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ハムレットのアナモルフォーズ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その17)

 

 第XXII講(27/05/1959)

 

 グラフにおいて幻想は上段と下段の交点に位置づけられる。下段の線(個々の主体を越えて連綿と続く「具体的な言説」)は意識にたいして完全に透明であるが、こうした透明性はそもそも幻影である。意識とは直接与件ではなく、なによりも同類のイマージュとして与えられる。一方、上段は意識に達しない連鎖である。

 シニフィアン連鎖にかんして論理的時間における「選択」が「欲動の[周期的]構造」にしたがうものであることが確認される。無意識は際限なき反復として提示される。

 幻想において対象aは切断の関係の想像的支えとして主体を支える。

 「具体的言説」は現実(réalité)の領野を包括する。話す人間が「具体的言説」にビルトインされていることがマルクス的疎外に送付される。

 現実界は不透明な連続性ではなく、切断からなる。言語による切断とどうように。プラトンは哲学者を腕のよい料理人になぞらえた。関節の切れ目に沿って包丁を入れる術を心得た料理人である。問題になっているのは現実界の切断と言語による切断の関係である。ある切断のシステムをもうひとつの切断のシステムに重ね合わせることだ。科学はここから一歩を踏み出す。科学の冒険(量子力学)は物質概念を解体することで純然たる「認識」という観念を問いに付す。いっこの「大いなる全体」としての現実界じたいに切断はなく、[認識が]そこに切れ目を入れることで新たなものが創り出されるのだ。主体のレエルな「存在」は切れ目であり、象徴化されない。幻想がそれを「指し示す」(désigner)機能を果たす。そのかぎりで欲望は存在の換喩である。「人間」なるものがすでに象徴化され、その歴史をとおして同一のものと再認されるものであるかぎりで、幻想において指し示される(s’indiquer)主体は「人間」と同一視されず、「ヒューマニズム」とは関係がない。「存在」の「尊厳」は、あらゆるバックグラウンド(とりわけ去勢的なそれ)から「切り離されている」ことにあるのでもなければ、罪責性を負っている(coupable)ことにあるのでもなく、「切断」そのものに由来する。

 切断は象徴界そのものの究極的な構造的性質である。死の本能はそこに帰される。

 クルト・アイスラーの論文「芸術作品における細部の機能」がコメントされる。フェルディナント・ライムントの作品における、「スープ皿の中の髪の毛」のようなしっくりこない(relevant)細部がある。劇中で不意に五年の年月が流れるが、これはライムントが執筆の五年前に親にたいするごとき性的同一化を果たしていた人物を亡くしていたことの反映であるということらしい。アイスラーは、このような細部が症状とおなじ機能を果たしているとする。症状が患者にとって「しっくりこない」要素として現れ、分析家は解釈によってそれを解消させるのにたいし、目下のケースでは、不調和な細部が問題の所在を明かす。芸術作品においてはタッチのミス(不連続)だけが分析家にとって意味ふかいものとなる。芸術作品は切断を導入し、そこに無意識の主体のレエルが現れる。この切断への主体の関係を主体は知ることができないが、幻想というかたちのもとに経験する。幻想の経験は作品に織り上げられている。『ハムレット』にもさまざまな「しっくりこない細部」がある。『ハムレット』におけるしっくりこない細部群の「織物」もしくは「建築」は、切断そのものにたいする語る主体の関係を表している。それゆえ『ハムレット』の悲劇は真理にたいする主体の関係を示している。それ以前のハムレット神話とは異なり、シェイクスピアにあって父の殺害を知っているのは亡霊である父と息子だけである。亡霊が告げるのは妻の絶対的裏切りという事実である。亡霊の言葉は真理がないこと、非-真理を保証している。一般に死者は嘘をつかないとされている。ラカンはここにある「不連続」を読みとる。父による暴露はハムレットの耳に「毒」のように注ぎ込まれる。ハムレットは芸術作品(芝居)によってこのダメージから回復する。クローディアスは毒殺場面を見ても平然としている。ということは幽霊は嘘をついたのであろうか?