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戦争は戦争である:セミネール第9巻『同一化』(その4)

 第4講(06/12/1961)

 

 「a=a」という“信仰”。「a=a」はシニフィエをなすようにみえるが、「a=a」は「何も」いみしない(ça ne signifie rien)。つまり、“無(rien)”をいみしている。

 

 fort : da が参照される。現れたり消えたりするピンポン球はシニフィアンではなく対象である。この a は a である。ピンポン球の二つの現れを繋ぐ「である」とはなになのか。そしてその中間の消失はなになのか?

 

 想像的なレベルでは、「である」はその原因となる消失に関係づけられる。くだんのケルト神話における主人の二度の出現(二度目は鼠として)の同一視は想像的な同一化の典型である。そこでは二つの「存在」が結びつけられている。

 

 たいして存在についてのわれわれの経験(Dasein)においては別である。Dasein においては他者(l’autre)のみならず「われわれよりも内密なもの」という主体の根源が問題になっている。飼い犬が想像的に主人を同一人物と認めるばあい、犬がみずからをアイデンティファイすることは含意されていない。

 

 象徴的な同一化はシニフィアンによってなされ、そこで問題にされているのは主体である。出現と消滅のレベルにあるものとは異質の次元にあるものとの主体の同一化である。シニフィアンのステータスそのものを問うこと。

 

 シニフィアンは記号ではない。主体はシニフィアンの効果として生じる(換喩的効果であるか隠喩的であるかはわからないが)。この効果以前に、シニフィアンへの主体の依存関係が分節可能なかたちで存在する。

 

 足痕(「否」の痕跡 trace d’un pas)というかたちで。足跡はロビンソンにかれが島に一人ではないことを示す。この pas は歩みであると同時に否定の pas である。連鎖のこの二つの極端のあいだに主体が生じる。

 

 かくして「a=a」は相対化される。これは信仰であるかぎりで「スティグマ」であり「エポケー」である。

 

 「a=a」という偽りの一貫性は神学的な時代における超越者としての同一なるものへの到達をいみする。「a=a」というシニフィエはいかなる真理にも基づかない。これはデカルトのいうかぎりでの表現的実在性に基づく。シニフィエの効果は影にすぎない。

 

 シニフィアンはいかなるばあいにもみずからと同一でない。「戦争は戦争だ」(この年 La guerre c’est la guerre という小説が刊行されている。)は同語反復ではない。これは“釘が穴にはまらなくなった”(ペギー)ことを前提している。戦争は釘を穴にはめなおすためにはじめられる。

 

 「私の祖父は私の祖父だ」が同語反復でない理由。さいしょの「私の祖父」は固有名ないし「この人は」と同じ。

 

 固有名は this と同じでないが、ラッセルによれば this などの代名詞と同じ意味するクラスに属する。

 

 あらゆる同語反復においては現実界象徴界への関係が問題になっている。

 

 可能な同語反復はない。「a=a」の二つの a は別のものであるということではなく、a が a でありえないのは a のステータス(シニフィアンであること)そのものによっている。シニフィアンは他のシニフィアンがそれでないところのものである。

 

 シニフィアンの支え(支持体)として文字が必要とされるが、漢字の本質は表意文字ということにはない。

 

 サン=ジェルマン博物館所蔵の肋骨に刻まれた一連の棒線(獲物の勘定)においても、幽閉されたサドがベッドの柱に刻み込んだ棒線(性行為の勘定)においても問題になっているのはシニフィアン的な差異であって質的差異(類似性に基づく差異)ではない。

 

 シニフィアンは主体をいまひとつのシニフィアンにたいして表象する。たいして記号はなにものかを誰かにたいして表象する。犬が求めるのは飼い主signe(消息)である。飼い主は犬にとって signe を与えるものであり、シニフィアンをあたえることはできない。パロールは前言語的な水準にもあり得るが、ランガージュはもっぱらシニフィアンの機能に関わる。