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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

喪と現実界における穴:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その13)

 

 第XVIII講(22/04/1959)

 

 ハムレットにとって出会いはいつも早すぎ、かれは出会いを遅らせる。それにたいし、行動するとき、ハムレットはいつも性急である(ポローニアス殺し)。ここには神経症の生の現象学がみられる。ハムレットはつねに<他者>の時にいる。この時は幻影にすぎない。<他者>の<他者>は存在しない(シニフィアンシニフィアンによる真理の保障をもたない)から。ハムレットにとってのみずからの時はみずからの喪失の時である。悲劇はこの「時」へのハムレットの不可避的な道程に宿っている。

 対象aは欲望「における dans」対象(≠ objet du désir)。「幻想の一般構造」が、「主体がみずからの疎外のシニフィアンそのものの価値をもつにいたったなにか(=ファルス)を剥奪されているかぎりで、主体がみずからをシニフィアンに繋ぎ止めるものの価値をもつにいたったことによって主体の生そのものに強く結びついているなにものかを剥奪されているかぎりで、特定の対象が欲望の対象(objet de désir)になる」と定義される。欲望の対象はいかなる欲求の対象でもない。欲望における対象の時間的存続は、主体に隠されたままのもの、すなわち主体がシニフィアンとの関係に入るために犠牲にした肉体の断片の地位(place)を占めにやってくる。なにものかがそれ(ça)の地位を占めにやってくるがゆえに、そのなにものかが欲望における対象となる。ここでは隠されたもの(caché)、隠匿されたもの(occulté)への謎めいた関係が問題になっている。「生とはゼロが非合理(irrationnel)な数(無理数)である計算として定義されうる」。対象と隠れた要素(主体の生きた支えであり、シニフィアンとして主体化されることはない)との関係が虚数(√-1)になぞらえられる。虚数はいかなる現実へも送付されない。対象についても同じ。対象は、隠されたものとしての斜線を引かれた主体にたいするあり得る諸関係を経巡ることをその本質的な機能とする。『ハムレット』はこの機能を雄弁に示している。

 幕切れの行為における「出会い(rendez-vous)の時」。この行為をハムレットは為すと同時に被る。貴重な「収集品」一式を道具立てとする「決闘」という「虚構的」な枠組みをもつこの行為は幻想的構造にしたがう。そこではレアチーズとハムレットが鏡像的関係に置かれる(ハムレットによるレアティーズの「パロディー」)。ハムレットの欲望は決闘という「罠」(piège)「幻影」(mirage)「見せかけ」(parade)のレベルにおいてではなく、その彼方において成就される。その彼方にはファルスがある。分身レアティーズ(l’autre)との邂逅をつうじてハムレットは運命的なシニフィアン(ファルス)に同一化する。「I will be your foil(フォイル=引き立て役=宝石箱)」なるハムレットの台詞に着目すべし。かれはレアティーズの「夜空の星のような光輝」を際立たせることで致命的なファルスに同一化する。地口(ダブル・ミーニング、曖昧さ)はハムレットのキャラクターと不可分である。「シニフィアンの遊戯(作用)はハムレットのテクスチャーそのものに属している」。ハムレット=道化説。道化はその本分であるシニフィアンの置き換えによって人のもっとも隠された動機を暴く。ハムレット=狂人=道化=言葉の作り手。本作の劇的緊張は「曖昧さ」によって支えられている。

 ハムレットが狂人を演じるのも「機知」jeu d’esprit なのだ。それはシニフィアンのレベルで、意味の次元においてなされる(そこに作品の esprit がある)。ハムレットの周囲のみならず観客も惑わされる。そこが作品の妙でもある。ハムレットにとってレアチーズはじぶんじしんよりもすばらしい分身であり、これは欲望の対象との対峙の帰結である(そのきっかけではなく)。この対象にファルスの現前が内在的である。ファルスは主体自身の消滅とともにはじめてその絶対的な(formel)機能を果たす。

 墓地の場面でレアチーズはオフィーリアへの喪をひけらかす。ハムレットはこの「見せかけ」(parade)の喪に嫉妬する。ここにレアチーズとハムレットの分身的関係のさいしょのあらわれが確認される。欲望における対象の構築(すなわち幻想)と喪との関係はいかなるものか?

 ハムレットがオフィーリアにたいして残酷で軽蔑的(dévalorisant)な態度を見せることで、オフィーリアはハムレットの欲望の排斥(rejet)の象徴そのものとなっていた。その対象がここでとつぜんふたたび価値を帯びる(「おれはオフィーリアを愛していた」)。オフィーリアが不可能な対象となったとき、かのじょはふたたび欲望の対象となるのだ。不可能性は、強迫症者の欲望にかぎったことではなく、欲望の対象一般を規定している。これは欲望の構造そのものに根ざしている。

不可能であることは人間的欲望の一面でしかない。強迫症者を特徴づけるのは、この不可能性との出会いの強調だ。欲望の対象が不可能というシニフィアンを帯びるよう計らうのだ。

 フロイト以来、喪は対象との関係(対象への同一化、その体内化)において規定されている。喪における同一化が想像界象徴界現実界のいずれのレベルにおいてなされるかはこれまで定義されてこなかった。

 喪は人間にとって「現実界における穴」をひきおこす。これは象徴界において除去されたものが現実界に回帰する「排除」(Verwerfung)の文字どおり逆である。人間に耐えがたいのはみずからの死ではなく(だれもそれを経験できない)、重要な存在である他人の死だ。このような喪失があるしゅの「排除」(Verwerfung)、「穴」を構成するが、それは現実界においてである。「排除」のばあいどうよう、この穴は欠如したシニフィアンが投影される場(place)を提供する。それは<他者>の構造にとって本質的なシニフィアンである。その不在によって<他者>があなたに返答を与えられなくなるようなシニフィアンだ。このシニフィアンをひとはみずからの肉と血で支払わなければならない。本質的にそれは隠されたファルスである。このシニフィアンがここで場を見出す。と同時に見出すことができない。なぜなら<他者>のレベルでは表象され得ないシニフィアンだから。それゆえ、精神病におけるとどうよう、その代わりに(その場所に à la place)有象無象のイメージの群れが繁殖する(pulluler)。喪が精神病に近いのはそれゆえである。消失したものに儀式が施されないと特異な「現象=亡霊」(apparations) が現れる。葬儀は象徴的な作用(象徴的なものの戯れ)を総動員する(地獄から天国まで)。葬儀はマクロコスモス的な性質をもつ。シニフィアンを総動員する以外には、シニフィアンによって現実界の穴を塞ぐことのできるものは存在しない。喪の作業はロゴス(≠集団、共同体)のレベルでなされる。喪の作業はそもそも、実存に開けられた穴を塞ぐにはいかなるシニフィアン的要素でも不十分であるという無秩序への対処である。どんな喪にたいしてもシニフィアンのシステム全体が動員される。

 民間伝承が示すように、死者に負うところの満足が妨げられると、シニフィアン的儀式の不在によって空いた場所に亡霊が現れる。

 『ハムレット』は地下世界の悲劇である。亡霊は贖うことのできない侮辱によって現れる。オフィーリアはこの原初的な侮辱に捧げられた一犠牲にすぎない。ポローニアス殺害場面におけるハムレットジョーク(Hide fox, and all after.)はまっとうされない喪へのひやかしである。幻想と対象関係の逆説的な関係を喪が解明する。『ハムレット』への長い脱線が、卵を割らずにハムレット(omelette)は作れない(「ハムレット的レシピ」)と弁明される。