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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ファルス湮滅大作戦:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その10)

 

 第XII講(11/02/1959)

 

 エラ・シャープ「唯一の夢の分析」の読解最終回。なお、ここでとりあげられた症例を収録したシャープの『夢分析実践ハンドブック』は勁草書房より来月に邦訳の刊行が予告されている。

 

 

 クラインはファルスを諸対象中のもっとも重要なものと位置づけている。諸対象への関わり方についてのクラインの記述は正確さを欠き、その論述は断定に満ちている。

 ファルスは主体の存在に関係する。「主体はファルスであり、かつファルスでない。主体がファルスであるのは、ファルスがそれにしたがうことで言語が主体を指し示すシニフィアンであるからであり、主体がファルスでないのは、別のレベルで、言語そして言語の法がファルスを主体から逃れさせるかぎりにおいてである」。

 主体のペニスは対象と量りにかけられ、対象との関係における等価物、原器の機能を果たす。ファルスとの関係の放棄によって、主体は諸対象の世界(無限性、複数性、偏在性)を所有する。ファルスにたいする女性の関係は「ファルスをもつことなくファルスである」。男性にとっては、主体からペニスを奪う行為によってペニスが返還される。

 ここでまたひとしきりクライン批判。クライン的象徴の内容は想像的。ファルスが乳房よりよい対象である根拠は薄弱。

 ジョーンズは剥奪欲求不満を引き起こすとしているが、実際にはぎゃくで、想像的欲求不満が対象の剥奪を帰結させる。

 

 シャープの症例。姉のサンダルの紐と車という二つの対象について、患者はいずれも必要(besoin)がないと語る。つぎのような公式が提示される。

 

姉         ◇ 

斜線を引かれた主体   X

 

 姉は理想自我i(a)、紐は対象a、Xは自我理想(I)を表す。姉は患者より八歳年上であり、患者が父を亡くした三歳のとき11歳である。患者は11歳以前の記憶がないと語っているが、その直前に男性の物まねの得意な女友達について語っている。姉妹的な人物にたいする想像的疎外の関係をそこにみてとれる。

 幻想(覚醒時の夢)と夢(夢の中の幻想)における小他者のイメージはそれぞれ異なる。幻想においてはそれは恋人たちのカップル(患者は彼らを引き離そうとする)であり、犬である。理想自我は結合の分離もしくは使い物にならない動物のファルスのいずれかを強いる。そこに性的結合の余地はない。一方、(女性を自慰させる)夢においてもファルスは隠されている。幻想においては、患者がいてはならない位置を扉の向こうのエラ・シャープが占め、自我理想となる(全能性を保持するクイーン)。全能なのは[シャープが考えているように]主体ではなく<他者>の方である。そもそも患者の症状は法廷での弁護ができないことだ。弁護士は代理する<他者>に触れてはならない。換言すれば、<他者>(女性)は去勢されてはならない。<他者>は彼自身のなかに貴重なシニフィアンをもたらす。それがファルスである。クライン『子供の精神分析』によれば、女児の発達において、ファルスというシニフィアンは主体が口唇、肛門、尿道、あらゆるレベルにおいて獲得する諸傾向を原初的に集中させている。シニフィアン=ファルスが<他者>に内在したままであるかぎり、主体はそれを作用させる(ゲームに出す  mettre en jeu)ことができず、二進も三進もいかなくなる。しかし、患者の抵抗は分析家の抵抗である。エラ・シャープがみずからに禁じているのは「弁護」することだ。シャープは障害を乗り越えることを自らに禁じている。患者が用心していることが何かがわかっていないからだ。患者は女性が去勢されていることを認めないのだ。女性がファルスをもっていないことをではなく、<他者>が「ファルスをもつことなく存在する」ということを。夢において患者の妻はゲームの外に置かれている。ファルスが隠匿されているのだ。患者はファルスが女性のなかにあると認めていないが、エラ・シャープが目の前にいるかぎり、ファルスは女性のなかにある(分析家が女性であることは偶然ではない)。それゆえ女性を前にして弁護することが患者はできない。シャープはファルスが患者のなかにあり、それが攻撃的なものであると考えている。この解釈は患者をベッドに縛り付けられ、自慰を禁じられた幼時のポジションにとどめ置く。シャープは縛ることを原光景に送付し、咳と下痢を原光景への反応(両親を引き離すこと)に帰す。ラカンは国王夫妻のセレモニーに赴く車が故障して国王夫妻の行方を遮ってしまうのではないかという患者の不安(シャープは父への攻撃性に結びつけている)を想起させ、国王夫妻をチェスのキングとクイーンに送り返す。キングとはシャープが考えるように父ではなく患者自身である。国王はほかならぬ「車」の中に閉じこめられ、人々の目にさらされる。これはファルスの探究をいみする。患者にとって、ファルスは環探しの環であり、それはどこにも見つからない。ファルスはどこにあるかという問いは喜劇の原動力である。くだんの幻想はアファニシスという状況に関係しているが、そのばあいのアファニシスとは欲望が消失することではなく、欲望を消失させることである。出版されたばかりの『地下鉄のザジ』のエピグラフ「それを作った者がそれを消滅させた」が引かれる。アファニシスとはファルスという対象の湮滅(escamotage)である。患者が<他者>の世界に近づけないのは、ファルスが隠匿されてゲーム盤の上にないからである。神経症の誘因はファルスを失う恐怖(去勢恐怖)ではなく、<他者>が去勢されていることを望まないことである。