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スピノザは正しかった:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(了)

 

 第XXVII講(01/07/1959)

 

 現時点での精神分析パラダイムが対象関係論であることが確認され、対象にたいする道徳主義的な正常化(「よい」対象)という観点に釘が刺される。対象への原初的同一化の観念は「唯一の」現実を前提しているが、実は「一つの」現実でしかない。分析家自身の道徳的基準への誘導という暗示の危険がある。欲望の位置という問題が忘れられている。欲望は主体性という観念において位置づけられる。欲望は主体性であると同時に、主体性への抵抗、パラドクス、そこから棄却されたものでもある。かくしてあらゆる倫理的経験は「欲望は人間の本質そのものである」とするスピノザの謎めいた言い回しを出発点とする。それが謎めいているのは、われわれが欲望するものが好ましい(désirable)ものと一致するかどうかという問いを開いたままにしているからだ。分析的経験もそこを出発点とすべきである。欲望はたんなる生の迸りではない。欲望は調和的な関係からは身を引き離す。転移は対象への道を切り開く唯一の方途である。しかし転移を退行的な反復とみなすと、要求の不充足という側面が見落とされる。現在、分析家らは患者を対象へと誘導すべく要求にみずから応えようとしている。そこから対象への「距離の調整」といったおかしな観念が出てくる。そこではあらゆる関係なるものに距離が想定されている。これは鏡像段階論の曲解である。転移関係と真正な「現実」を対置すべきではない。それは精神分析以前の心理療法への逆行だ。治療者自身の判断基準に患者の経験を合わせることになるからだ。分析の独自性は患者を[能動的な]話す主体とみなすことだ。欲望は不明瞭で根源的な衝迫の感情ではなく、彼方に位置する。このような欲動や衝迫をフロイトシニフィアン連鎖という時間的区切り(séquence)によって定義した。この衝迫はその源泉や対象や傾向から切り離し得る。衝迫それじたいからも切り離し得る(その傾向性が逆転し得るから)。衝迫は解体し得る。それはシニフィアン的な解体である。欲望はこのような区切りではない。欲望はこのような区切りにたいして主体を位置づける。それゆえ欲望は<他者>の欲望において反省される(se refléter)。家族の新たな一員への関係を例にとろう。新参者にたいして死の願望(いわゆる攻撃性)が向けられる。それは「死んでしまえ」というシニフィアン的分節である。動物であれば攻撃的な「動作」に訴えるところである。原初的な競合関係はシニフィアンに訴えるかぎりで無意識的である。シニフィアンであるからこそこの言明は「かわいいね」「こいつがすき」といった言明の背後に隠れる。このふたつの言説の間隙に欲望が関与する。クライン的な悪い対象が制定されるのもこの間隙においてである。

 ラカンにおいて欲望はファロス中心主義的であるとする声がある。クラインは玩具をファルス的な象徴と解釈する。この解釈を正当化し得るのは、子供にとって玩具がもっぱらシニフィアンであるかぎりにおいてだ。ファルスが欲望のシニフィアンとして最良のものであることにクラインが気づいているかはともかくとして。ファルスがシニフィアンとしてしるしざすものは、<他者>の欲望への欲望である。ファルスが特権的な対象となるのはそれゆえである。欲望において重要なのはファルス中心主義的ということではなく、欲望の対象が本能的な満足をもたらす対象ではないことだ。欲望の対象は欲望への欲望のシニフィアンであることだ。

 欲望の対象はそれじたい<他者>の欲望である。もしそれが無意識的な主体の「知る」ところとなるのであれば。<他者>の欲望が無意識の主体にたいして承認したいという願いとして、承認のシニフィアンとしてもたらされるかぎりでこの言い方は矛盾しない。欲望は承認のシニフィアンいがいの対象をもたない。

 欲望の対象のパラドクスを典型的に示すのはフェティッシュである。人間の交換する対象にはフェティッシュ的側面が内在するが、これは交換の規則的な性質によって隠されている。欲望の対象はシニフィアン的素材から借り入れられる。フェティッシュはなにかを隠す縁飾りであり、<他者>の欲望のシニフィアンの機能をこのうえなく表すものである。

