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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

チェスとしての精神分析:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その9)

 

 ミレール篇「ル・セミネール」の版元は2013年刊行の本巻よりSeuilからMartinièreにバトンタッチされたが、誤植が間々ある。

 

 

 第XI講(04/02/1959)

 

 シャープは主体のファルスを攻撃的な道具と見なす。ラカンはそれにたいして別の「解釈」を提示しようとするものではない。ラカンの狙いはこの症例における「主体間のトポロジー」を明らかにすることである。

 症例の同時代にジョーンズとリヴィエールによる男根期についての議論があったことが想起させられる。シャープは患者の巨大化(全能性)への願望を指摘するが、ぎゃくにラカンは患者の矮小化(消失)志向を指摘し(「知ったかぶりをするようですが……」swank)、これにジョーンズ的なアファニシス(欲望の消失)概念を批判的に適用しようとする。

 ジョーンズによれば、去勢複合に際し主体は欲望の消失(アファニシス)を恐れる。去勢とはこの欲望喪失の象徴化であり、アファニシスこそ去勢恐怖の実体である。つまりジョーンズは去勢恐怖をアファニシスという上位概念に還元しようとするが、ラカンによればじっさいには逆であり、去勢が欲望消失の条件である。去勢にはシニフィアンの作用が関与しているからだ。欲望そのものの実体はないから、欲望の現前とかその消失へのおそれについて語ることには留保が置かれる。人間主体がシニフィアンのなかに登録されることで、その[自然的]欲求は[言語的]要求によって変更を被りつつも同定される。去勢複合の機能とは、主体がシニフィアンとして登録されることでシニフィアンのうちのひとつを喪失し、犠牲にするということである。ジョーンズの考えとはぎゃくに、アファニシスへの恐怖は、去勢恐怖の不十分な表現、その部分的な排除(forclusion)という観点から理解されるべきである。去勢複合が欲望消失への恐怖から主体を守ってくれないので神経症者においてはアファニシスが観察される。

 くだんの夢において、患者は膣にペニスではなく指を入れ、手品のように鞘[膣]を裏返す。入れるべきものに代わる何かを入れるのみならず、何かを入れられるということを示している。それは女性のファルスである(to get my penis)。くだんの場面は性交ではなく露出(見せつけ)である。妻という第三者にたいしての。手品によって隠されているものが何かがわからないようになっているが、隠されているものは主体である。ファルスである。夢においてファルスはどこにあるのか?夢において起こっていることと自慰との謎めいた関係。相手と患者の自慰は一体である。自慰のように見えるものは、小他者への密かな自己愛的同一化である。身体の身体への同一化というよりも、相手の身体のペニスへの同一化である。愛撫はサディズムに似る。主体の相手への関係においてシニフィアンとしてのファルスが関係しているがゆえに、ファルスは抱擁を越えた倒錯的関係のうちに求められねばならない。それゆえに、別の主体を自慰することは、みずからのファルスをこの相手のなかに入れることとは異なる。相手を自慰することは、みずからを慰めることにひとしい。これが相手の行為(to get my penis)のいみである。この行為は確認の行為である。目の前にあるものが主体にとって重要であることの確認である。それはファルスと大いなる関係がある。しかしその行為はファルスが現前しておらず、逃れ去るものであることをも示している(主体の意志によってではなく、構造的偶然によって)。

 患者にとって、事態はつねに曖昧なかたちのもとに起こる。たとえば姉のサンダルの紐を衝動的に切った記憶。そして自宅に乳母車がなかったという記憶[兄弟への競争心に関係]。あるいはクラブへの入会希望者への手紙。祈祷書の不正確な引用(「しなければならなかったことを」の挿入。ついでにローランド・ペンローズの思い出への一瞥)。患者にとっての「しないこと」の重要性(成功への恐怖)。「われわれのなかには良いもの[正確には「健康」]はない」。「良いもの」とは「良い対象」であり、ファルス。患者にとって「良い対象」が現前しないことは重要。ファルスはあるとおもわれているところにはない。患者が示そうとしているのはファルスが現前していないこと。姉のサンダルの紐を切らずにいられないのはそのため(?)。切ることは去勢に関係している(フェニシェル流解釈)。この行為は相手への去勢への報復、去勢の適用であろうか、あるいは去勢の飼い馴らしもしくは遊戯化、つまり、去勢の価値下げであろうか(切られたお下げはまた生えてくる)?……いずれにしても、事態は去勢に関係がある。ただし、シャープのいうように攻撃的な全能性への報復が関わっているのでない。

