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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

エディプスとハムレット:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その11)

 第XIII講(04/03/1959)

 

 これ以下の七講は本セミネールのクライマックスをなす『ハムレット』読解に費やされる。

 

 シャープの患者においてはファルスが自我理想の位置を占める。そしてファルスへの同一化は母への原初的同一化である。患者は母のファルスを否認していない。<他者>の去勢を拒む。エラ・シャープが理想化されたファルスの位置を占める。そのファルスをゲームに参加させない(隠す)ために患者は入室前に咳をする。

 理想化されたファルスに関して『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の参照が促される。

 シャープの患者はファルスを「持つ」ことではなくファルスで「在る」ことを探究し、「持たずに在る」という女性的ポジションをみずからのものとする。ファルスで「あるべきかあらざるべきか」というハムレット的問いの残響がそこに聴き取れる。

 すでに『夢解釈』初版においてフロイトハムレットの主題をエディプスのそれと同列に扱っている。ジョーンズ、そしてエラ・シャープもハムレットを論じている。分析における去勢複合の理解のためにハムレットを取り上げなおさなければならない。

 「死んでいる父の夢」において、「彼は知らなかった」というシニフィアンは、父が無意識であることを示している。父のイメージは主体の無意識そのものの具現であり、無意識的な父殺しの願望の具現である。じぶんの殺意を父が知らないでほしい(安らかに成仏してほしい)という願いがこの夢を見させた。他方、「彼[=息子]の願いによって」というシニフィアンは、フロイトによれば、抑圧されたシニフィアンである。

 ここで『夢解釈』におけるハムレットについての脚注が全文引用される。

 くだんの夢の父は自分が「死んでいることを知らなかった」。じぶんのあらゆる考えを見通していると思っていた両親が無知であることの発見は幼児の<他者>への関係において決定的な契機である。幼児にとって「あらゆる考え」とはあらゆる実在を指す。<他者>における「知らないこと」は、主体の無意識の構成そのものに相関的である。前者は後者の裏面にして、おそらくその基盤でもある。

 ハムレットの父は自分が死んでいることを知っている。これはエディプスの父との違いである。ジョーンズもそのことを重視している。エディプスは無意識的に罪を犯す。ハムレットはエディプス的罪を知っている。ほかならぬ罪の犠牲者がそれを告げ知らせるべく化けて出たのだ。お告げとはシニフィアンである。

 分析家たちはハムレットがクローディアスに同一化していると考えてきた。クローディアスはハムレット自身の欲望を成就したのだと。この解釈は性急すぎる。フロイト以来、ハムレットがクローディアスに復讐できないのは「良心の呵責」ゆえであるとされている。フロイトによれば、ハムレットの良心の呵責は無意識において分節されているものの意識的表象である。

 ハムレットの欲望が問題であるからにはハムレットの幻想がどのようなものであるかを知らねばならない。オフィーリア(=女性)という意識的な欲望の対象については多くが語られてきた。ハムレット自身が女性嫌悪を口にしている。それは母親ゆえである。ハムレットは「行為」を一日延ばしにしている。これはすぐれて一日延ばし(procrastination)のドラマである。ハムレットの「行為」はエディプス的な行為ではない。エディプスと異なり、ハムレットは存在することの罪(coupable d’être)を自覚している。ハムレットには存在することが耐えられない。ドラマが始まる以前からハムレットは存在することの罪を知っている。それゆえ彼は選択しなければならない。「存在すべきかせぬべきか?」

 『ハムレット』においては、エディプス的なドラマがラストではなくオープニングに提示され、それゆえに「存在すべきかせぬべきか」の選択を主人公は迫られる。このような「あれかこれか」ゆえに、主人公はシニフィアンの連鎖に取り込まれる。

 「生きるべきか死ぬべきか」ではじまるモノローグがルトゥルヌール訳で引かれる。

 父の幽霊はじぶんが「みずからのかずかずの罪の咲き誇るなかで不意打ちされた」と息子に告げる。息子は<他者>の贖われざる罪によって横取りされた地位を手に入れなければならない。『ハムレット』において、知っている者は、みずからが犯したことを知らなかった罪を贖ったエディプスとはぎゃくに、存在する罪を贖っていない者だ。ハムレットは父の代わりに贖うことも、負債を取り返さずにおくこともできない。最終的には支払わせなければならないが、かれが敵に復讐を遂げるのは、みずからに致命傷を負わせたその剣によってでしかない。ハムレットが行為を引き受けることが困難なのは、父と息子が知っている者であるからだ。二人は「瞬きせざる者らの共同体」(communauté de décillement)である。ハムレットはこのそれじたい「不可能な行為」をいかなる「迂回」によって為し遂げるのか? それは<他者>が知っているかぎりにおいてである。

 詩的創造は心理学的創造を反映するのではなく、生み出す。

 エディプスにあってハムレットに欠けている要素は去勢である。ハムレットはジグザグの緩慢な道程を経て、迂回のすえに去勢に至る。