lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

言葉を話す犬:セミネール第9巻『同一化』(その3)

 

 第3講(29/11/1961)

 

 同一化において問題となる「一」は、パルメニデス的な一なるものでもプロティノス的な一者でもなく、いっこの全体性でもなく、教師が黒板に書くような一本の線である。

 

 同一化は「考えるもの」(res cogitans)なるなんらかの実体への同一化ではない。

 

 身投げしたスフィンクスを食べた怪猫シャパリュ(キャスパリーグ?)が「[ひとを]食べた者はもはやひとりではない」と言ったとかいうエピソード(『精神病』の最後の講義を参照)が引かれる。これが現実界における「同一化」の一例なのか、もしくはスフィンクスがそれゆえに死んだ「真理」なるものに関しての言及であるのかはよくわからないが、いずれにしても後続する一連の動物学的な考察への呼び水になる。

 

 ラカンは言語を重視するあまり身体を軽視しているという批判にたいし、ラカンはみずからの「前言語的なもの」についての持論を披瀝する(1954年のエリアーデとの討論を参照)。

 

 ラカンはサドへのオマージュによって飼い犬にジュスティーヌと名付けている。ラカンによれば、犬は話す。犬はパロールをもっているが、それはかならずしもランガージュではない。

 

 犬は人間と違い、話す必要があるときのみ話す。犬は話すが相手を<他者>とみなさない。

 

 純粋な「話す主体」を導入したのは精神分析である。相手を他人とみなすことで主体は相手を<他者>のレベルに置く。

 

 犬には転移の能力がない。転移は人間関係の情緒的な側面に帰されない。

 

 ラカンが言語の優位を説くとき、傲慢にも人間を全存在中の頂点と見なしているわけではない。

 

 犬のことばには閉塞(occulsion)がない(ルスロの音声学が参照される)。それゆえラングではない。犬のことばは「歌」である。閉塞は歌えないので歌手のおしゃべりは理解不能である。かくして犬は「歌う」……。

 

 ラカンが所蔵するブリティッシュコロンビアのKwakiutl 族の彫刻には鳥の背中に乗った人間らしき姿をしたものが蛙と話している(Michel Roussan 版に写真が出ている)。聖フランチェスコも動物に話してかけていた。何語で話していたのだろうか。

 

 赤ちゃん言葉(parler babyish)においては赤ん坊の言葉と大人の言葉の区別が前提されている。二つの言語の存在を前提しているかぎりでそれはピジン言語にひとしい。この問題についてはフェレンツィが先鞭をつけている(「ラングの混同)。

 

 人間のうちに動物を認めること(「この野牛はかれだ」)にかんしてレヴィ=ブリュールの「前論理的心性」「神秘的分有」の観念が召喚される。

 

 ここでケルト神話に登場する鼠が紹介される。主人の死に際して小作人は鼠が現れるのを見た。主人の幽霊がいう。「わたしはこの鼠の中にいる」。ついでにアポリネールの『ティレジアスの乳房』の台詞が引かれる。

 

 同一化は言語においてしか起こらず、言語のおかげによってしか起こらない。「A=A」を問いに付すことでしか同一化にアプローチできない。ソシュールへの参照が促される。「差異化の原理:単位の性質は単位そのものとまじりあう。ひとつの記号を区別するものがその記号を構成する。差異が記号の性質をなす」(『講義』2-4-4)。あるシフィニアンとは他のシニフィアンがそうでないところのものである。「一」そのものは<他者>である。

 

 というわけで、ほぼ余談の連続だけで講義が終わる。