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倒錯者としての女性:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その20)

 第XXV講(17/06/1959

 

 誤りや迷いは啓発的であるとの言葉を枕に、「国際精神分析雑誌」に掲載された倒錯論が俎上に載せられる。著者らは倒錯的幻想と倒錯とを混同している。幻想のレベルでは神経症者と倒錯者の根本的な相違はない。著者らは倒錯をアブノーマルに性愛化された関係に還元している。

 フロイトは無意識には多形倒錯的な諸傾向があると書いている。多形倒錯の観念は古びたとはいえ、フロイトが無意識的幻想の構造を発見していることを見逃してはならない。フロイトによれば、それは倒錯において明るみに出される関係の様態に似ている。

 倒錯者がその幻想において演出するものは映画のシークェンスのように提示される。予告編映画のようにいくつかの映像が筋立ての文脈から切り離されて映し出される。倒錯者の幻想も同じである。分析がその映像を主体の歴史のなかに位置づけ直す。しかし脱落の仕方が欲望の位置を指し示す。つまり欲望は名付け得るものの彼方にあり、主体の彼方にある。幻想の告白にともなう(滑稽さゆえの)気まずさは欲望の位置と喜劇との関係によって説明される。倒錯者の幻想は根源的で自然的なものであろうか、もしくは神経症の症状のように複雑に加工されたものであろうか?

 倒錯における対象関係はアブラハムフェレンツィ以来、進化論的・発生論的にとらえられてきた。部分対象と全体的対象との対立も、「対象への距離」も不十分な概念である。対象への無媒介的な関係という観念が神話にすぎないいじょう、欲望にかんして距離という観念は不可欠ではあるが。グローヴァーも発生論的な観点から周囲の現実への主体の関係を重視している。原初的なパラノイア的段階から強迫神経症的段階への移行が想定されている。前者は投射と取り込みのメカニズムに則る。クラインどうよう、幻想に現実を構成する機能が帰される。クライン論文「自我の象徴形成」によれば、幼児にとってまず対象は不安の源泉であり、その結果、周囲にたいしてサディズム的な攻撃性が向けられる。ついでもっと良性の対象に移行し、これがこんどは不安を催す。ここには反恐怖症的なメカニズムがある。反恐怖症的な対象が恐怖症的な対象にとって代わり、それじたいが恐怖症的になる。それゆえ反恐怖症的な弁証法によって諸対象の世界が拡張し、現実が克服される。グローヴァーはさまざまな倒錯を自我の規則的な発達という観念に統合しうるメカニズムのうちに位置づけようとしている。主体の構造化は現実の克服という観点からとらえられている。

 ラカンの恐怖症の観念は最近のフランスの分析家らの観点と相容れない。後者は恐怖症の発生を幼児的経験の構造的諸形態によって再構築しようとする。純粋に経験的(実験的)な発生を問題にしている。ラカンが問題にするのはシニフィアンであり、それは周囲の現実をふくめていかなる現実にも送り返されない。言語の現実いがいには。主体は言説のなかに身を持し、そこで存在として顕れる。

 グローヴァーは倒錯を発生論的に位置づけるにあたり、倒錯において歪められた現実に合わせて倒錯を細分化して序列化する。妄想期に対応する倒錯があり、抑鬱期、男根期、エディプス期、性器期のそれぞれに対応するそれがあるといったように。結果、倒錯は現実吟味の一形態と定義される。現実吟味が失敗すると倒錯がその穴を埋めに来る。

 それゆえ倒錯は主体にとって現実の保持という機能を保証する。現実の繕いにして要石である。それゆえグローヴァーにとって、倒錯は精神病の脅威にたいする救済である。

 クライン的弁証法は妄想段階と抑鬱段階を区別する。後者において主体は一者としての母親という優勢な対象に関係づけられる。クラインにとって、対象はよいかわるいかをこえて意味をもっている(significatif)。よい対象とわるい対象の対立において問題になっているのは、対象そのものからシニフィアン的対立への移行である。クラインはシニフィアンの機能の原初的な諸形態を記述している。主体が内部と外部をもつのはみずからを一者とみなす瞬間からである。その瞬間から投射と取り込みが起こる。これは鏡像段階に対応する。対象の世界を現実的に主体の存在に沿って秩序づける言説は主体が鏡像段階という試練においてみずからを認める言説をはみだす。理想自我i(a)ーー分身のイマージューーは主体の一部であると同時にそうではない。クラインはそれを「内的な悪い対象」と呼ぶ。これは逆説的な観念である。禁止の機能がそれにケリをつける。主体がこの悪い対象であるのなら、主体はそれをもたない。主体がそれに同一化している(il est identifié)かぎり、主体はそれを所有することを禁じられる(il est défendu qu’il ait。ダジャレらしい)。

 主体は悪い対象のレベルでコントロールmaîtrise)を発揮する。真の主人(maître)が主体に悪い対象の限定された使用を委ねる。それが「要求できない対象」であるかぎりで。論文「自我の発達における象徴形成の重要性」の幼児は「要求できないもの」という袋小路に置かれているが、はじめて手にしたハサミで紙を切り出し、汽車を繋げて遊ぶことで、シニフィアン連鎖から切り離した小さな一片という「残余」にみずからを位置づける。 

