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裂け目としての主体、あるいは倒錯者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その18)

 

 第XXIII講(03/06/1959)

 

 <存在>と<一者>について。「存在」とは象徴界のレベルに現れるかぎりでの現実界のことである。「純粋な存在」は間隙、切断に位置し、それゆえもっともシニフィアンならざるものである。切断が象徴界において「存在」を現前化させる。いかなる主体も「一者」ではない。<一>は一義的な観念ではない。1は数そのものの成立にたいして二次的に生じる。人間存在は数え、また、数えられる(se compter)。斜線を引かれた主体は pas un として現れる。欲望のレベルにおいて、主体はみずからを数え手として数え入れる。

 欲望の対象がもっとも成熟した欲望(性器的欲望)であるなら、分裂は問題にならない。実際には対象は愛の対象(そこにおいてひとは単一性としてのみずからを他者に捧げる)である一方で欲望の道具である。これは宗教における受苦的(肉体的)愛と愛徳(l’amour de charité)との区別に相当する。欲望についての唯一の理論は三位一体という宗教的ドグマにある。道徳的、社会的なレベルにおける万人の満足とは欲求の満足であろうか。マルクス主義における万人の自由とはみずからの欲望を自由にすることであろうか。欲望の満足はポスト革命的な問いである。欲望の問題は権力の最大の関心事である。問題は文化における居心地のわるさを和らげることだ。文化における居心地のわるさとは、すべからく欲望の居心地のわるさである。欲望を「実現する」とは?最後の審判がそれであろうか?それは善をなすことであろうか?

 「対象は主体がもはやみずからを名指すことができない地点をしるしざすという機能をもつ。そこにおいては羞恥(pudeur)が、症状において恥(honte)や嫌悪に換金されるものの王道の形態となる」。

 喜劇は「人間にたいして世界におけるみずからの状況のスペクトル的解体を可能にするかぎりでの舞台(scène)のメカニズム」を如実に示している。喜劇は羞恥の彼方へ赴く。たいして悲劇は主人公の名、主人公の同定で終わる。ハムレット(この名は父の名でもある)はみずからの欲望のなかで最終的に廃棄される。たいして喜劇は欲望の罠(attrape-désir)である。欲望の罠が機能するたびに喜劇が起きる。喜劇においては欲望が予期せぬところに現れる。滑稽な父親、偽善的な信心家、姦通の誘惑に引っかかる有徳者など。欲望がそれと名乗ることなく現れて、その仮面を剥がされる。欲望が侮辱され、罰されるが、喜劇の主人公は無傷のままである。喜劇において欲望は仮面を剥がされるが、反駁されることはない。欲望は幻想においてその「尻尾をつかまれる」(ピカソ)。主体はみずからが欲望するその場所にいないが、幻想のなかのどこかに隠れている。解釈がそれを明らかにする。

 治療における過渡的倒錯(perversion transitoire)の症例における「殺虫剤の噴霧器=破壊的ファルス」という喜劇的幻想。分析家はこの幻想を「現実」という観点からファリックマザーとして解釈した。とはいえ事は欠如している父親のイマージュに関わっていた。主体は欲望を固定させるために父のイマージュを召喚した。患者は切断をモンタージュすることで欠如した人物を創造した。

 Fort-da における糸巻きがウィニコット的な移行対象(objet transitoire)と規定される。これはみずからの消失においてみずからを把握する幻想である。ジョーンズが去勢複合を欲望の消失への恐れに帰すことで述べているのはそのことである。ジョーンズは了解の必要からそのように述べているが、ラカンは了解しようとしない点で現象学者ではない。欲望の消失への恐怖は、じぶんが欲望することを欲望していることを前提している。神経症者の欲望はこうしたものである。

 神経症者の欲望についてはあとまわしにされ、まず倒錯者の幻想がとりあげられる。露出症の幻想はdonner à voir (ポール・エリュアール)という「贈与」の一形態を示す。

