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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「死んでいる父」と「叩かれる子供」:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その6)

 

第7講(07/01/1959)

 

 依存神経症という観念は、欲求とその抑制的な影響力を見えなくしている。症状は欲求不満(frustration)という減算・中断の帰結ではないし、主体の変形ではない。想像的な欲求不満はつねに現実的なものに関係している。欲求不満の諸帰結と症状の間に欲望という複雑な弁証法がある。欲望は現実界の残す印象に由来するのではなく、人間にとって現実界想像界象徴界が結ばれる、より緊密な結び目においてはじめて把握され、理解される。それゆえグラフにおいて、幻想にたいする欲望の関係は、あらゆるシニフィアン的な言表行為の構造的な二本のラインのあいだに位置づけられる。症状、つまり抑圧されたシニフィアンの顕在的なシニフィアンへの隠喩的な干渉が欲望に由来するのであれば、欲望の位置をつきとめることがひつようである。

 「死んだ父の夢」において、欲求の主体は要求の連鎖(défilé)へと記入される。要求は単なる何ものかの要求ではなく、それが言語によってなされるという事実によって、<他者>の象徴化をともなう。<他者>とは愛を与える者であり、現前と不在によって定義される。<他者>が与えるものは与えることのできるすべてのものの彼方にある。<他者>はそれをみずからの現前のみによってあたえる。それは現前と不在の関係のいっさいであるところの無である。

 「死せる存在」は、死んでいるというかたちで存在のうちに保持される。この夢においては死せる存在(「欠けている存在」「主体的moins-value」)を不滅化する象徴的確認がなされていない。かれは死せる存在ではなく、知らない存在である。主体(息子)がかれ(父)を前にしているのはそのためだ。父が死んでいることを父に言ってはならないのだ。この禁止はあらゆるコミュニケーションの根源に宿っている。相手に伝えてよいこととよくないことがつねにあるのだ。ことは言説の抵抗にかかわっている。ここからこの夢がトロツキーの見た「ことのほか感動的な」夢(『亡命日記』)に送り返される。生命力の衰えを自覚したトロツキーは、夢のなかでレーニンに相手の死期を告げる。「死んだ父の夢」においては無知が他者に帰されていたが、主体自身の無知も存在する。主体は夢の意味(父の死を望んだこと)を知らないだけでなく、夢に感じている苦しみの意味も知らない。それは父の臨終に立ち会う苦しみであると同時に生存そのものの苦しみである。いっさいの欲望が生存ゆえに消失する際の苦しみである。主体はこの苦しみを引き受けるが、不条理なことに、この苦しみを、他者の無知によって、動機づけているのも主体じしんである。この無知は苦しみの理由ではない。この点でヒステリー発作における情動とは異なる。この苦しみを引き受けることによって、主体は無知となる。父の死と死の苦しみが主体じしんへの脅威であることについての無知である。主体は夢のイマージュによってこの脅威から逃れる。夢のイマージュは、主体が生存の終わりに直面するたびに口を開く深遠から主体を切り離し、欲望という安らぎをもたらす(apaiser)ものへと主体を結びつける。主体がみずからとたえがたい生存とのあいだに介入させるひつようのあるものは、ひとつの欲望である。どんな欲望でもよいのではなく、かれを長いこと支配していた欲望、いまでは克服されてしまったが、しばらく想像的に甦らせるひつようのある欲望である。父との競合関係の根底にある力関係においていまや主体が勝ちを収める。主体が勝つのは、父が知らないからだ。たいして主体は知っているのだ。これこそ、死の不安との対峙において開く裂け目に呑み込まれることを避けることのできる隘路である。主体にとって父の死は、死という絶対君主にたいする父という盾、媒介、代理の消滅をいみしていた。ここでふたたび幻想のシェマ(S barré ◇ a)が想起させられる。

 L図がふたたび提示され、a-a’が対象にたいする主体の関係を表すことが確認される。たいして 「S barré ◇a」は、想像的機能との主体の関係にたいする欲望の影響を示し、そこでは主体は不在である。欲望は人間にたいし、主体の省略(élision)という問いを提起する。

