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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

ファルスとしてのオフィーリア:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その12)

 

 第XIV講(11/03/1959)

 

 『ハムレット』が「欲望の悲劇」と規定される。初演された1601年の二年後に女王エリザベスが逝去している。時代の転換点に書かれたという事実は重要。

 分析プロパーではジョーンズがハムレットと女性的対象の関係を問うている。エラ・シャープはシェイクスピアの作品を攻撃性が外部に向かう躁的な作品と内向する鬱的な作品とに分けている。

 ハムレットが行為に至れない理由は、(1)ハムレットの心理に帰されるか(ゲーテ、コールリッジ)(2)外的条件に帰されるか、(3)行為そのものの困難に帰されてきた(ジョーンズ)。ラカンの解答は第XIX講で明らかにされるだろう。

 ハムレットの解釈は心理学的なそれから神話学的なそれへと移行してきた。

 以下のラカンによる解釈のポイントのいくつかが列挙される。父の幽霊が殺害者よりも「母の欲望」を告発すること。ハムレットの疑似狂気。上演場面(play scene)と「真理の偽装された次元」、「虚構の構造」。自殺の不可能性。上演場面のあとでの母との「演劇史上もっとも異常な場面」。「デンマークハムレットだ!」という台詞において抹消された主体が対象(オフィーリア)に同一化し、主人公がはじめて欲望を再発見すること。

 

 

 第XV講(18/03/1959)

 

 ハムレットに感情移入することの不可能性に関して、ジョーンズはハムレットの「非実在性」を指摘している。ハムレットが「幻影」であるとしても、これは空虚であることとは別である。ジョーンズの指摘によれば、作品が呼び起こす感動の源泉となる感情が意識されない。ハムレットの人物の非一貫性は、ハムレットが言説の一様態であることを示す。ジョーンズはハムレットの父殺しへの欲望の抑圧を確信犯的に社会的な抑圧(検閲)に帰している。

 ハムレットの行為の障害となるのはかれの欲望であり、この欲望の「不純な」性格ゆえである。ハムレットが行為を遂行し得ないのは、この行為がカント的な意味で「無私」のものではないからだ。

 ハムレットはヒステリー者にして強迫症者でもある。「欲望の座」を再発見することが問題であるかぎりで、あるいは「満足されない欲望」を創り出すことが問題であるかぎりでヒステリー的だが、「不可能な欲望」に支えを見出すという点においては強迫症的である。

 

 

 第XVI講(08/04/1959)

 

 ハムレットの真理は希望(贖い)なき真理である(実存哲学とは無関係)。<他者>は存在ではなくパロールの場であり、そこには一つのシニフィアンが欠けている。「精神分析の大いなる秘密は<他者>の<他者>がないことである」。「私は『私は存在する』と考える者とは別の者である」。「形象なき真理」、「閉じられた真理」、「全方位に折り畳み可能な真理」、すなわち「真理なき真理」。ファルスとは象徴的に供犠に付されたあなたのなかの一部分。オフィーリアは語源的にファルスに関係がある(ophallos 「膨らませる」)。

 

 

 第XVII講(15/04/1959)

 

 オフィーリアという「餌」(appaît)もしくは「罠」(piège)。オフィーリアを対象aとして造型したのはシェイクスピアのオリジナルである。「a は欲望の弁証法がそれをめぐる本質的対象である」。対象関係論は対象の弁証法を要求の弁証法と取り違えている。「守銭奴」にとっての金庫(ヴェーユ)が想起され、対象のフェティッシュ的性質が指摘される。マルクスシニフィアン(≠意味作用)によって商品のフェティッシュ化をとらえている。諸価値の関係はシニフィアンの関係としてあたえられ、主体性はシニフィアン弁証法のうちに記入される。倒錯においては、幻想(S barré ◇ a)におけるアクセントが想像的相関物の側(右側の項)に置かれる。倒錯的欲望は無私ではなく(intéressé)、[カント的ないみでの]「病理的なもの」と結びついている。「生存の苦痛」それじたいと結びついている。まったく純粋に生存することの苦痛。あるいは性的な項として生存することの苦痛。

 倒錯は神経症とどうよう分節されたものであり、分析可能である。とはいえ倒錯においては、存在にたいする主体の本質的な関係が想像的な諸要素に固着している。たいして神経症においては、強調は幻想における左側の項(=斜線を引かれた主体)に置かれている。

 神経症における幻想と倒錯における幻想の区別。倒錯における幻想は空間のうちにあり、「時間」への本質的関係を宙吊りにする。時間をもたない(atemporel)なのではなく時間の外にある(hors du temps 時宜を得ない)。神経症においては、時間にたいする主体の関係が幻想における対象への主体の諸関係の基礎にある。

 神経症においては、対象は「真理の時」の意味作用を担う。対象はそこにおいてつねに時間の前か後にある。強迫症者の一日延ばしは、予見するのがつねに遅すぎるという事実に基づいている。ヒステリー者はつねに外傷における時期尚早性、根本的な未熟性を反復する。

 対象において、主体はつねにその「時」を読もうとする。これが神経症的行動のもっとも一般的な基盤である。

 ハムレットがあらゆる神経症的態度(性格神経症を含めて)を示しているのは構造的必然である。<他者>の欲望への依存がその第一の理由だ。「ハムレットはつねに他人の時にぶらさがっている」。ハムレットは他人たちの時間において罪を宙吊りにしている。かれがイギリスへ発つのは義父の時においてであり、ローゼングランツとギルデンステルンを死に至らしめるのはかれらの時においてであり、物語が終わるのはオフィーリアの時(自殺)においてだ。ハムレットをレアティーズとの試合に引き入れるのは剣などの貴重な objet どもである(「収集家」としてのハムレット)。古代悲劇において狂人はいない。ハムレットが狂気を装うのは、じぶんがよわいと知っているから。サクソ・グラマティクス版、ベルフォレスト版でも狂気のふりをするが、シェイクスピア版においては行為に至るために狂気のふりが不可欠である。狂気のふりをすることは「現代的主人公の政治」の一次元である。

 ハムレットの「狂気」の原因は父ポローニアスの精神分析的叡智が見抜いたようにオフィーリアへの「恋」である。それまで至高の崇拝の対象であったものにたいして距離が置かれる。これが対象にたいするハムレットの関係の第一段階である。幻想におけるバランスの揺らぎが離人症的経験をもたらす。主体と対象との想像的な境界が変容を被る。ハムレットにとってオフィーリアは愛の対象としては失墜する(「一度はあなたを愛した」)。オフィーリアへの残酷な仕打ちは、幻想におけるアクセントが対象へと移行したことを示す(倒錯)。対象はすでに女性とみなされず、呪われた生の支えとなる。ここにおいて対象の破壊あるいは喪失が起こり、対象は自己愛的な枠組みに再統合される。主体にとって、対象は外部に(au-dehors)現れている。この対象は主体がみずからの存在のうちから犠牲に捧げた部分であるファルスである。オフィーリアは[呪われた]生のシニフィアン的象徴(尼寺=娼館)、主体が外部化し排出したファルスである。これが対象への関係の第二段階をなす。墓地の場面が対象への関係の第3段階。a の再統合が、運命と決着をつける可能性と結びつく。そこにおいて対象の機能は極まる。対象はそこにおいて喪と死を引き換えにしてしか獲得されない。