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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

誤りとしての主体:セミネール第9巻『同一化』(その8)

 

第XII講(07/03/1962)   

 

 冒頭、前夜逝去したルネ・ラフォルグへのオマージュがささげられる。

 

 哲学者にとっても分析家にとっても主体は誤るということが創設的な経験。分析家にとっては、主体が「言われうる」ということが関心の対象。

 

 “知の手段の修正”は、われわれを絶対的なものからとおざける。ここで問題になっているのは現実界である。現実界とは絶対的なものである。

 

 科学批判の哲学的パースペクティブにおける「外見」という語に注意せよ。現実界にかんして「外見」は退けられるべきものではない。『論理哲学論考』の立方体の図には、立方体の「現実」があらわれている。

 

 このイマージュを視覚的幻影の機能に帰すことは、立方体の「現実」から遠ざかることになる。

 

 女性への関係もしかり。女性への関係を科学的につきつめるとモーロワのブランブル大佐のごとく女性をアルブミノイドの塊に還元することになる。これは欲望の対象がもたらす「めまい」を説明しない。

 

 女性のリアリティはそこにはない。性的魅惑を科学的に解明しようとすることはその幻影(leurre)を問いに付すことになるが、この幻影こそが性的魅惑の現実そのものなのだ。とはいえ、欲望に関心を向ける分析家にとってさえ、間違い(erreur)という語は依然として意味をもつ。

 

 すなわち計算における間違いである。言い換えると、数えない主体にとっては間違いはありえない。

 

 ここでピアジェ『子供における数の発生』『クラス、関係、数』が参照される。クラス、関係、数のあいだの構造的関係は子供にアプリオリにそなわっている。

 

 子供は何かを集める以前から数を数えている。子供はその sensorium と運動機能によって数える(comput)関係に主体として関与させられている。

 

 

 フロイトはそれに気づいている。フロイトにとって sensorium はいかなる機能をもつのか。主体の計算においてすでに存しているものは現実的であり、たしかに存在しているということを示してくれるのだ。はじめて「存在判断」ということを述べたのはフロイトである。「存在判断」は計算の正しさを確認する。

 

 主体にとっての計算の基盤となるのは trait unaire である。 trait unaire とは差異である。この差異は1+1+1……を支える(supporter)だけでなく、推測する(supposer)。ここで「+」とは差異を示すものにほかならない。加法によって「2」や「3」が意味をもつという問題が生じる。ジョン・スチュアート・ミルのように「3」を出発点にすると、永久に「1」にたどりつけない。

 

 言語という事象をシニフィアンの効果として考えよう。これは換喩のレベルにある。数のあらゆる意味作用において換喩の効果を認めることは分析家にとっては容易である。この換喩の効果は同数のシニフィアンの継起によって生じる。

 

 いくつかの trait unaire の継起によってのみ意味をなすなにごとかが起こるかぎりで、たとえば3という数字が意味をもち得る。

 

 フロイトの推論において、trait unaire はこの原初的経験にとって根源的なことがらを示している。すなわち反復における周回の単一性である。

 

 無意識における反復の機能は、あらゆる自然的な循環とは絶対的に区別される。強調されているのがその回帰ではないといういみにおいて。つまり、主体によって探求されているものは、そのシニフィアン的単一性である。反復の周回のひとつが主体に印を穿つ(marquer)。主体は反復することしかできないものを反復する。それは永久にいっこの反復でしかない。反復は、周回によって原初的単一性(unaire)を現出させることを目指している。

 

 主体が数を数えることができるようになる以前から、それは作用している。主体はそれと知らずに反復している。反復という事実はこの原初的な一なるもの(unaire)に根を下ろしている。この一なるもの(unaire)はフロイト的ないみにおいて反復するものと考えられている主体の構造そのものにむすびついている。

 

 主体の機能に不可分の必然性において主体が計算間違いを犯すかをあるモデルによって示そう。主体は数えるできるひつようはないし、数えようとするひつようさえない。それにもかかわらずこのような計算間違いが主体の構成要素である。「間違い」というのはそのようないみにおいてである。

 

 この誤りは永続的であり、それなりの根拠をもつ。この誤りは個人にたいしてのみならず思考にたいしても影響を及ぼす。

 

 思考というテーマにたちどまろう。話を人間の思考にかぎる。われわれはクラスの機能およびそれと普遍的なものとの関係を問いに付し、その逆と反対物を導こうとしてきた。

 

 ここでパースのカドランを想起しよう。そこには普遍と特殊、肯定命題と否定命題の関係が示されていたのであった。

 

 単一性(unité)と全体性(totalité)は伝統的には結びついているとされる。この前提にたちもどろう。単一性と全体性は内包(inclusion)の関係によって互いに結びついていると同時に、全体性はさまざまな単一性に照らして全体性である一方、単一性は単一性をある全体の単一性とは別の方向へ向けることによって全体性を基礎づける。

 

