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メルロ=ポンティ追悼:「モーリス・メルロ=ポンティ」

*「モーリス・メルロ=ポンティ」(Maurice Merleau-Ponty, in L’Autres écrits, Seuil, 2001)

 

 初出は『レ・タン・モデルヌ』(1961年、184/5号)。のちに『続・エクリ』に収録された。

 『エピステーメー』(朝日出版社ラカン特集に邦訳があるほか、向井雅明氏による試訳が東京精神分析サークルのサイト上で閲覧できる。

 

 盟友メルロ=ポンティについてはその死去の翌週のセミネール冒頭においてオマージュが捧げられている。これについてはすでに触れた。

 

 ガリレオからフロイトへといたるシニフィアン的な「理性」に照らして知覚理論の限界が指摘される。初期のポンティは思弁的な実存の観念を退け、実存を身体というフィルターにかけることで反省以前の「現象の根源における現前の純粋さ」に至れるとかんがえていた。ポンティはこのフィルターが一元的なものであるとの信念(「共感覚」)を抱いていたが、ラカンはそれに疑義を投げかける。また、ポンティは現象がつねにすでに構造(ゲシュタルト)化されて生起するとしつつも、この作用そのもののうちに主体のあらわれをみてとらず、これを主体と対立させた。

 

 セミネール第1巻において、ラカンサルトルの対自存在が想像的な類似存在との関係にすぎないと批判していた(その一方で、サディズムマゾヒズムが契約関係、つまり象徴的な契機に支えられているとの見解が評価されてもいた)。『知覚の現象学』の「性的存在としての身体」のパートにおいて、ポンティは眼差しを介したサルトル的な対他関係を「身体と身体との直接的開示」によって乗り越えようとしているが、サルトルどうよう「性的存在のシニフィアン」たるファルスを無視しており、それゆえフェティシズムも去勢複合も視野に入ってこない。ファルスはそれが作用しないところにしかあらわれないという点において「現象」のレベルでとらえることができないものだ。

 

 つづく「言語(パロール)における表現としての身体」のパートにおいては、言語に「思考」(あるいは意味)が内在していないとされるが、「主体」が言語に従属するという観点には至っていない。ポンティはサルトル的な自我の超越を批判しつつも、主体の消失という認識にはついに至らない。同セクションの「命名」と「身振り」についてもポンティとラカンは立場を異にする。ポンティはいわば主体の鏡としてのサルトル的な他者の眼差しを他者の身振り(身体)にとって代えているのだといえるだろうが、ラカンによれば命名も身振りもシニフィアンの機能そのものを一回的に作動させる契機であり、個々の事物のそれではない(身振りが「了解される」とのことばづかいもラカンの気に染まなかったことであろう)。

 

 『知覚の現象学』においてはある心理学的実験が事例として挙げられている。暗室に差すスポットライトの光の輪とぴったり重ねて置かれた白い円盤が、白い紙と並べることでじっさいには黒かったことがわかるというものだ。この実験においては知覚する主体と知覚される対象の二者関係に焦点があてられているが、ラカンによればポンティはそこで光という<他者>の存在を見逃している。白と黒を対照させるのはシニフィアンの作用であり、それゆえ知覚の主体はそこでは消失している。

 

 さいわいなことに、『眼と精神』(および『見えるものと見えないもの』)の絵画論において、ポンティは知覚という枠組みを踏み出て「見えないもの」への探求に乗り出した。絵画における幻影がシニフィアンの機能に帰されることを精神分析家らに先んじて指摘し、そこに欲望の関与をみてとっている。そしてここにおいてポンティはくだんの「光」を再発見する(しかも神学的なコノテーションなしに)。「目は見ないためにできている」。『未来のイヴ』の欲望は、盲目であることによってではなしに、すべてを見ずにはいないことによって消滅する。かくして、いわばプシシェ~パンセ・ドゥ・クーフォンテーヌ~イヴというひとつの系譜が打ち立てられる。

 

 ポンティの影響はこのあとさらに『精神分析の対象』および『精神分析の四基本概念』において確認されるだろう。