lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ラカン対エリアーデ:「象徴およびその宗教的機能について」(1954年)

*「象徴およびその宗教的機能について」(Du symbole, et de sa fonction religieuse, in Le mythe individuel du névrosé, Seuil, 2007)

 

 1954年、宗教心理学会議におけるミルチャ・エリアーデとの討論。ラカンは十字架のヨハネ(saint Jean de la Croix)の『暗い夜』に言及しつつ、ヨハネ的な象徴が言語であり、その神秘主義が象徴的な次元にあることを一貫して主張している。

 言語は関係論的かつ普遍的である。関係論的であるかぎりにおいて「数は典型的な象徴である」。普遍的(universel)とは、ひとつの宇宙(univers)をなすということである。象徴は単独では存在しない。「夜」はすでに「昼」を前提する。

 パロール以前には「世界」はない。人間と現実界との共-生性(co-naturalité)。「自然」はパロールという行為(action)によってもたらされ、パロール以前には存在しない。

 言語は意味(文法)と形式(語の使用)とによって重層決定されており、重層決定されているものはすべからく言語である。

 十字架のヨハネが「水」と言い、「父」と「子」というとき、これらの語は象徴的に使用されている。「いぬ座は地上の犬と同じように犬である」が、物質的な同一性をいみしない。ここがフロイトユングを分かつ最大の分岐点でもある。

 十字架のヨハネの時代(16世紀)に自我が神学に導入された。フェヌロンが神を口にするとき、その対極に自我が想定されている。一方、神秘主義はいっさいの利己主義(amour-propre)の情念の消滅を前提する。そこでは実存の統一性(unicité)、つまり「存在」が問題になっている。存在は「パロールの支持体」としての「人間」に還元されない。存在はパロールの次元をはみ出す。十字架のヨハネの「至高存在」は象徴を逃れる象徴である。

 エリアーデはイマージュを象徴とみなしている。たとえば螺旋は生成の象徴である。それゆえラカンが象徴を言語に帰すことを危険視する。ラカンによれば、重要なのはむしろ言語と存在のズレである。イマージュの世界は象徴的に使用されるときにおいてのみ意味をもつ。エリアーデが象徴を前言語的な(pré-langage)レベルにあるとしていることは、すくなくとも象徴を言語の一段階と捉えている点において評価される。