 要求する者としてパロールの次元に記入されることで、主体は献身性(oblativité)の対象に近づく。

 欲望として、つまり、話す存在としての人間の運命の充足において、主体はこの対象に近づき、袋小路にはまり込む。この対象にたどり着くことができるのは、主体じしんが、パロールの主体として、省略を被り、外傷の闇のなか、不安そのものの彼方へとおいやられる。さもなければ対象にとって代わり、ファルスというシニフィアンに従属することになる(去勢)。ファルスというフロイト的概念に反論することでジョーンズは袋小路に立ち至った。そこでジョーンズはファルスのイマージュに由来する抵抗という機能を強調することとなった。ファルスは他のあらゆる身体的イマージュの集合から差し引かれたイマージュであり、主体のシニフィアンである。

 呼びかけ(appel)と願い(vœu)のレベルを区別することでこれをより明確に説明できる。即自的な呼びかけ(「助けて!」「パンを!」)において、主体は欲求と同一である。しかし呼びかけは要求という quésitif なレベルで分節されるひつようがある。しかし祈願の(votif)レベルにある要素は、言語というフィルターに掬いあげられず、とうしょ欲求として表現されようとしていたものは抑圧を被る。quésitif なレベルで分節されるものは主体の経験に先立つコードたる<他者>のうちに残る。解釈において分析家は主体を要求そのものの構造に対峙させる。

 口唇期や肛門期において、要求は食物や糞便という取り外し可能な対象をめぐってなされるが、ファルスはシニフィアンであるかぎりでのみ取り外し可能である。欲望を完遂させるものは要求され得ないものである。神経症の本質は、欲望のレベルにあるものが要求として表明されることである。

ここでジョーンズによる性器的体制の記述が引かれる(男性性を実現できない患者は女性の性質を獲得する、云々)。インセスト的な体制とは要求の体制である。問題になっているのは欲望と要求いずれかの選択である。

 幻想が欲望の支えであることを示すべく「子供が叩かれる」が取り上げられる。この幻想の最初の定式は「父がわたしの憎む子供を叩く」。第二の定式においては「父が私を叩く」(原初的マゾヒズム)。マゾヒズム的幻想の本質は、物体として扱われること。第三の定式において主体の抹消(S barré)が実現する。神経症的主体はピカソのように「探さず、見出す」。幻想における主体の位置は不安定である。ここから夢の「内-主体的要素間の配分」がふたたび想起させられる。「死んだ父の夢」においてアクセントが置かれている情動は「苦しみ」である。どうように「子供が叩かれる」においては叩かれようとしている子供の幻想的イマージュに情動が照準を合わせている(この要素についてはのちに「不安の現象学」に即して再度論じられるであろうと予告される)。主体的不明確さの闇における不安と危険を前にしての主体の警告(設立=勃起)としての不安の区別については適切に認識されていない。

 『制止、症状、不安』においてフロイトはabwarten(subir)と erwarten(s’attendre à)を区別している。サディスム的幻想において情動は対象(a)に照準を合わせられる。くだんの幻想において主体はじぶんがどこに位置するのかを知るためにじぶんには欠けているなにものかの餌食になる。主体は折檻の道具の役割が典型的に示す二者の「あいだ」にいる。主体は「道具」と同一である。じっさい道具は、欲望の想像的な構造において本質的な人物として介入する。そこにおいて主体は廃棄され、その本質的存在において把握される。この本質的存在とは、スピノザが言うごとく欲望でる。

 セミネール『対象関係』において論じられた女性の男根期が参照される。そこでは母への憎悪とファルスへの欲望が問題になっている(ペニスナイド)。ファルスへの欲望とは、ファルスによって媒介された欲望である。ファルスと(a)が同一であるとは、想像的他者が、主体がもっている内なる欲動であることだ。根源的ないみでの<他者>への最初の同一化がかかわっている。ここで倒立した花束の図がふたたび召喚される。

 愛において男性は欲望の対象(ファルス)へと疎外されるが、エロス的活動においては、このファルスが女性を想像的対象に還元する。それゆえ男性における対象は二重性を帯びる。女性は男性において現実的ファルスを見出し、欲望を充足させる享楽の関係を得ようとする。しかし欲望の充足が現実的レベルでなされるとき、女性の愛(≠欲望)は欲望との遭遇の彼方にある存在に向けられる。ファルスのない男性である。話す存在として男性は去勢されている。