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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

壁に向かって語る:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(了)

 

 823頁4段落目~

 

 ファルスのイマージュ(ーφ)は象徴的ファルス(Φ)へと「肯定化され」(positiver)、ある欠如を満たす。(-1)の支えでありつつ、(ーφ)は否定化不可能な象徴的ファルス、享楽のシニフィアンとなる。女性も倒錯もここから説明可能。

 

 倒錯においては抹消された<他者>(A barré)に対象aが置き換えられる。幻想において主体は<他者>の享楽の道具である(S barré ◇ a)。

 

 神経症においてもこの公式は歪められてたかたちで適用される。

 

 神経症者は<他者>の欠如(Φ)を<他者>の要求(D)と同一視する。

 

 それゆえ<他者>の要求が神経症者の幻想において対象の機能を帯びる(S barré ◇ D)。

 

 しかし神経症者による要求の優位(それは治療を欲求不満の操作に逸脱させた)は、恐怖症においては<他者>の欲望への不安を隠しており、その不安は恐怖症的対象によってしかカバーできない。恐怖症は<他者>の欲望を幻想に織り上げる。強迫症者は主体の消失によって不可能な幻想を織り上げ、<他者>の欲望を否定する。ヒステリーは欲望を満たされないものとして維持することで、<他者>の欲望の対象になることを逃れる。

 

 この特徴は、強迫症者においては<他者>の保証人となる必要性によって確証され、ヒステリーにおいてはそのシナリオの<誠意のなさ>(Sans-Foi)という側面によって確証される。

 

 理想的な<父>は神経症者の幻想である。<父>の機能は欲望と法を対立させるのではなく結びつける。

 

 神経症者の望む父は死んだ父であり、同時にかれの欲望の主人であるような父である。

 

 分析家はこの罠にはまってはならない。

 

 ヒステリー者にたいしては解釈よりも分析家の「中立性」をコントロールすることが重要である。分析家の欲望の関与を悟らせるためである。

 

 幻想において倒錯者はみずからの享楽を保証するためにじぶんが<他者>であると想像する。神経症者は<他者>を保証するためにじぶんを倒錯者であると想像する。

 

 神経症におけるいわゆる倒錯のいみがこれによってわかる。倒錯は神経症者の無意識において<他者>の幻想としてある。とはいえこれは、倒錯者においては無意識が剥き出しになっているということではない。倒錯者もまた欲望においてじぶんなりにみずからを防衛している。というのも欲望はひとつの防衛であるから。すなわち享楽におけるある限界を超えることの禁止(défense)である。

 

 幻想(S barré ◇ a)は去勢の想像的機能(ーφ)を内包する。それは隠されたかたちで、ひとつの項から別の項へと反転可能なかたちで内包されている。複素数のように、幻想は一方の項を他方に関して交互に想像化する。

 

 対象aに含まれているのはアガルマである。アルキビアデスはそのなかに宝があるとおもっているが、その宝にはマイナスの記号が付されている。それが主体の分割をもたらす。

 

 ヴェールの背後の女性しかり。女性をファルス(欲望の対象)にするのは男根の不在である。

 

 アルキビアデスは欲望の対象を去勢されたものとして示しつつ、アガトンにたいして、じぶんが欲望する者であるとみせかける(parader)。「分析の先駆」たるソクラテスはアガトンを転移の対象として名指す。分析的状況における愛憎の効果は[双数的関係の]外部に見出される。

 

 アルキビアデスはすぐれて欲望する者であるかぎりで神経症者ではない。かれは享楽を可能なかぎり追い求める。

 

 しかしソクラテスを完璧な<主人>という理想のうちに投影した。想像化された(ーφ)によって。

 

 神経症者において、(ーφ)は幻想の抹消されたSの下に滑り込み、神経症者にとくゆうの自我という想像を作り上げる。神経症者は最初に想像的去勢を被っており、それがこの強大な自我を支えている。この自我はあまりに強大なので、かれの固有名は消え去り、神経症者はひとりの<名前のない人>(Sans-Nom)である。

 

 自我の下に神経症者はみずからの否定する去勢を覆い隠している。

 

 とはいえ神経症者はその去勢にこだわる。

 

 神経症者が望まず、分析の終了までかたくなにこばむのは、みずからの去勢を<他者>の享楽の犠牲に捧げることだ。

 

 かれはまちがっていない。なぜなら、じぶんの存在がむなしい(存在<欠如>もしくは<よけいもの>)とかんじていながら、なぜ神経症者はじぶんのちがい(différence)を、存在してもいないひとりの<他者>の享楽に捧げようとするだろうか。かりに存在するとしたら、<他者>はそれを享楽するであろうが。神経症者が望まないのはそのことだ。神経症者は<他者>がかれの去勢を要求しているとおもっているのだ。

 

 分析的経験が証すのは、去勢は欲望を規制する(抑える)ものであることだ。

 

 S barré から a へと幻想のなかで揺れ動くことを条件に、去勢は幻想をしなやかであると同時に伸縮しない鎖にする。それによって対象備給の中止は<他者>の享楽を保証するという超越論的な機能をもつ。この機能が<法>においてこの鎖を投げてよこす。

 

 この<他者>にほんとうに対峙しようとする者にたいして、要求ではなく意志を試す道(voie)が開かれる。もしくは対象として自己実現する道、仏教通過儀礼によってミイラになる道、もしくは<他者>に刻み込まれた去勢の意志を満足させる道が。それは失われた<大義>の至高の自己愛に到達する(ギリシャ悲劇、クローデルはそれを絶望のキリスト教において再発見する)。

 

 去勢とは、享楽が拒まれなければならないことをいみする。享楽が欲望の<法>に反転することによって達せられるべく……。

 

 『エクリ』刊行時に付された跋によれば、聴衆から「人間味に欠ける」(ahumain。inhumain のユーフォリズム)との評が出たという。

 

 聞き手を度外視するような口調は黙々と筆記するだけしか能のない聴衆への信頼ゆえかと仲間の一人に問われたラカンは、「あらゆる言説が無意識の効果をもつことを知っている者にとっては信頼は必要ない」とうそぶいたとか。