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現実界の方へ:セミネール第9巻『同一化』(その5)

 

 第5講(13/12/1961)

 

 「単一性とは、存在するものの各々が、それによって一と呼ばれるものである。数とは、単一性からなる多である」(ユークリッド『原論』)。これこそ差異の支え(支持体)そのものとしての唯一の線の定義というべきである。

 これはフロイトにとっての第二の同一化、すなわち退行的同一化に相当する(第一の同一化は食べることによる一体化であり、第三のそれはヒステリー的同一化)。それは愛される対象の放棄に由来している。自我は愛している対象あるいは愛していない対象を模倣するが、それはその人物の唯一の特徴への部分的同一化である。

 三つの同一化はひとつの「類」「クラス」を構成しない。同一化は本質的に構造の次元で、すなわち象徴界のレベルで起こる。ことは存在論的なレベルにはかかわらない。想像界象徴界現実界の三項においてこれまでクロースアップされてこなかった現実界は、フロイト的経験の領野の顕現によって構成される。ここでいう経験とは分析技法という人為によって構成されるそれである。想像界が重視されるようになって無意識の諸関係の顕現の驚きは失われてしまった。イマージュは芸術(漫画)、元型、ゲシュタルトとして通俗化した。ゲシュタルト概念は、自然的形成物と、シニフィアンの組み合わせによる構造的組成とを混同している。

 1946年の論文「心的因果性について」における「すでに目の届かない」「カモシカの足跡」への言及においてシニフィアンの観念がすでに提示されていることが確認される。

 シニフィアン現実界に変化を導入するが、その変化とはアリストテレス的な(実体的な)それではなく組み合わせとそれによって定義されるトポロジーの次元にある。それはデカルトフロイト的「思考」、すなわち無意識の次元にある。無意識において主体の自律性が問題になるが、この主体はただ「事後的に」のみ発見され、誤認(méconnaisance)を経由する。主体が世界という夢(デカルト)に還元されないのはそのかぎりにおいてだ。

 主体の永続性。ただし現前ではなく。一本の線(一の印)そのものは純粋な「差異の支持体」として消失するから。ここに根源的な他者性のパラドクスがある。反復自動症は[同一物の]永遠回帰という同一性を逃れる。反復強迫を始動させる「トラウマ」において重要なのはトラウマの単一性という性質だけである。反復されるものは、記号として指し示されることによってそこに在るのではなく、[反復の]行為(action)がすがたをかえた不在のシニフィアンとして現前する。抑圧されるものがシニフィアンであるかぎりにおいて、現実的な行い(comportement)の循環はみずからの場所に現前する(se présente à sa place)。