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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

コギトと固有名:セミネール第9巻『同一化』(その6)

 

 第6講においては固有名について考察される。ラッセルによれば、固有名とは個別的なもの(particular)を描写なしでそのもの自体として指示する。ミルは、固有名は意味をもたないことにおいて一般名詞と区別されるいっこの印であるとし、ガーディナーは意味ではなく弁別的な音声に固有名の本質をみるが、ラカンによれば弁別性は言語一般の特性である。ガーディナーは対象への「注意」の喚起に固有名の機能をみているが、そこにおける心理学的な主体性の再導入はラカンによって退けられる。文字による無意識の定義によって固有名の本質が明らかになる。命名するときの発声と文字との[恣意的な]関係が問題とされている。「エクリチュールは音声化されることを待っており、他の対象物とともに音声化され発声されることによってエクリチュールとしての機能を獲得する。……エクリチュールの進歩があるのは、ひとつの住民がみずからの言語、みずからの発音の分節化を、他の住民から借りてきたエクリチュールを使って象徴化しようと試みるときである。そのエクリチュールが元の言語にとってうまく適合しているものだと見えるのは外見上だけにすぎない。なぜならより適合しているエクリチュールなどというものはないから」(向井雅明氏によるレジュメより引用)。問題になっているのは心理学的な主体ではなく、構造的な意味での主体の機能である。

 第7講においてこのことが「言表行為には潜在的命名がふくまれている」と言い換えられる。「否定」はシニフィアンの連鎖に付け加えられたものではなく、シニフィアンの誕生の条件として否定性がある。固有名が他言語に翻訳不可能であるという事実はその名残である。印は対象の消去である。コギトが再導入される。「われおもう」のシニフィエたる「われあり」は意味作用ではない。

 第8講においてはパースのカドラン(全称肯定/全称否定/特殊肯定/特殊否定、 lexis / phasis)にそくしてアリストテレス~カントの否定概念が俎上に載せられる。「すべての父は神である」というフロイト的全称肯定が「父の名」と結びつけられる。

 第9講においては強迫神経症エクリチュールの関係が指摘されている。強迫神経症者が消去しようとしているのは自らの生の書き込みである。ロビンソンがふたたび召喚され、痕跡を消そうとする痕跡のうちに主体性が存することが確認される。ついでラッセルのパラドクスがとりあげられ、論理学においては文字が自分自身を表象しないこと、AがAでないことが忘れられているとされる。ついでに対象aの隠喩性(それじたいではないこと)、ファルス性が想起される

 このことは第10講において、「シニフィアン矛盾律に支配されない」と言い換えられる。『純粋理性批判』「超越論的分析への序」のカントが再度召喚され、カント的な統合(Einheit)と「一の印」の単一性(Einzigkeit)が区別される。前年度セミネール(ソクラテスアイロニー)へと立ち戻った後、『ナルシシズムの導入のために』、スピノザフロイトの「生物学主義」に言及され、ラカン強迫神経症者の「アフロディーテの恐ろしい疑惑」という言葉が紹介されたあと、キリスト教における欲望の発見(セミネール『転移』)が確認され、一切を主と奴の弁証法に帰したヘーゲル鏡像段階を知らなかったとコメントされる

 なお、セミネール『同一化』の第1講から第10講までは向井雅明氏によるレジュメがウェッブ上に公開されており、有益である。