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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

欲望のグラフの終焉:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その3)

 

 809頁4段落目以下の数頁は向井氏の注釈においては省略されている。その部分のアウトライン(超約)。

 

 不透明なシニフィアンによって表象される主体を意識の透明性に還元してしまうようなコギト解釈は誤り。「自己」なるものの混乱を隠蔽するものとしての「自己意識」の誤りをヘーゲルは示している。

 

 主と奴の想像的な関係。

 

 奴の隷属はヘーゲルが知らなかった人間の早産性の神話的表現か?

 

 死を賭け金とした主と奴の闘争はパスカルの賭けよりも「誠実」である。奴が奴であるためには敗北者は死んではならない。それゆえ勝利者(殺害者)は絶対的主人とはいえない。想像的な暴力(攻撃性)は象徴的な契約に支えられているのだ。

 

 生がもたらす死ではなく、生をもたらす死である死。脚注ではサドの「第二の死」に言及される。

 

 理性の狡知という考えによれば、奴は死を恐れて労働に従事することで享楽を放棄する。これは最大の政治的・心理的ごまかしである。奴にとっては隷属的な労働に従事したまま享楽を得ることは容易であるから。

 

 理性の狡知が強迫神経症者の個人的神話になぞらえられる。その構造は[左翼]知識人に顕著。

 

 欲望は構造的であり、偶然(外傷)に依存しない。

 

 エディプス複合は父の神話に依拠している。

 

 それは現実的な父ではなく死んだ父、父の名である。 

 

 813頁4段落目から向井氏の注釈が再開され、それは819頁6段落目途中で終わっている。そこからおしまいまでのアウトラインが以下。

 

 コギトにおいて「存在」は永久に「思考」の手をすり抜ける。

 

 <私>は「宇宙は純粋な<非在>(Non-Etre)におけるひとつの欠如(défaut)である」との声が響いてくる場所に「いる」。この場所に身を置くことは<存在>そのものを衰弱させる。この場所は<享楽>と呼ばれる。享楽の「欠如」が宇宙を虚(vain)となす。

 

 享楽の不在(manque)によって<他者>は一貫性のないものである。享楽は私の享楽なのだろうか?日常的には享楽は私に禁じられている。それは<他者>なるものの欠損=過失(faute)ゆえである。<他者>は存在しないので、<私>がその「過失」を負う。原罪の信仰がここに生まれる。

 

 去勢複合はこれと別ものではない。去勢複合は主体の構造の「余白」ゆえに弁証法を作動させる。

 

 その余白をうめる要素が数学的アルゴリズムの「流用」によって√-1と表記される。それはゼロ記号の効果(マナ)ではなくゼロ記号の欠如のシニフィアンである。

 

 享楽は語る者にたいしては禁じられている。享楽は<法>の主体である誰にたいしても行間にしか告げられない。<法>はこの禁止そのものに基づいているから。

 

 法は「享楽せよ(Jouis)」と命ずる。それに主体は「しかと聞いた(J’ouïs)」とこたえるほかない。享楽は言外に聞かれる(sous-entendu)ことしかできない。

 

 しかし主体を享楽に至らせないのは<法>そのものではない。享楽に限界を設けるのは快原則である。

 

 無限の享楽を禁じる犠牲となるのがファルス。

 

 ファルスが犠牲に選ばれるのがなぜかといえば、男根のイマージュとしてのファルスはその鏡像においてそれがあるところにおいて否定化(négativer)されるから。それゆえファルスは欲望の弁証法において享楽を具体化する(donner corps)。

 

 ファルスの象徴的な原則と想像的な機能とを区別すべし。

 

 想像的機能は自己愛的な対象への備給を促す。鏡像はリビドーを身体から対象へと向け変える運河である。しかしファルスだけがその「突起」ゆえにこの運河を通れない。対象の世界から排除されたファルスは諸対象の鏡像あるいはプロトタイプとなる。

 

 それゆえファルスという勃起性の器官が享楽の場を象徴[化]する。そのものとしてではなく、イマージュとしてでもなく、望まれたイマージュに欠けている部分として(√-1)。

 

 かくしてファルスは享楽の禁止を打ち立てる(nouer)。享楽を自体愛の短さに縮減してしまうことによって。現実的な男根に享楽は欠けている……。 

 

 続きは次号。