 子供は母親の欲望に関わる。要求の主体は要求の外にいる。母親の欲望を子供はシニフィアンをとおしてしか解読することができない。このシニフィアンを分析家はファルスという基準によって量る。欲望のレベルにおける交換では、主体はaとなり、欲望の承認のシニフィアン、欲望への欲望のシニフィアンとなる。抹消された主体において、主体はもっとも根源的ないみにおいて想像的な主体である。分離(déconnextion)の純粋な主体、話された切断の純粋な主体である。切断こそパロールの設立される本質的なスカンションであるから。この主体は存在(それじたいがシニフィアンの刻印を受けている)のシニフィアンと組みになる。aは話す主体が対峙する存在の残余であり、いっさいの要求の残余である。

 かくして対象はレエルと合流する。現実(réalité)とは人間的な象徴(symbolisme)がレエル(réel)の首に繋ぐ有象無象の縄によってできている。

 対象において、レエルは要求に抵抗するものとして現れる。欲望の対象は「肯ぜない(要求を受け入れない)もの」(l’inexorable)そのものである。欲望の対象がレエル(シュレーバー参照)に合流するのは、レエルというかたちのもとにおいて欲望の対象が「肯ぜないもの」を最大限に体現するからである。肯ぜないものとしてのレエルは「レエルはつねに同じところに回帰する」というかたちで現れる。

 それゆえにレエルの祖型は天体に見出される。星々はおそよ現実なるもののうちでもっともレエルなものである。つねに同じところに回帰するものとしてのレエルを位置づけるのは裂け目という形態である。

 「ベルギー分析雑誌」における「過渡的倒錯」の事例、およびグローヴァーの類似の報告がふたたび俎上に載せられ、「ローマ講演」におけるエルンスト・クリスの剽窃恐怖症の事例に送付される。いずれにおいても分析家は患者の訴えが「現実」の中に存在しないと説得しようとする。かれらのいう客観性とは分析家の先入主にすぎない。

 欲望にたいする分析家の位置はどうあるべきか。文化とはロゴスへの関係における主体のひとつの歴史である。文化と社会とはエントロピーの関係にある。社会に移行する文化は解体の機能を孕む。それは欲望の機能である裂け目と同じものである。倒錯は諸機能の社会的安定化の規範への同一化への異議申し立てを反映している(フロイト神経症と精神病」参照)。ここでラカンはおもむろに昇華に言及し、昇華についてのグローヴァー論文を参照する。昇華は欲望が流し込まれる型(forme)である。フロイトによれば、昇華は性的欲動を空にする。むしろ欲動そのものが性的関係の実質ではなくてこの「型」であると言うべきなのだ。根本的には欲動は純粋なシニフィアンの作用に還元される。昇華において欲望と文字が等価となる。いっさいの「正常化」への異議申し立てとしての倒錯において、昇華は社会的な価値づけとは区別される。

 昇華はロゴスの秩序における創造的な仕事がなされる論理学的な主体(sujet logique)のレベルで起こる。

 欲望は「グラフ」のd, S barré ◇a, S(A barré), S barré ◇Dが形成する閉域に位置する。分析においては<他者>の欲望を分析家の欲望に引きつけてはならない。分析家は欲望の仲介者もしくは産婆という逆説的なポジションにいる。分析家はあらゆる要求の支えとして身を差し出しつつ、そのいずれにも応えない。分析家の現前のいっさいはこの拒否にあるのか? 切断はもっとも有効な解釈である。この切断のうちにファルス的対象が現前している。

 締めくくりとして謎かけめいたフレーズが投げ出される。「女性はその肌にきまぐれ(fantaisie)という肌理(ほんのすこしのきまぐれ)をもつ」(デジレ・ヴィアルド)。これは要求をさし向ける相手への主体の関係を表している。<すべて>をもちあわせる主体という観念もまた<母>という女性によってイメージされるが、精神分析パロールの切断によって新たなものへの裂け目を開ける。女性のきまぐれが精神分析のポエジーになぞらえられてセミネールは閉幕となる。