lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

科学モドキの洪水:「主体の隠喩」

 

*「主体の隠喩」(La métaphore du sujet, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 法哲学者カイム・ペレルマンの発表への回答として1960年6月23日にフランス哲学協会にて報告されたものに加筆。『エクリ』第二版の刊行時に「補遺」の一篇として収録された。

 隠喩と無意識との関係を見て取っていたとしてラカンはぺレルマンを高く評価していた。ペレルマンは隠喩をイマージュに還元しない。ラカンペレルマンが隠喩を(三つではなく)四つの項の関係としてとらえていることを評価する。父性隠喩もまた四つの項を関係づけている。ペレルマンは「譬えるもの(phore)」(シニフィアン)と「譬えられるもの(thème)」(シニフィエ)からなる二組のペアの「類比」として隠喩を捉えているようであるが、ラカンは隠喩を構成する四項を一つのシニフィエと三つのシニフィアンに振り分けるべきだとする。ラカンペレルマンバークレーから引いている「科学もどきの海」(a ocean of false learning)というフレーズを「海」「科学」「もどき」「x」の四項に分解したうえで、父性隠喩の式に当てはめ、絵解きしてみせる。波の寄せ返しと大聖堂の鐘の音(lear-ning, lear-ning…)の音素的交代という共通点が強引に読み込まれ、隠喩において問題になるのがイマージュではなくシニフィアンであることの傍証とされる。この隠喩において生産される新たな意味作用(x)は「もどき」としての想像界というそれであるらしい。

 このあと幼い「鼠男」の名高い呪詛(「おまえなんかランプだ、ハンカチだ……」)が召喚され、隠喩が呪詛に発していることがほのめかされたかとおもうと、同時期のセミネール『欲望とその解釈』で論じられた「犬はニャーと鳴き、猫はワンと鳴く」に立ちもどり、いっさいの言語活動を支えるノンサンスが確認され、ふたたびペレルマンがこんどはアリストテレスから借りたとおぼしき「人生の暮れ方」(=老年)という隠喩に寄り道したあと、さいごはお得意の「眠れるブーズ」(束=ファルス)で終わる。

 幕切れの一句は『四基本概念』におけるアリストテレスの参照を予告している。

 「唯一の絶対的な言表はその筋の人によって(par qui de droit)発された。すなわち、シニフィアンにおけるいかなる賽の一振りも偶然を廃棄することはない。その理由は、いかなる偶然も言語の(による)決定においてしか存在せず、それは自動運動(automatisme)とか偶然の出会い(rencontre)とも呼ばれている」。