純粋欲望批判:セミネール第7巻『精神分析の倫理』
*Le Séminaire Livre VII : L'Ethique de la psychanalyse (1959-1960), Seuil, 1986.
フロイトはアリストテレスどうよう、人間的行為の原動力を快にみいだすが、快原則と現実原則のパラドクシカルな「倫理的葛藤」は、「君主(maître)の道徳」としてのアリストテレス的倫理学が前提していた<至高善>のシステムを破綻させる。
精神分析的経験は「悲劇的次元」をもつ。精神分析と悲劇とを結びつけるのは「カタルシス」である。カタルシスとは欲望の平穏化ではなくその「純粋化」を意味する。「純粋な欲望」、死の欲望の具現であるアンティゴネのうちに「欲望については譲らない」という精神分析の倫理が見てとられる。パトローギシュ(カント)という相対的な要素はけつぜんと退けられ、カタリ派の「純粋さ」が讃えられる。
いうまでもなく欲望とはその定義からしていわば妥協の産物であり、すぐれて〝不純〟なものとしてある。したがって「純粋な欲望」とはひとつのパラドクスでしかあり得ない。そしてこのパラドクスこそ欲望なるものの本質である。
主体の形成と引き換えに内部へと排斥された「もの」(こうした「主体のトポロジー」が「疎内」extimité と名づけられる)。それとの一体化は死をいみする。神経症はそれを症状に置き換えることで回避し、昇華は対象を接近不可能な領域へと敬して遠ざけ、対象を「もの」(das DIng)の尊厳(dignité)に昇格させる。
たとえば騎士道的恋愛はありったけの言葉で貴婦人を讃え、かくして編み上げられたシニフィアンの鎖を対象へのいわば防壁とする。前年のセミネールで確認されていた如く、昇華は社会的価値を実現するものではない。
芸術とは「もの」という無の周囲をなぞることである。建築しかり、絵画しかり。壺の本質とはそれが孕む空であり、それゆえに壺はシニフィアン中のシニフィアンである。壺は無を生み出す。無を素材(「質料」)とする創造、すなわち「無からの創造」。この無の創出によって、空虚と充実という対立的観念が一挙にもたらされる。
シニフィアンの形成とは連続的な現実界に裂け目を導入することだ。サドは人間の「罪」が自然の連続性を破壊し、自然を生まれ変わらせるとする。死の欲動とはたんなる無生物への回帰を意味しない。それは機械的な傾向性ではなく、破壊への完膚なき「意志」である。そこに主体性が宿る。逆説的なことながら、ひとり創造説のみが神の観念を根底から否定する。たいして進化論は宗教的理想に支えられている。
父の名への同一化もまた昇華である。それは父性という不確実なものの機能を受け入れることであり、そこには精神性における進歩がある(『モーセと一神教』)。
『心理学草稿』は「もの」を「隣人」とも呼んでいる。それゆえ『文化におけるいごこちのわるさ』のフロイトは「汝の隣人を汝の如くに愛せよ」に残酷な死への至上命令を見てとるのだ。
倒錯者サドはその幻想においてこの至上命令を文字どおりに実行する。サドの幻想において「主体は自己から分身を切り離し、この分身を無化の手から救い、苦痛の作用に耐えさせる」。苦痛とは生死の境界で「石化」されるいっしゅの限界状況である(バロック建築からにじみだす「苦痛」)。
サディズムは苦痛を美となし、マゾヒズムは善となす。カントは昇華も倒錯も知らず、定言命令という生身の人間には実現不可能なことを「記載」する場として魂の不滅性という「幻想」に訴える。じっさいには定言命令とはサド的な享楽の至上命令と同一物である。
享楽が可能なのはもっぱら他者の享楽としてだけである。Lebensneid というドイツ語は人間存在のそうした「裂け目」を絶妙に言い表す。「わたしを満足させるあなたの身体の一部を貸してください。そしてあなたの気に入るわたしの一部を享受してください……」。サドは部分欲動を発見した。
サドの犠牲者はその永遠の責め苦において第二の死を具現する。
第二の死とはいわば偶然の死ではなく真に死ぬことである。それはオイディプスの最期の言葉に読みとれるような「人間的残存(subsistance)、世界の秩序からみずからを抹消した残存という呪われた運命の受諾」である。
キリストの磔刑図はサディズムの先駆にしてその神格化(=絶頂 apothéose)である。昇華はその代償として享楽という一片の肉を支払い、宗教はその肉を回収する。
先行するセミネール群においてあれほどしつこく参照された欲望のグラフへの言及はほぼまったくなし。たぶんにハイデガーを意識してのことであろう、時事ネタを織り混ぜつつ(「もの」としての核兵器etc.)黙示録的な荘重さを演出し、諸文脈を自在に出会わせるラカン的レトリックが冴えわたる。ヴァカンスのお供にオススメしたい好読み物。