 一般的に満足とは充足感(bien-être)であるが、欲望は要求ではない。女性のエディプス複合が想起させられる。女性が要求するのは充足ではなくじぶんが持っていないもの、ファルスである。女性における欲望の成熟の弁証法は自然過程には還元されない。じぶんが男であったばあいに現実的に持っていたはずのファルスを要求する。それゆえそれはシニフィアンであり、女性は欠如(en moins)というかたちでそれを経験する。女性においては愛する存在との完璧な性器的融合の余地があるが、それはある限界点においてだけであり、女性はつねにファルス的対象から切り離されている。女性はシニフィアンとしてのファルスそのものに関わっているので、男性にとっては去勢の脅威をもたらす。女性は<他者>の欲望の対象であるかぎりでじぶんがファルスを持たず、象徴的にファルスであることにたいして無意識的である。無意識において、女性はファルスであると同時にファルスを持つ。女性は欲望においてしかそれを知らない。女性と倒錯者との間に親近性があるのはそのかぎりにおいてだ。女性はじぶんから切り離され得るあらゆる対象をファルスとみなす。学説によればその筆頭は幼児期の生産物であるとされる。じぶんから切り離された対象は欲望の対象の機能を持つことになる。女性に倒錯者が滅多にいないのはそのためである。文化的なコンテクストにおいては女性の満足は分離の弁証法に位置づけられる。欲望のシニフィアン的対象の弁証法である。男性に比べて女性に倒錯がすくないのは、女性は倒錯的関係を子供との関係において満たしているからだという説もある。

 女性の嫉妬の方が男性のそれよりも根源的である。第XX講の「要求の図表」が参照される。現実的<他者>がシニフィアンに失墜する(A barré)と同時に主体は抹消される(S barré)。その分割(除法)の残余がaという「要求し得ないもの」である。主体(女性)はこの残余のうちにみずからのうちのもっとも本質的なものをみてとり、みずからを愛の対象とする。女性がパートナーの欲望の顕われを重視するのはそのためだ。

 愛と欲望はべつものである。ある人を愛し、別の人を欲望することは可能である。あらゆる愛の昇華の彼方で、欲望は存在への関係をもつ。たとえどんなに限界づけられ、どんなにフェティシズム的であり、どんなに愚鈍であろうとも。幻想において、盲いた者としての主体は、もはやもじどおり一個の支え、一個のしるしでしかない。<他者>との諸関係のシニフィアン的残余としてのaというしるしである。aにこそ女性は最終的な証しという価値を結びつける。<他者>が愛をさしむけているのはかのじょであるという証しの。

 男性がある女性を全身全霊で愛し、他方で別の女性の靴とかドレスの裾とか白粉とかを欲望するとき、存在へのオマージュが捧げられているのは後者においてである。

 ファルスの機能に際してふたたび「内的な悪い対象」が想起させられる。父の名は対象のうちに解離(dissociation)をもたらす。それは禁止の形態である。ファルスであることないし持つことの禁止である。

 主体がファルスであるのであれば、ファルスを所有し、使用することはできない(インセストの禁止)。いっぽう、ファルスをもつのであれば、主体はファルスであることはできない。「要求不可能な対象」は「あれかこれか」の選択を強いる。

 神経症者はこの二者選択を換喩的に利用する。この換喩は退行的である。「かれはファルスではない」が「かのじょはファルスをもたない」にとって代わられる。

 神経症者はファルスをもたないことを、隠れた形で(無意識的に)ファルスであることの確証とする。前講の末尾における pour être がこれである。

 ファルス「をもつ」のはじぶん以外の他人である。たいして神経症者は無意識においてファルス「である」。欲望する者となる際に、主体は代理人(substitut)を立てる。これが神経症の根本である。強迫症者はじぶんで享楽しない。ヒステリー者のばあいにも、享楽の対象となるのはかのじょではない。

 主体が自我へと想像的に代替される。欲望の問いに要求が介入する。この置換が欲望の弁証法だ。 

 それゆえ神経症者は代理物(substitus)しか要求しない。神経症者の要求はつねに別のものの要求である。神経症者の退行的な換喩は終わりをもたないから。それゆえ欲望のレベルにおいて、主体はじぶんじしんに置き換えられる。欲望しているものを要求しているとおもいこんでもっぱら代替物を要求している。

 主体が何かを要求する人に自我が置き換えられている。誰よりも神経症者において、この切り離された自我は欲望の対象の原初的な形態である切り離された対象の代わりをする。

 神経症者の愛他主義は、「満足のために身を捧げる」ことである。他人に身を捧げつつ、神経症者はみずからの不満足にたいして盲目である。神経症者において、抹消された主体はファルスへの存在の同一化に変化する。つぎの式が提示される。Φ barré(=抹消されたファルス) i(a)