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バルセロナにおける十の提言:「真の精神分析と偽の精神分析」

*「真の精神分析、そして偽の精神分析」(La psychanalyse vraie, et la fausse, in Autres écrits, Seuil, 2001 )

 

 1958年9月、バルセロナで行われた第四回国際精神療法会議における発表の要旨。『続エクリ』所収。向井雅明氏による試訳がある。

 「真の(vrai)精神分析を偽ものから区別するために真正な(authentique)精神分析という観念、および精神分析の経験において明らかにされた真理(vérité)に適う精神分析という観念を参照しよう」。「真の精神分析パロールにたいする人間の関係にその基盤(fondement)をもつ」。

 「主体の生物学的実体(substrat)」は分析においてその基底(fonds)にいたるまで関与しているが、このことは「多元的決定」によって説明可能。ここでは「多元的決定」という術語が『ヒステリー研究』において使用された[相補系列といった]いみあいで使われているが、後続のくだりではシニフィアンの多義性をあらわすために使用されている。まぎらわしい。

 一方で「文化主義」的立場も退けられる。フロイトの発見した秩序は社会的なものにも還元できない。圧縮と移動は、「生物のなかの、言語のためにある器官の生理学的はたらきそのものから不可分でさえある構造のなかにシニフィアン固有の作用を摂取」する。聴衆の精神療法家たちを意識した慎重な言葉遣い。

 「一般心理主義」には「人間中心主義」の残滓を捨て去っていない。これは「魂」の自律性という「霊的動物主義」(zoologisme spirituel)への後退である。フロイトは構造言語学を予言し、「発信にたいする受信の先行性」という現代情報理論の盲点を指摘した。重要なのは認識の主体ではなくパロールの主体、すなわち「ディスクールのなかでメッセージの発信者としてのみずからの場所を示す主体」である。フロイトの第二局所論はディスクールの抵抗と主体の抵抗との混同への解決策として提示されたが、自我の導入が混乱を増強するはめに。

 情熱(愛、憎悪、無知)とは「対象をもたない要求」である。ロゴスとファロスの関係。暗示と転移の区別(「欲望が実存的問いにおけるシニフィアンとして分節化されるべきなのは、無意識に由来する暗示の効果がみずからの幻影を追い払うのと同時である。この実存的問いが転移の領域である」?)。

 主体が<他者>の場に位置することが Wo Es war, soll Ich werden. のいみであるとされ、さらにこの倫理的命題が「汝の隣人を汝じしんのように愛せ」および「梵我一如」(Tât twam asi )に送付される。この「奇妙な」命題のいみするところが「汝じしんは汝が知らないがゆえに憎むこれである」であると解釈される……。

 欲望の倒錯性が指摘され、十八世紀における欲望の裸形化(dénudation)(「カントとサド」)を推進した啓蒙主義者の自然主義が現実適応を説くメインストリームの分析家の立場に帰される。啓蒙主義者は教会を批判したが、国際精神分析協会はひとつの教会となっている(フロイトによるナチズムの予言)。実践としては「外面的な非理性の深部に潜む理性に入り込むこと」が「~の精神分析」であると万人に認知されているのにもかかわらず、科学としては村八分(quarantaine)にされている精神分析の矛盾は精神分析家そのひとに原因がある……。