 ここで動物の主体性についての脱線。動物(トゲウオ)の性的擬態における富の贈与においては、この贈与が「返答」を「予期」するというかたちで「時間的投射」が起こっている。動物も「約束」する。

 露出症者において見せることは<他者>の共犯的欲望と関係している。欲望の罠としての亀裂(rupture)が<他者>のうちに察知される。露出症者の快は公共の場所をひつようとする。露出症的な欲望の満足は<他者>との特権的なコミュニケーションをひつようとする。存在とレエルの顕現としての露出は象徴界の枠組みをひつようとする。それゆえに公共の場所がひつようとなる。露出症者は対象に接近することをおそれるとされているが、露出症者の欲望の満足は最高度の危険を条件とする。不意を打たれた<他者>が羞恥を乗り越えて共犯的に関与させられることがひつよう。露出症者は剥き出しにする以上に隠す。かれが見せる勃起は欲望の器械とは別ものである。この器械は見てとられたものを見てとられないもの(開閉するズボン)に関係づける。それは欲望における裂け目(fente)である。勃起は裂け目そのものを補填しない。対象によって埋めるべきものとして主体がみずからのうちに示す(se désigner)のはこの裂け目である。窃視欲動において本質的な要素である「裂け目」は通常見落とされている。窃視者にとって裂け目は不可欠であるが、見てとられるものと見てとられないものとの両項の関係は露出症者の場合とは異なる。窃視者の享楽は、見られている人が、窃視者(「不可視のスチュワード」)に身を捧げるそぶりをみせるとき最大化する。『天使の反抗』(アナトール・フランス)における、欲望と、捉えることができないがつねに想定されている潜在的な目との弁証法。見られる者が秘密をもっている身ぶりで捉えられるとき、窃視者の快は最大化する。露出症者においても窃視者においても主体は裂け目という策略(artifice)に還元される。この策略が主体の場所を占める。幻想において主体は裂け目である。女性器の裂け目は象徴的にもっとも耐えがたいものである。主体という裂け目と女性器という裂け目の関係は如何?

 「私はじぶんがみるのをみていた」(「若きパルク」)。このような完全な自閉、完全な自足はいかなる欲望においても実現しない。露出症者も窃視者も「私はじぶんを見ていた」の位置を占める。いっぽう<他者>はかれの「私はじぶんを見ていた」を見ていない。倒錯者の享楽は意識されない。倒錯者はいわば第三者によって斬首されている。窃視者のまえで<他者>は見られる態勢にあることを知らない。露出症者のまえで、<他者>はじぶんが目にしているものによって動揺している事実がなにをいみしているのかを知らない。この対象が<他者>に効果をおよぼすのは<他者>が実際に露出症者の欲望の対象であり、みずからはそれを知らないかぎりにおいてである。二重の無知を区別すべし。<他者>はじぶんを晒す、もしくはじぶんを見る者の心の中で知られている(réaliser)と想定されることを知らず(réaliser)、じぶんが欲望の顕示であることを知らない。逆に、露出症者あるいは窃視者は、みずからの欲望における切断の機能を知らない。かれは切断が目につかない(clandestin)自動運動においてかれを廃棄することを知らない。行為においてそのものとして言われていることは、現前しているが宙吊りにされていて、知られることがない状態において絶頂にある。切断が示すのはそのことである。いっぽうで主体のほうは、かれを殴打にさらす恥ずべき動物のこの斜に構えた作業しか知らない(?)。ブラインド、望遠鏡、スクリーンといったいかなるかたちのもとにあらわれようと、裂け目は倒錯的主体を<他者>の欲望に参入させる。この裂け目は解明すべき、より深いある神秘の象徴的裂け目である。倒錯者を無意識のどこに位置づけるべきか。倒錯者が狙いをつけるのは、みずからの欲望の構造を再生産する<他者>の欲望である。<他者>の欲望をめがけ、そこにひとつの対象を見ると信じるのだ。