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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

美人局と密輸品:「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」

*「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」(La direction de la cure et les principes de son  pouvoir, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 これまでのラカンの治療論の概要を提示した論文と位置づけられる。「治療の方向づけ(direction)」という言い回しそのものはセミネール『無意識の形成物』の終盤にたびたび登場している。セミネール終了から一週間後にロワイヨーモンで行われたコロックでの発表がもとになっているが、論文のかたちで公にされたのは1961年。ブルース・フィンクは同年開講のセミネール『転移』との並行性を指摘している。

 

 自我心理学(発生論)、対象関係論(目的論)、フェレンツィ&Co.(分析的状況の双数性)がまとめて批判の対象になる。逆転移が鏡の比喩に帰され、転移の解釈、分析家への同一化(分析家を「現実」=規範とする立場)が退けられる(同一化とはシニフィアンへのそれである)。エルンスト・クリスが分析している剽窃衝動の患者(症例の発表者マーガレット・リトル本人)、長身コンプレックスの露出症患者、「肉屋の女房」(「われらが霊的なる spirituel ヒステリー者」)といった、これまでにとりあげられた症例が回顧されるのにくわえて、ラカン自身による強迫神経症の症例が紹介される。

 剽窃衝動について、クリスは幼児期の窃盗の反復というじゅうらいの解釈をしりぞけ、剽窃が事実でないことをつきとめたうえで衝動は欲動への防衛であるとしている。ラカンによれば、患者は何も盗んでいないのではなく、「無」を盗んでいるのであり、この着眼においてクリスは拒食症(無を食する)の認識を先駆けている。「肉屋の女房」(ファルス=魚)に即して夢は欲望の隠喩であり、キャビアへの欲望が「存在欠如の換喩」であることが確認され、分析家たちが欲望を要求に還元していることが批判される(分析家は患者の要求に応えてはならない。たとえ治療への要求であっても。分析家は要求を受けとめ、これを欲求不満の状態に置く。愛というもっていないものさえ分析家はあたえない。この無は分析家にたいして支払われねばならない。それもなるべく高値で)。

 ラカン強迫神経症患者(愛人に他の男と寝ることを要求する性的不能者)のケースにおいて、愛人の夢(夢のなかでかのじょはファルスをそなえている)は患者の要求ではなくその彼方にある欲望に応えている。愛人が患者に[分析家にたいするように]夢を語るということが重要だ(「欲望を文字どおりに à la lettre とらなければならない」、つまり欲望は言語的に分節されている)。ブルース・フィンクによれば、欲望とは<他者>の欲望ゆえ、愛人の夢における欲望は患者の欲望と同じである。ラカンは言う。夢の中でファルスをもっていることが愛人に性的魅力をあたえるのではない。患者の欲望はファルスをもつことではなく、ファルスであることだから。愛人の欲望は、じぶんがもっていないものを患者に見せることで患者の欲望に一歩を譲る[ファルスを譲る](le céder)。愛人は夢の中でファルスをもっていても依然としてファルスを欲望している。このことが患者の存在欠如を照らし出す。欲望の困難?否、むしろ「欲望というものが困難そのものに由来している」。夢の中で愛人がファルスをもっているので患者はファルスをとりあげられる心配がないとするのは的外れな見方である(そのことは完全に保障されているので何の保障にもならない)。強迫症者の欲望の条件はその対象が密輸品(contrebande。フィンクによれば bander にひっかけてある)であることだ。密輸とは「その本性(nature)の否認によってしか思い描かれることのない特異な恩恵の様態」である。つねに面会待ちの状態であり、それにあずかるのはその恩恵を厄介払いすることによってでしかない。

 

 分析においては分析家もまた支払いをする。言葉(mots)[解釈]によって。その人格(personne)によって。そしてなによりもその「存在」によって。つまり「最深部の判断におけるもっとも本質的なもの」としての(Kern unseres Wesens)。「分析家が介入すべきなのは(prendre son niveau opératoire)存在への関係においてである」。「分析家の存在」についての問いはフェレンツィに遡る。フェレンツィが取り込みの対象とみなした分析家のひとがら(personne)とは、幻想としての人格ではなく、分析家の「現前」ぜんたいをカバーしている。分析家の存在への同一化(「存在への情熱」)は存在欠如を隠蔽し、「存在の不幸」を招く。もっとも、精神分析によって患者に幸福をもたらそうと考えることはそれじたい間違ってはいない。現代は幸福の定義そのものがむずかしい時代だから。

 「抵抗とは分析家の抵抗である」ことが想起させられ、分析家の情熱(愛、憎悪、無知)が語られ、「分析家の欲望」概念が提示され、さらに欲望の「倫理」の必要性が説かれる(これは、欲望の不合理性が現実界の特性に送付されているくだりどうよう『倫理』のセミネールを経て加筆された部分だろう)。

 分析家たちはアクティング・アウトをネガティブにとらえ、「羞恥」の対象としているが、ラカンは幻想と連続的にとらえている(いずれも演技、演出に関わる)。『無意識の形成物』でも確認されたごとく、幻想は想像的な囚われのランガージュによる演出であり主体化であって、それゆえ幻想を想像力に帰すクライン的な観点は退けられる。言語的構築物であることについては症状についてもおなじである。フロイトは症状が重層決定されているとくりかえし述べているが、「重層決定とはランガージュの構造においてしか想定されない」のであってみれば、これはあるいみで同語反復であるといことになろう。

 本論文を締め括る語は”Rien”である。フロイトはその死(『終わりなき分析』)に際して「存在」の場にこの「無」を置いた。

 主体がロゴス(Logos)によって分節される分裂(Spaltung)に際しては、生が支払う血まみれの肉片がシニフィアンのなかのシニフィアンとなる。