lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

絶対知という狂気:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その2)

 

 つづけて(799頁最終段落)言語学のおさらいがひとしきりあり、言表行為の主体と言表の主体との差異が存在と存在者とを隔てるハイデガー的「襞」になぞらえられ(rabattre en son gît la présence…)、シニフィアンによる主体の消失(fading)が「現存在狩り」ないし l’inter-dit と形容される。

 

 分析のセッションは虚偽の言説の中断として遂行される。言説はパロールが汲み尽くされるところに実現される。「沈黙のうちに」手から手へと渡ることで表面が摩滅するマラルメの硬貨さながらに。

 

 「シニフィアン連鎖のこの切断だけが、主体の構造を現実界における不連続点として確認する」。言語学においてはシニフィアンシニフィエの決定因であるが、分析においては、意味の諸々の穴を言説の決定因とする両者の関係から真理が生まれる。

 

 Wo Es war, soll Ich werden. が引き合いに出される。これを là où ce fut と単純過去で訳すべきではない。この時点でエスはなくなってはいないのだから。消え去りつつあるものと到来しつつあるものがぶつかる(achopper)一瞬に「私」の存在が「痕跡」として生じる。

 

 そこにおける半過去が「じぶんが死んでいることを知らなかった父の夢」の半過去(il ne savait pas)に送り返される。父がいつなんどき[息子によって向けられた殺意を]知ってしまったら、「私」(息子)は[この世から]消えさらねばならぬのだ。

 

 「私」(主体)は非-存在者の存在として到来する。この夢において実質的な存在は「知」によって廃棄され、言説を支えているのは「死」なのだ。

 

 知る途上にあるこの父親が、絶対知への途上にあるヘーゲル的主体に送付される。ヘーゲルは絶対知を終末論的な狂気の沙汰として描き出す。分析は絶対知の真理をその虚しさにみることで狂気を乗り越える。

 

 主体と真理の関係において、ヘーゲル主義とフロイト主義のあいだには断絶がある。

 

 両者において欲望の弁証法は別の様式をとる。

 

 ヘーゲルにあって主体は欲望によって過去の知識と繋がっているので、真理は知の実現にたいして内在的である。主体はじぶんの欲しているものを知っている(理性の狡知)。

 

 真理と知のこのつなぎ目をフロイトはずらす(楕円運動 révolution にゆだねる)。

 

 フロイトにおいて欲望は<他者>の欲望に繋がっており、ここに知への欲望が萌す。

 

 それは死の本能と関係がある。

 

 死の本能における無機物への回帰とは、「生を越えた余白」としての主体の存在あるいは身体を示す比喩である。フロイトの生物学主義とは(対象関係論が前提しているような)現実的な身体を指していない。

 

 本能はいっしゅの知識(connaissance)であるが、それは知(savoir)ではない。フロイトにおいてはひとつの知であるが、そこにはいかなる知識も含まれない。主体は伝令の奴隷さながら何が書かれているのかを知らないメッセージを運ぶ。そこには開封すれば死罪となるような封印が押されている。

 

 ことほどさように無意識にはいかなる生理学も関わっていない。ファルスしかり。対象関係論批判。

 

 欲望は要求とも欲求ともちがう。「欲望は[要求によって]分節されている。それゆえに欲望は[それじたいとしては]分節不可能である」。それゆえに欲望は心理学的ではなく倫理的である。

 シニフィアンにおいて分節された主体を位置づけるべく欲望のグラフが召喚される。

 

 ここではじめて(そしてこれをさいごに)グラフの完成図が提示されることになるわけであるが、このパートについては向井雅明氏の『ラカンラカン』(文庫版『ラカン入門』)に緻密にして明快な読解がある。