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宇宙飛行士の純粋理性:セミネール第9巻『同一化』(その7)

 

 第XI講(28/02/1962)

 

 欲望は大哲学者たちではなく精神分析のことがらである。欲望は真理の機能と結びついている。

 

 「われわれの実践の素材である葛藤や隘路はその作用において主体の位置そのもの、経験の構造において主体として拘束されたものとしての主体の位置を介入させることによってのみ客観化され得る。これこそフロイトによって定義されているかぎりでの同一化の意味である」。

 

 カントが『実践理性批判』の言う意味での主体的情勢の計算ほど厳格なものはない。カントの普遍的格律とサドにおける享楽の自由の要請との相似性についての『精神分析の倫理』の指摘が回顧される。

 

 欲望の機能はカント的Wohlとも功利性とも、「パトロジックなもの」とも無縁。拒食症において問題になっているのも欲望であって欲求(besoin)ではない。

 

 欲望と妥協の機能。それは死の本能と生の本能との弁証法的関係にも関わる。死の本能は yang にたいする交代要素 yin のごときもの。死の本能に「生のシニフィアン」が対置される。

 

 フロイトにおける生の本能はエロス、リビード(ファルスの機能)に帰されている。身体の保存の機能と自己愛概念の関わり。精神分析の生物学への寄与(『精神分析概説』などを参照)?

 

 『自己愛の導入のために』以来の「苦痛」の自体愛的機能の強調。二つの苦痛を同時に感じることはできない。一方が他方を忘れさせる。リビード備給は自身の身体にたいするばあいでさえ欲望の対象の世界にたいする関係におけるとどうようの不公平さ(partialité)を示す。苦痛はフェティッシュであり得る(講演「わたしの教えについて」)一次過程と身体への関係を問うことは目下の問題意識にかかわっているとしてふたたびカントが召喚される。

 

 諸カテゴリーは純粋直観を要請する。時空間は感覚(Sinnlichkeit)という起源性(originalité)から排除され、綜合機能によって統合される。悟性のカテゴリーは「空虚な概念」にしか適応されない。哲学のあらゆる努力は Schwärmereien に反撃することにある。「理性の眠りは怪物を目覚めさせる」(ゴヤ)。この神学ふうヴィジョンがかずかずのファナティスムと結びつき、人類史上の血なまぐさい暴力に至ったのだが。理論的純粋化と道徳的薫化の境界は奈辺にあるのか。

 

 カントの超越論的感性論は、その批判における乗り越え不可能な功績にもかかわらずとって代わられねばならない。

 カント的感性論はまず、幾何学に支配された時代の数学に依拠しているがゆえに無効。時空間の秩序における直観的な自明性は、カントの時代にユークリッド幾何学が反駁しがたいものであったことに支えられている。こんにちではそれは容易に反駁可能である。

 

 「無の表」においては二辺しかない直線図形が「概念なき空虚な対象」の例とされているが、これはこんにちの初等幾何学で定義可能。

 

 綜合的判断以外は不毛であるとする断定も、数学の形式化への一連の試みを経たこんにちでは見直す余地がある。

 

 アプリオリな分析的判断(すなわち、いくつかの定義の初期状態から抽出された諸要素の純粋に組み合わせ的な使用)のいわゆる不毛性、この組み合わせ的な使用それじたいが固有の生産性をもっていることも、数学の基礎についてのもっとも最近の、もっとも押し進められた批判によって証明可能だ。

 

 最終的に、数学的創作の領域においては、どうしても証明不可能な残余がある。このことは、論理学的形式化への探求(ゲーデルの定理)が教えていることであり、その厳密さは今日に至るまで反駁されていない。とはいえ、形式的な証明という方途によってこそ、この明証性が得られるのだ。すなわち、論理学的な組み合わせにもとづくもっとも極端な形式主義的方法によって。

 

 カントにおけるカテゴリー的な作用と可感的な経験との交点の希薄さは、「事実上」と「権利上」の物体の実在という問題を提起する。

 

 無重力状態にある宇宙飛行士にとって純粋直観は重力下にあるのと同じであろうか。

 

 宇宙飛行士の経験は指令の「組み合わせ」(ボタンを押すこと)に還元されている。かれの純粋理性は複雑な「モンタージュ」によって装置化され、機械どうよう組み合わせの構成による自動運動を事とする。なぜこのような「組み合わせ的理性」の実践が可能か。

 

 重力下においては運動性が解放される。無重力状態ではこのような運動の主体は鎧(外皮)に幽閉されている。この鎧が「要素的連帯」と呼ぶことのできる生体の拘束(contention)を可能にしている。

 

 無重力状態における身体は軟体動物化しているが、植物的固着からは剥離している。

 

 推論する機械としての純粋な機能(“純粋理性”)とこのような身体的ポジションのコントラストは、先の問いにとって重要である。

 

 「誤った幾何学」に基づく直観はいまだに存在する。それは組み合わせ的な活動のいっしゅの反映として生産される。とはいえその反映は、反駁可能。なぜなら、数学者の省察の実験が示すように、この地上でわれわれは宇宙空間におけるとおなじくらい重力から分離させられているから。言い換えると、この自称純粋直観は、組み合わせ的機能そのものから分離させられているという幻影に発している。この幻影を追い払うことは可能である。それは数の影にすぎない。

 

 とはいえもちろん、それを確証するには、この直観とは別のところで数そのものを基礎づけてあることが必要。宇宙飛行士が空間についての(ひいてはカントにおいては空間にぶらさがっている時間についての)ユークリッド的直観を保持していないということは何を証明するのか。カント的な図式主義に依拠することなくボタンを正しく押すことは可能だということだ。地上ですでに反駁可能なものは、宇宙空間においては直観そのもののなかで反駁されている。

 

 より重要な問題。無重力状態において性欲動はどうなるのか。性欲動は退行(aller contre)しながら発現する習慣がある。もし宇宙飛行士がファルス的幻想を具現する装置の内部に完全に密着しているという事実がかれを疎外しないなら……?

