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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

主知主義的精神分析宣言:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その2)

 

 第2講(19/11/1958)

 

 「抑圧されたもの」「欲望」「無意識」――この三者の区別が問われ、グラフ上に位置づけられねばならない。グラフの上階と下階との関係は建築学的(architectonique)なモデルに則ってはいない。グラフはディスクールなので、すべてを一度に言うことはできない。ディスクールはすべからく<他者>のディスクールであり、それゆえ上階と下階の区別は恣意的であり、両者は相似的である。グラフの目的は「語る主体」とシニフィアンの諸関係を見せることである。言表行為(「パロールの行為」)の主体もしくは語る主体もしくは「真の主体」がグラフの上段に、言表の主体もしくは「語られた主体」もしくは shifter としての je がグラフの下段にそれぞれ位置づけられる。デカルト的「われ思う」(「自我の超越」のサルトルが援用される)、命令法における主体、”Tu es celui qui me suivras.” における je は shifter としての je ではない。フロイトによれば、主体は語りつつみずからの為していることを知らない。グラフ上段の Che vuoi? は「主体の話す行為にたいする<他者>の答え」であり、それは問いいぜんにあたえられている答えである。主体はこの答えを手にいれることができない。これは去勢に関わり、したがって分析の終了に関わる。

 

 『夢解釈』における Wunsch とは欲望そのものではない。Wunsch とは「言語化された欲望」「分節された欲望」である。性的欲望は Wunsch の逸脱した形態である。『夢解釈』第7版以後、フロイトは欲望は性的欲望に帰されないと明言している。

 「私はあなたを欲望する(Je vous désire.)」は「汝の意志が果たされんことを(Que votre volonté soit faite! )」の逆であろうか。否。「わたしはあなたを欲望する」と言うとき、欲望の対象とみなされている「あなた」は主体の「さまざまな欲望の共通項」にすぎない。この文は「あなたは美しい」と述べているにひとしく、相手の美が醸し出す曖昧な神秘に欲望が帰されているのであり、「わたしはあなたをわたしの根源的なファンタスムのなかに関与させる」と言い換えることができる。そのかぎりで欲望はファンタスムの構造に規定されている。

 フロイトは「無意識」を「抑圧されたもの」に帰している(メタ心理学論文)。そして抑圧されるものはもっぱらシニフィアン的要素である。第二局所論に欠けているのは「ランガージュの根本的に隠喩的な機能」である。

 

 

 

 第3講(26/11/1958)

 

 夢の基底であるかぎりでの欲望が定義されねばならない。夢における欲望はまず眠りつづける欲望、現実をシャットアウトする欲望としてあり、また死の欲望としてある(両者は両立可能)。Wunsch の主体は死の欲望において充足を得る。何にたいする充足なのか? 充足されていることにたいする充足である(il se satisfait de l’être.)。Wunsch の充足は言語的充足である。上の文における être の実体は être という語以外のなにものでもない。

 

 現代心理学における原子論にたいし、イギリス起源の観念連合理論(associationnisme)が擁護される。観念連合理論はもともと現実界シニフィアンの連鎖によって断片化され、構造化されている場ととらえていたが、新心理学はこの現実界を適応すべき環境(Umwelt)と誤解した。観念連合理論は主体の精神において諸観念の連鎖をみてとる。その諸観念は近接性つまり換喩のメカニズムにしたがう。精神分析と心理学のベクトルはけして逆向きではない。

 

 フロイト「無意識」論文において Triebregung と区別されるかぎりでの Vorstellungsrepräsentanz の概念がシニフィアンのそれに帰される。これが無意識の実体であり、「無意識の主体」を規定する。無意識は情動に帰し得ない(ラカンは「主知主義精神分析」を以て任じる)。グローヴァーの唾棄すべき論文は多くの論者と異なり情動を前景化させていない点で正しい。無意識のうちに実体としての情動はない。情動は欲動という量的観念に還元されている。「無意識」論文のいくつかのくだりが引用され、このことが確認される。

 

 「精神現象についての二原則」における「死んでいる父の夢」がとりあげられる。無意識的欲望が明確に示されているこの夢においてフロイト的な表象代表の概念が理解され得る。一次過程における欲望の充足(幻覚)はイマージュでも知覚でもなくシニフィアンに関わる。夢は wishful thinking ではない。くだんの夢が呼び起こす「苦痛」はそのような観念にふさわしくない。この夢においてはあるしゅのシニフィアンがその欠如によって生み出されるものであることが示されている(抑圧とはシニフィアンの減法である)。そのシニフィアンを補うことによって「夢の知性 Verständnis」(フロイト)を復元(解釈)できる。省略されている「彼が望んだとおり」というフレーズは、それじたいでは意味を欠いた空のフォルム(表象代表)であり、後続する文に依存する。つまり抑圧されるのはシニフィアンであり、イマージュでも対象でもない(マールブルク派の「イメージなき思考」への脱線のあと、ブレンターノの表象概念の影響がほのめかされる)。抑圧(フレーズの欠損)は新たな意味をうみだす(「意味の効果」「シニフィエの効果」)。欠如した項を空白、零(「零は無ではない」)で「置き換える」ことであるかぎりでこの省略は「隠喩的」効果をもつ。「夢はひとつの隠喩である」。

 

 「死んでいる父の夢」については本講義ではとりあえずこのことだけが確認され、つづきは次回以降にもちこされる。以下、今後の課題と『ハムレット』読解の序曲めいた妄言。

 

 夢の隠喩においてうみだされる新たな意味はそれじたい謎めいたものである。この夢における死者という「存在」は降霊術師の呼び出す「影」にもひとしい。「影」の話す言葉の真理は降霊術師にも口にできない……。

 

 ところで、くだんの夢における父との出会いというシナリオはファンタスムであろうか? 夢のファンタスムは白日夢におけるそれとは別物である。

 

 「彼は死んでいる」「彼は知らない」「かれの望みどおり」という三つのシニフィアンを主体の連鎖とシニフィアンの連鎖の経路の上に(「トポロジー的」に)位置づけねばならない。これらは抑圧されているが、夢のレベルではそうではない。

 

 この夢における無知と精神病における méconnaissance(「それについて何も知りたくない」) との関係は?そして日常生活においてもわれわれは半死半生の存在(demi-mort)と共存している……。