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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

女の謎:「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」

*「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」(Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 1960年9月にアムステルダム市立大学のシンポジウムで発表されたが、執筆されたのはその二年前であるという。セミネール第5巻に関連させて読まれるべきテクスト。われわれのバックナンバー「享楽の最初の一グラム」「女性性の本質化に抗して」を参照していただきたい。そこで問題になっているのは享楽という問題であり、それはまさに1960年代初頭のこの時期にラカン理論の中心的な道具立となりつつあった。

 

 同時代の対象関係論的潮流における理論的逸脱が指弾される。精神分析は父の抑制による去勢複合から、母の愛情の欠乏による欲求不満へと焦点を移動させてきた。女性における男根期の問題は現在ではなおざりにされている。クラインはエディプス的空想を母の身体におしこめ、父の名の射程を度外視した。

 フロイト的な共時性(同時的構造化)がジョーンズ=クライン的な発達の図式に対置される。「ファルスが象徴する剥奪(privation)の関係、あるいは存在欠如(manque à être)の関係は、要求(demande)に固有な欲求不満(frustration)が生み出す所有欠如(manque à avoir)へと逸脱することで形成される。そしてこの代理物(男根との比較によってやがて手放されるクリトリス)を出発点として、欲望の領野が新たな諸対象(その筆頭としては生まれてくる子供)をつぎつぎと繰り出し(précipiter)、いっさいの欲求(besoins)が関与する性的隠喩にとって代わる(récupération)」。

 「去勢は法の場としての<他者>の主体性を前提とするがゆえに発達から導出することはできない。性の他性はこの疎外によって変質をこうむる( se dénaturer 脱自然化する)。男性は女性が、男性にとって<他者>であるとどうよう、女性自身にとって<他者>となるための仲介(relais)となる。そのことにおいて転移に関与した<他者>の覆いの取り去り(dévoilement)は象徴的に命じられた防衛を変容させ得る。防衛はここでは、<他者>の現前が性的役割において解放する仮装(mascarade)という次元で理解される」。

 これは不感症の分析治療の効果に関連してのコメント。セミネール『無意識の形成物』において紹介されたリヴィエール論文「仮装としてのフェミニティ」においては、空想において父を去勢したことへの男性による復讐にたいする防衛としてフェミニティをひけらかす女性の事例がとりあげられていた。

 このような「覆い(voile)」の効果は、ファルス中心主義において女性が絶対的<他者>を体現する(représenter)対象となるというツケを支払うことの証左である。

 去勢において犠牲に供される(consacrer 聖別化される)男性性は、それが覆い隠すものゆえに女性の尊敬を勝ち得る。キリストの形象は<神秘>というもっとも奥深く隠されたシニフィアンの覆いゆえに女性を蠱惑する。

 それはようするにドラや「女性同性愛者」が[男性として]探求した女性性という神秘に収斂されるのであろう。

 「女性におけるイマージュと象徴は女性についてのイマージュと象徴と不可分である」。「分析可能なすべては性的であるということは、性的なものすべてが分析可能であることをいみしない」。いずれも女性性なるものを狙った一節であろうか。

 女性が去勢されていることは、夫への従属による“去勢”によって隠され、<他者>への忠実性は女性固有の忠実性によってみたされ、やはり隠されている。

 クライマックスとなるのは女性の倒錯へのコメントである。女性の倒錯は女性のフェミニティのみならず欲望そのものへのアプローチを可能にする。男性の倒錯は母親のファルスを保持するという想像的動機がある。それを端的に示すフェティシズムが女性にみられないことは、女性の倒錯においては別のことが問題になっていることを暗示する。

 ジョーンズは女性同性愛の考察において、女性の欲望を父というインセスト的な対象と女性自身のファルス(sexe)という選択に分裂させているが、問題は対象の分裂ではなく、むしろ対象の交代(relève)である。あるいは高尚な(relevé)「挑戦」(フロイトの「女性同性愛者」症例において用いられている語)というべきか。フロイトの「女性同性愛者」は、もっていないもの(ファルス)を捧げようとすることで「騎士道的恋愛」を体現する。彼女はファルス(sexe)を代償にインセスト的対象を選ぶのではない。彼女が受け入れないのは、この対象が去勢を代償にしてしかみずからのファルス(sexe)を保証してくれないことである。かのじょがみずからのファルス(sexe)を放棄するということではない。女性同性愛者の究極的な関心は女性性である。ジョーンズは男性の空想と、パートナーの享楽(他者の享楽)への気遣いの結びつきを見抜いている。 

 女性のセクシュアリティは受動性において捉えられるべきではなく、みずからの間接部(contiguïté。割礼はこれとの象徴的な別離である)が包み隠す(envelopper)享楽への努力として現れる。女性は、男性において去勢のシニフィアンがファルスとしてあたえられることで解放される欲望と「対抗的に」みずからを実現する(réaliser à l’envie du désir… 「ペニス羨望」のもじり)。フロイトが男性的なリビドーしか存在しないとしているのはこうしたいみにおいてである。