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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

コレクターとしての人間:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その4)

 

第五講(10/12/1958)

 

 否定(Verneinung)の Je ne dis pas は言わないと言いつつ言っていることにおいて「シニフィアンのもっとも根源的な特徴(propriété)」を体現している。フライデーの足跡はそれじたいでは痕跡にすぎず、それが消されるとき(十字が刻印されるとき)シニフィアンとなる。ピションは否定にかんして排除的(forclusif)と不調和的(discordanciel)を区別している。後者は ne 単独での用法に対応し(「虚辞」と言うべきではない)、それは言表行為と言表のはざまに位置する。言表行為のレベルでは否定はシニフィアンの分節そのものに向けられる(「私は私があなたの妻であると言わない」)。言表のレベルでは「私はあなたの妻ではない」となる。これはフランス語に特有の現象ではない。

 

 主体と<他者>の弁証法言表行為と言表弁証法に帰される。主体は思考が<他者>のディスクールであるがゆえにみずからの思考を<他者>がすべて知っていると想定するが、実は「何も知らない」ことを発見する。そして思考の「言われざるもの」(無意識)のうちにみずからの「存在」を見出す。哲学的伝統は主体を対象(客体)の影と捉えてきたが、精神分析は「語る主体」をそれに対置する。精神分析は対象との関係を欲望によって捉え直す。精神分析における対象は欲求の対象ではなくすぐれて欲望の対象である。「対象は主体がみずからの実存に対峙する際の支えになるものである」。この実存とは「もっとも根源的ないみでの実存」つまり言語のなかに実存しているということだ。つまり対象は主体の外部に在り、主体が対象をつかまえられるのは、主体がシニフィアンの背後に消失するときだけである。この「パニックの地点」において主体は欲望の対象としての対象にしがみつく。それは端的に「宝石箱を盗まれたときに守銭奴が失うもの」(ヴェイユ重力と恩寵』)である。あるいはより「高貴な」例を挙げるとすれば、蒐集家のコレクションである。ルノワールの『ゲームの規則』におけるオルゴール蒐集家が最新のコレクションを披露する際の「恥じらい」。対象にたいする主体の「情熱」において見出される「揺らぎの地点」。それは「欲望の対象」がまとうひとつのかたちである。「かれが見せるのはかれじしんのもっとも親密な核心であろうか。否。というのはこの欲望によって支えられているものは主体がじぶんじしんにたいして明かすことのできないものだから。それはもっとも大きな秘密というべきものである」。主体はみずからの願いを「秘密」として言い表す。

 ここで、接続法ではなく不定法を用いた願望の表現としてリーズ・ドゥアルムの詩(「密かな願い」)が引用される。Etre une belle fille / blonde et populaire / qui mette de la joie dans l’air…ここでは願望の主語(主体)が完全に省略されているわけではない。ここで願望は主体の前に(devant)表現(分節)され、遡及的に主体を定義する。ここで表現(分節)されているのは単なる願望ではなく、あるしゅの「存在」のなかで遡及的に主体を定義するものとして主体の前に位置するなにものかである。これはまったく en l’air な状態にある。願望されたものが表現されるのはすべからくこのようにしてである。ここで、『夢解釈』の結びの一節が引用される「破壊できない欲望が現在[原語はZukunft]を過去に似せてかたどる」。ここには反復や事後性といったこと以上のなにかがかかわっている。ロバの鼻先につり下げられた人参のようにそれは永久に主体の「前に」ある。

 「密かな願い」は願望を詩によって表現しているが、そもそも隠されたものをいかに他人に伝達し得るのか。なんらかの嘘によってである。詩では「わたしがブロンドで人気者の女の子であるという嘘と同じくらい本当」というかたちで願望が表現されている。「くうきのなかによろこびをおく」ことは換喩的な幻想の対象である。

 