 クラスの論理の誤解がここから生じる。外延(extension)と内包(comprehension)をめぐる誤解はアリストテレス以来解決されていない。

 

 とはいえ、クラスの構造そのものにおいて、新たな考え方が準備されている。根源的な関係としての排除の関係を内包の関係にとって換えることだ。論理学的に主体にとって根源的なことがある。すなわち、クラスの真の基礎はその外延でも内包でもないということ。クラスはつねに分類(classement)を前提していること。すなわち、たとえば哺乳類は mamme という唯一の特徴によって脊椎動物から排除されるものである。

 

 つまり、唯一の特徴が欠けることがあり得るということが出発点になる。まず mamme の不在があり、ついで mamme が欠けていることはあり得ないということが帰結する。それによって哺乳類というクラスが構成される。

 

 それがクラスの唯一の定義である。それにつぎのふたつのいみで真に普遍的なステータスを保証しようとするのであれば。

 

 一方で、その非存在の可能性。該当する要素のないクラスを定義することは可能。それにもかかわらずそれは普遍的に構成されたひとつのクラスである。

 

 この極端な可能性を、経験に由来するいっさいの帰納的な推論を超越するものとしての普遍的判断の規範化する価値と和解させることによって。

 

 それこそくだんのカドランにおける垂直線のクラスのいみだ。

 

 主体はまずこのような線の不在を構成する。そのものとしては、主体は右上の(垂直線も斜線もない)マスである。動物学者は、あらゆる母親の mamme を確認することで哺乳類のクラスを切り出すのではない。 mamme を切り離すことによって mamme の不在を同定し得るのだ。このばあいの主体そのものは(-1)である。

 

 排除されているかぎりでの唯一の特徴を出発点として、動物学者は、普遍的にmamme の不在があり得ないひとつのクラスがあるとする(-(-1))。左上[2]のマス。

 

 そこを出発点とするとすべてつじつまが合う。特に、特殊命題のケースにおいて。任意のケースにおいて、それがある[左下3]もしくはない[右下4]。

 

 矛盾する対立が斜めに構成される。そしてそれが trait unaire による普遍-個別、否定-肯定の弁証法の設立の水準にある唯一の真の矛盾だ。

 

 それゆえ、すべては下の部分の任意の要素(tout venant)において整合する。そのような要素があったりなかったりするが、それは trait の排除によってtout valant あるいは valant comme tout が上の部分の階に形成されるかぎりにおいて。

 それゆえ剥奪(privation)を導入するのは主体である。それはつぎのような言表行為によってなされる。「se pourrait-il qu’il n’y ait mamme?(ひょっとしてmamme があるなどということがありうるだろうか)」。

 

 この ne は否定ではない。いわゆる虚辞の ne にひとしいものだ。「ありえない。おそらく何も」。ここに現実界についての主体のいっさいの言表行為がはじまる。

 

  マス[1]では「無」の諸権利を保持することが問題になっている。というのは、無こそが、下のマス(3,4)に、「あり得る(peut–être おそらく)」を、つまり可能性を創出するから。超越論的なものについての抽象的な推論が誤って言うごとくに「あらゆる現実界は可能である」とは言えない。「あり得ない(pas possible)」を出発点としてはじめて現実界は場をもつのだ。

 

 主体が探し求めるものはまさにありえない(pas possible)ものとしての現実界である。この例外があってこの現実界は存在する。いっさいの言表行為の起源にはなにほどかの「ありえない」(du pas possible)しかない。それが理解されるのは、この言表行為が発する「無」という言表によってである。

 

 それはけっきょく「剥奪-欲求不満-去勢」の三項図式においてすでに明らかにされている。

 

 では Verwerfung はどこにあるのか。その前にあるのだ。とはいえそこを推論の出発点とすることはできない。主体はまず(-1)として形成される。それゆえ、主体は「排除」されたものとして再発見されるのだ。それを証明するために本日は離れ業に訴える。

 

 ローマ講演ですでに暗示しておいた。輪としての主体の構造のことだ。昨年、『饗宴』の球の神話にそくしてふたたび話題にした。

 

 球は鈍い対象だ。すぐれた形だが間が抜けている。球は宇宙論的だ。月は唯一の対象の例としてやくだつ。閑話休題

 

 生物学的な生体とは球への郷愁である。内界、外界というユクスキュルのメタファーが示すとおりだ。

 

 生物学者は innen と um の照合、接合(coaptation)によって生体を定義する。これは主体の定義とは一致しない。

 

 Welt にとって球のイメージが根本的であるとしても、ではなぜ細胞(blastula)はたえず原腸胚(gastrula)を形成し、次々に胃の穴を二重化させる(肛門)のか。そしてまたなぜ神経組織のある段階で、トランペットのように二極において外部へと開くのか。ここで自然科学から離れよう。私が間違っている(tort)と見えるとしても。これから話題にするのはトーラス(tore)である。(この項つづく)