 

 数の話に戻る。ラカンは数が純粋直観と可感的経験から分離された一要素となす。『算術の基礎』を読めばわかる。同書は『火星探検記』とおなじくらい魅惑的だ。数の機能は経験的に演繹できない。骰子の5は5を象徴する図形であり得るが、5という数はこの図形によってはいかなる仕方によってもあたえられない。動物にいろいろなフォルムを見せても、骰子の5と横に並べた5つの点、もしくは五角形に同じように反応する動物はいない。もしそうなら動物は計算できるということになる。

 

 このことは数の機能の非経験的な起源の証明にはならないが。この問題に関心をもつ数学者はほとんどいない。

 

 単一性(unité)とゼロは数の経験的生成にもっとも抵抗する。とくに、多様性から出発した抽象と差異から出発した数をあたえる際に。とくに数そのものをその同質性によって定義するばあいはとりわけ。

 

 このことはフロイトにおける「唯一の特徴」の機能とクロスする。差異の起源は単純化された棒であり、見かけ上同一なものの反復によって、記載されたシニフィアンとしての現実界への参入(象徴ではなく)が創り出される。エクリチュールの優位 primauté とはこのようないみである。実在するものとしての絶対的差異の現実界への参入のことである。

 

 フレーゲのテクストによれば、単一性の機能の最良の数学的分析(ジュヴォンとシュレデール)は唯一の特徴を強調している(フレーゲ自身はこの道へと踏み込んでいないが)。

 

単一性の機能の両極性を転倒させること。統合的な単位(Einheit)を放棄し、弁別的な単位(Einzigkeit)にとって代えること。唯一の特徴に結びついたものとしての主体のステータスはつぎの事実に結びついている。この主体はある構造のなかで構成されるが、この構造においては性欲動が特権的な機能を果たすという事実である。

 

 唯一の特徴への主体の結びつきにかんして結論めいたことを述べるなら、「小さな諸差異の自己愛」(フロイト)こそ唯一の特徴の機能である。これこそいっさいの比較から切り離された「絶対的差異」であり、自我理想にひとしい。自己愛のあらゆる問題がそこに収斂する。

 

 「剥奪、欲求不満、去勢」の図式をふたたびとりあげることによって、シニフィアンの様態と性欲動(即ち主体の構成における身体のエロス的な機能の優位)との関係を問うべし。

 

 もっとも単純な「剥奪」からアプローチしよう。世界には(-a)がある。あるべきところにないひとつの対象がある。「現実界」ということばがいみをもつのであるなら、このことは世界のもっとも不条理な考え方だ。現実界には何が欠如することがあり得るか?

 

 この問いのむずかしさゆえに、カントの純粋直観はその彼方に、宇宙論的な観念という名目の神学的残余を引きずっている。

 

 『純粋理性批判』によれば「世界に脱落(casus)はない」。偶然的なものはない。「世界に宿命(fatum)はない」。理性的必然を超えた運命はない。「世界に飛躍(saltus)はない」。「世界に断絶(hiatus)はない」。

 

 ところで無意識は「神託」である。弁別的なシニフィアンの数だけの「飛躍」があり、その都度メトニミーが生み出される。

 

 唯一の特徴によって印づけられている(あるいはいない)主体があるゆえに(-a)があり得、主体はフロイトの孫の糸巻きに(とりわけその欠如 ens privativum に)同一化することができる。

 

 言うまでもなく空虚(un vide)は存在する。主体はそこ、すなわち「概念なき空虚な対象」に発する。カントの表における四つの無の定義のなかで、それのみが厳密に存在する(se tenir)ものである。そこには無(un rien)がある。

 

 「去勢ー欲求不満ー剥奪」の図式において、剥奪の言表行為は想像的な全能性の主体、つまり不能の転倒したイマージュである。剥奪はこのイマージュに発する。概念なき空虚な対象、純粋な可能性の概念。この剥奪(ens privativum)をラカンはカントの表における ens rationis(対象なき空虚な概念)に対応させたいようだ。

 

 おそらくカントは「あらゆる現実的なものは可能である」という自明に思える言い回しの純粋に形式的な使い方を皮肉っている。カントはさらに一歩を踏み出し、「それゆえ、いくつかの現実的なものが可能的である」と指摘する。それは「いくつかの可能なものは現実的ではない」および「現実的ではない可能なものがある」ということをもいみしている。

 

 カントはこのような詭弁を告発する。ここで問題にされている可能なものは、主体について可能的なものだけではない。主体のみが、現実的でない可能なものの否定化された現実的なもの(ce réel négativé d’un possible qui n’est pas réel)であり得る。ens privativum(剥奪)を構成する(-1)はわれわれの無意識の経験のもっとも原初的な構造に結びついている。その構造[経験?]は、禁じられたもののそれではなく、「否と言われた」もののそれでもなく、「言われざるもの」のそれである。そこでは主体はもはや「言う」ために存在するのではない。主体はもはや1への同一化の支配者でもなく、もしくは主体を印づける1の突然の不在の支配者でもないのだから。そしてここに主体の力と根源がある。

 

 「間隙」「飛躍」「脱落」「運命」の可能性において、いかなる別の形式の(空間的でさえある)純粋直観が「表面の機能」に関わっているかを次回に示す。こうした表面の機能は主体のいかなる文節にとっても重要である……。

 

 というわけで次回におけるトポロジーの導入が予告される。