。この表現は『夢解釈』に先立つ。『夢解釈』を読めば、「夢は自我の生産物」などという精神分析のイロハもわきまえぬものいいはできない(スクリプトは「分析的現実」論文への暗示とし、コンテのノートには「ブーヴェのことか?」とある)。

 

 シニフィエは無意識が記載される言語の効果にすぎない。無意識を情動に帰すこともできない。それは無意識の「メカニズム」を「マシーン」(フィードバック)に帰すことだ。

 

 フロイトは無意識の表象をマシーンとして図解した。快原則がそのようなものであるから。

 

 フェヒナーにも心的なものを恒常系とみなす発想はあった。フェヒナーはフーリエにおける周期性の機能を参照した。

 

 フェアバーンは快志向的(pleasure-seeking)リビドーおよび対照志向的リビドーを区別した。対象関係論はフロイト理論とはなんのかんけいもない。

 

 快原則は現実原則と弁証法的なかんけいをもつ。

 

 存在のもっとも美しい象徴は牡蠣である。牡蠣にも木にも快原則はかんけいない(フェヒナーへの暗示?)。

 

 リビドーの機能について問われるべきは現実界の末端、すなわち享楽とのかんけいであり、人間にとって享楽が現実原則への依存ではなく快原則への依存ゆえにとらえがたいものであることだ。フロイトはそれ(コンテは「享楽」ととる)を存在のコアに位置づける。セクシュアリティには無意識的備給のいっさいが積み込まれる。

 

 享楽の何たるかはわれわれの表面によって理解できる。われわれはみずからの身体を享楽する。身体とは何か。われわれはわれわれのものではない身体、他の身体をも享楽する。つかのま他人の身体がじぶんの身体として感じられることがあり得る。聖書にも『饗宴』にもそうある。アリストファネスふたなりの人間の神話である。神話は享楽の根本的な満足不可能性について教えている。

 

 分析家は(とくに女性の)オルガスムの機能不全を治療できなくなっている。抵抗は治療者の側にある。これは現在の「野生の」時代文化における性習慣にかんけいしているらしい。

 

 分析家は欲求の解消(écrasement du besoin)を享楽と区別せねばならない。性的欲求の(かつてなく大きな)叫びを鎮める(étouffer)ことが問題ではない。ぞんざいな性的関係こそ問題だ。これを考慮することは欲望の機能を理解することになる。[安易に]「卵」を「献ずる」(oblater)習俗への揶揄。

 

 oblater というわけで objet が問題になる。対象の観念を「他人への関係」に帰すことは大雑把すぎる。「固有の身体のイマージュ」との関係である。他人とイマージュは鏡のなかで入れ子状になっている。鏡はナルシシズムすなわち自我の原初的核のメディウムである。想像界は人間の現実を構造化し、そこにシステムΨの二次元の空間を具体化する。似た者に遭遇すると、人間はその周囲をめぐり、その視像(vision)を正面像(face)と横顔とのあいだにかけわたされた(tendu。コンテのノートでは tordu)ものとみなす。人間は正面像に反応する……しかしそれは禁じられた対象である……かくして「仮面」がひつようになる……。正面像が何であるかを知るにはニューギニアの仮面を見るにしくはない。

 

 ついで横顔。人間はイマージュを輪郭づけ(cerner)、その瞬間の調和のとれた形態をとりだす……。筋肉に命令を出す者がアニミズム的な悪夢の雌馬を乗りこなす騎士となる(?)。

 

 ケンタウロスのようなハイブリッドな存在は、 ganz と alles を区別するとき、その同一性(mêmeté)を回復する。(コンテのメモによれば、ケンタウロスは古代の論理学において本質と存在との違いを説明するためにもちだされた形象。)ちぐはぐな存在は一瞬パニック状態をつぎはぎする。人間にとって理想我と自我理想の結合において何かが残る。

 

 表面の主体はみずからを自足した単一性(unité)として見ることのうちにはじめてみずからをみとめる(s’identifier)。この単一性は主体の ex-sistence の残部である。他人の身体が主体にとってみずからの身体以上にちかしいものであることを忘れる手立て(parti)である。主体はこの他人が他人になってしまうまえにみずからを愛するようにこの他人を愛することがあり得たのだ。主体にとってみずからよりちかしい存在であり得たのだ。

 

 ピンダロスの言うごとく人間は「影の見る夢」である。

 

 主体はこの他人を鏡のように利用してそこにじぶんという表面を投影し、そこに名をもたないもの、享楽の終焉というべきものが描き出されるのをみる。

 このものは、生の自己愛的固着の内部にはない。いかにたどりつけないものではあれ、享楽は死の危険として感知される。他人の身体を享楽できないのは、享楽することで他人の身体を餌食とするからであり、影にすぎないとはいえ、みずからの身体を餌食にすることであるからだ。

 

 現実界への接近は、身体が形態の移動(transition)にすぎないことを悟らせ、他の身体を再創造することにしかならないことを悟らせる。他の身体とは欲望の支えとして供される対象である。

 

 身体の生はみずからの無化という反復的な循環に供される。無意識とはある場所である。その場所から主体はじぶんの何たるかについての無知を見る(vit 生きる?)。主体とはみずからの先取りされた死である。人間にとっての唯一の選択肢は、みずからの反映を愛するか、もしくは愛する者を殺してみずからの死へ至るかだ。(次号につづく)