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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

タンタン・マニアとしてのラカン:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その3)

 

第4講(03/12/1958)

 

 快と欲望の区別についてのグラノフの発表を踏まえて快の定義が確認される。一次過程においては欲望が「細分化」されている。幻覚(局所論的退行)とは<興奮→運動>という回路(反射弓)が塞がれたとき、行き場を失った興奮が幻覚的表象に満足を見出すこと。幻覚をホメオスタシス的な電気回路(電流による「点灯」)としてイメージしたことはフロイトの独創である。フロイトは表象を「タイポロジー的空間」における刻印の連続として定義している(「シニフィアントポロジー」)。二次過程は動物における本能に対応するが、満足をもたらす対象はあってもそこへ至る道筋はあたえられていない。一次過程において召喚されたシニフィアンの「批判」は批判の対象となるものを除去せず、それじたいシニフィアン的次元にある現実指標によって複雑化する。表象は一挙に欲求を満足させるものではなく、スロットマシンのように正しい穴に球が入ると電球が点灯するのだが、正しい穴とは以前に球が入った穴のことである(一次過程において求められるのは新しい対象ではなく、再発見すべき対象である)。一次過程の目的が電球を点灯させることであるのにたいし、二次過程の目的は電球の点灯によってあらかじめマシーン内にストックされていたコイン(つまり現実)をじっさいに出すことである。

 

 『夢解釈』「願望成就としての夢」の章におけるアンナの夢(「アンナ・フオイト、苺、野苺……」)にフロイトは「裸形の欲望」を見てとっているが、この文における一連の命名はシニフィアン連鎖であり、それゆえ欲求(besoin)の対象をちょくせつ指し示すものではない。出だしの「アンナ・フオイト」はいわば電話における名乗りである。アンナの夢はグラフの上段、下段のいずれに位置しているのか。グラフの下段は連続的であり、普遍的ディスクール、要求(demande)をあらわす。これは完結した文(holophrase)に対応する。その典型は間投詞である。とはいえ「パンを!」という要求はその主体に送り返される。これがグラフの上段に対応する。この主体(言表行為の主体)はみずから名乗る(s’annoncer)ことなく、文がおのずから主体の名を告げる。対してランガージュ(言表)において人間主体はみずからをそのうちに算入する(se compter)。ビネが引く「ぼくには三人の兄弟がいる。ポールとエルネストとぼくだ」という文は言表の主体と言表行為の主体の混同を表している。幼児の発達におけるこの区別の獲得は、ピアジェの言う人称代名詞の使い分けについての諸段階よりも重要である。

 アンナは禁じられている(inter-dit)ものを言葉にすることで満足を得ている。抑圧の関与している大人の夢においては事態はより複雑である。「国王がばかだという人は誰であれ斬首される」という無意識的な検閲が斬首される懲罰夢を見させるというセミネール第2巻の例が想起させられる。ついでにタンタン・マニアぶりを発揮しつつ、検閲をかいくぐる別の仕方として「タピオカ将軍はアルカザール将軍ほどの人物ではないと言う者は誰であれ私が許さない」という文言が提示される。これはいずれの将軍の支持者をも満足させず、両将軍の支持者をそれ以上に満足させない(タピオカを擁護しているように読めるけれども、実際に「タピオカはアルカザールほどの人物ではない」と言っているからだろう)。アンナは「だめと言われている」シニフィアンが実際には言われ得るものであることを知っていた。「欲望の真理はそれだけで法の権威にたいする攻撃である」。「言われざること(non-dit)が言われざるままであるためにはそれを言表行為のレベルで言わなければならない」。言うことができるから言わずにおくこともできるということであろう。文法は接続法や「虚辞」によって言表行為と言表のレベルを分節している。子供はこの二つのレベルの区別を知らないので大人は何でも知っており、じぶんの考えも見透かされていると思っているが、やがてそうではないと知る。ここで話題は「死んでいる父の夢」(「父は知らなかった……」)とクロスする。知と死の関係という観点からこの夢が解釈されることが予告される。