 グラフにおいて欲望は、シニフィアンの連鎖において疎外される主体と、言われざるものの次元が導入される彼岸とのはざまに位置する。「死んでいる父の夢」における「彼は知らない」「彼は死んでいる」がそれぞれグラフの下段、上段に位置づけられる。みずからの正体を知らない主体は「彼は知らない」という意味不明な(inutile)言表のうちにみずからを位置づける。この言表は上段の「彼は死んでいた」によって支えられている。「彼は死んでいた」は話さない存在にとっては意味をもたない。動物は同類の遺骸に無関心である(犬には超自我はあるが無意識はない)。「彼は死んでいる」はすでに実存の秩序に導入されている主体を前提している。つまりシニフィアンの連鎖に組み入れられているかぎりで破壊不可能な主体を……。

 夢の「四つの要素」が二人の登場人物(主体、父)に振り分けられる。主体の側において「彼は死んでいた」は苦痛の対象である。父の側において「彼は死んでいた」は「彼は知らなかった」の内容である。「かれの望みによって」がこれに加わる。フロイトによれば夢の意味は「かれの望みによって」のなかにある。「彼は彼の望みによって死んでいた」が『コロノスのオイディプス』における「むしろ生まれなかったほうが」へ送り返される。

 オイディプスが「むしろ生まれなかったほうが」と言うのは欲望そのものへの罰としてである。夢見の主体の「苦しみ」は「実存の苦しみ」である。この苦しみを主体は知っていた。父がこの苦しみを知っていたかどうかはわからないが、息子がその苦しみを継承する。夢ではこの苦しみがシニカルで不条理に表現されている。『夢解釈』に言われるごとく「不条理な夢」はときとしてことのほか激しい「苦しみ」の表現である。

 主体は父が死んでほしいという願いがかつて父にではなくじぶんじしんに向けられた願いであったことを理解している。とはいえ、父の苦しみをじぶんがそれと知らずに引き受けていることは理解していない。「彼は知らなかった」というかたちで主体が父という対象の人格に帰している無知を、主体はじぶんが「生まれないほうがよかった」ことを知らずにいるために必要とする。実存の果てにあるのが実存の苦しみでしかないのであれば、他人の実存の苦しみとしてそれを引き受けたい。この願いのもっとも秘められた内容である最終的な謎を知るよりは……。この密かな内容とは父の去勢である。この究極的な願いは、父の死によってみずからに跳ね返ってくる。みずからの去勢にはなんとしても目を塞がなければならない。父を去勢する欲望は、欲望の構造のもっとも基底にある“シニフィアンによる去勢”という必然を隠蔽することに役立っている。この必然を表すのは「彼の望み」ではなく「によって」のほうの本質的な機能である。抑圧とは主体が無知という救いのうちに消失することである。抑圧の原動力は完全なかたちで現れるものでも完全なかたちで理解されるものではなく、「によって」という一個の純然たるシニフィアンの省略である。この「によって」が言表行為と言表の関係(一致ないし不一致)を規定する。かくして単独では意味作用をなさない「彼は知らなかった」のいみが夢の欲望において明らかにされる。

 

 次回はガリバルディの恰好をした父に会った夢における「フロイトの欲望」が明らかにされるだろう。「死んでいる父の夢」は死への主体の対峙を表す典型的な夢である。夢における死の出現は主体が死ぬ代わりに苦しんでいることをいみしている。この苦しみの背後に父殺しへの想像的固着(幻想)という罠が潜む(S barré ◇ a)。

 この公式の意味するところは以下のとおり。シニフィアンの行為によって抹消された(斜線を引かれた)主体は、他者(l’autre)の中にその支えを見出す。この他者は語る主体にとって対象そのものとなる。この他者は人間のエロスを支配する対象である。この他者はみずからの身体のイマージュである。ひとつの影にすぎないこの幻想のなかに人間の実存は支えを見出し、語る主体でありつづけることを可能にするヴェールを維持する。