 

 シャープの逆転移が俎上に載せられる。シャープは奇妙にも分析をチェスになぞらえ、分析家が患者に復讐すべく患者を詰ませようとする父であることをやめるまで続くと述べている。ここで問題になっているのは転移である。チェスにおいてあらゆる駒はシニフィアンであり、ゲームが進むにつれてシニフィアンの数が減っていく。分析もシニフィアンを減らすことで主体の位置をつきとめる。シャープは分析における素材のシニフィアン的性格―置き換え(隠喩)―に気づいている。

 ファルスは盗まれた手紙のようにおよそあるとおもわれていないところに現前する。患者はクイーンを失い(perdre sa dame)たくないのだ。患者はファルス(全能性)を失いたくないのでそれをゲームの埒外に置く。夢において埒外に置かれたファルスは、およそそれを代理していないとおもわれる人物、すなわち妻によって代理されている。妻は自慰の目撃者という表向きの役どころとはまったく別のところにいる。見る機能の重要性。<他者>としての女性パートナーは患者にとって、患者の全能性においてもっともタブーであるものを表象しており、患者の欲望のエコノミーの全体を支配している。「妻と世界一周する」ではなく「世界を妻と一周する」と「言い間違い」を犯しているのは、妻が患者のファルスである証拠だ。シャープは全能性を表すものとしての「世界一周」に力点を置いている。ラカンによれば、患者の全能性の秘密は「妻と」にある。患者にとってはそれを失わないことが肝心なのだ。患者はそれに気づいていない。そのためには妻が分析家[シャープ]であることに気づかなければならない。クイーンを失うことが勝負に負けることだと思いこむ下手なプレイヤーのように、患者はクイーンを失うまいとしている。クイーンを犠牲にするほうが勝負には有利なのに。なぜか?患者はファルスのシニフィアンは母親との関係に等しいからだ。問題は父親の欠陥である。重要なのはパートナーへの隠された密かな関係を強調することである。咳が告げているのはそれだ。患者が入室する前にパートナーが袋を裏返してそこに何も入っていないことをばらしたらおしまいだからだ。みずからを縛り付ける(pram-pinned)欲望に患者は幻想によって繋ぎ止められている。みずからが縛り付けられることによって、全能性のシニフィアン(イメージ)を別の場所に確保できるからだ。「車」の重要性もそこにある。車は全能性の象徴であると同時に運転手にたいして女性的な位置を占める(「車のことを人間みたいに話すのは可笑しいですね」)。主体を保護すると同時に縛り付け、埋めつくすという車のシニフィアン的両義性(=くだんの「頭巾」)。

 夢が報告された翌日、患者は咳の代わりに下痢を催す(喪失への恐怖)。その日、患者は修理中の車を使えなかったが、修理を怠った修理工があまりに感じがよいので叱らなかった。「車は必要はなかったが、車が大好きなんです(I love it.)」と口にする。患者が欲望を口にするのはこれがはじめてである(シャープによれば修理工=父)。シャープはそれを患者に告げ、患者は夜尿を来す。夜尿はペニスの活性化である。しかし性的な活性化ではなく現実的なペニスであり、幼児が両親の性交を目撃したときの反応にひとしい。いまひとつの反応はテニスでからかわれた友人に刃向かったことである。締めくくりにルイス・キャロルの一節(「楽園の門……」)が引用される。