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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

シミュラクルもしくは魚としてのファルス:「ファルスの意味作用」

*「ファルスの意味作用」(La signification du phallus / Die Bedeutung des Phallus, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 ミュンヘンのマックス・プランク研究所においてドイツ語で行われた講演を「変更を加えずに」筆記したものとされるが、ラカンのこういう但し書きはたいしてあてにならない。原稿を読み上げるかたちで講演したのだとしてもかならずあとで手を入れているのではないか。たとえばあくまで一例だが、688頁最終段落で調子がきゅうに書き言葉ふうに変わっているような気がする。あやしい。

 

 冒頭、去勢複合が nœud の機能(函数)によって定義される。

 第一に、「症状」として分析可能な「結び目」であるといういみにおいて(『無意識の形成物』で述べられていたように症状とは分析可能なものすべてをいみする。ラカンは症状という観念を神経症に限定せず、倒錯と精神病にも拡大している)。すこしあとのくだりでは、症状の構造の分析にはトポロジーが不可欠であるとされている。

 第二に、性の引き受けにおける「節目」であるといういみにおいて。

 

 ファルスの現れの四つの局面が整理される。(1)女児が奪われているものとして(2)母に具わっているものとして(3)母が奪われているものとして(4)クリトリスとして(男根期)。

 ついでに男根期を特殊事例に格下げし、ファルスの優位を否定するジョーンズらが批判される。とはいえジョーンズのアファニシス概念は、去勢と欲望の関係を問うていることにおいて意義がある。

 

 フロイトの発見の意義がシニフィアンの優位にあることが確認される。

 意味しうるもの(signifiable)は、シニフィアンの能動的な(actif)機能によって印(marque)を刻印され、この受難=受動(passion)によってシニフィエとなる。この「シニフィアンによる受難」が「人間の条件の新たな次元」(「人間のなかで ça が語る」という次元)を特徴づける。 

 

 そのうえでファルスがシニフィアンとして定義される。ファルス(La phallus)は機能である。ファルス(le phallus)は幻想でも現実的対象(クライン)でも器官でもなく、ルクレティウス的なシミュラクルである。690頁あたまの la については諸説あるようだ(ジェーン・ギャロップ『ラカンを読む』)。

 

 「分析の主体内のエコノミーにおいてファルスの機能は神秘劇(les mystères)においてかぶっていたヴェールをとる。というのはファルスはシニフィエの諸効果全体を指し示すためのシニフィアンであるから」(Ecrits, p. 690)。

 

 じつにわかりにくい。ヴェール(voile)は本論文のキーワードであり、このくだりでとつぜんでてくる。もっと先のくだりでは(692頁)、「ファルスはヴェールをかぶった状態においてしか機能しない」と言われているからややこしい。後者のくだりはファルスをレエルな男根のイマジネールな形態によって理解しようとする見方への警告であるが、とりあえずファルスはその「機能」に還元されていること、また去勢複合のなかでその現前によってではなく欠如において問題になる何かであることを確認しておこう。

 

 また、ラカンシニフィアンについてしか語らないという印象があるが、本論文および『無意識の形成物』ではけっこうシニフィエという言葉がでてくる。「シニフィアンの効果」ならまだしも「シニフィエの効果」というのははて如何に?

 とおもったら、案の定これより五日後のセミネールにつぎのようなくだりがみつかる。「ファルスはとくしゅなシニフィアンであり、それはシニフィアンの塊(corps)において、シニフィエにたいするシニフィアンの諸効果それじたいを全体として指し示すことに特化している(spécialisé)」。これならわかる。たとえ言い間違いでないとしても、とんでもなく圧縮された表現と言わざるを得ない。

 

  とりあえず、ファルスが“ヴェールをかぶっている”とは、欲求が要求によって歪められることに関係しているらしい。この事態が「原抑圧」と同一視されている。そしてそのあとに「蘖」(rejeton)として残るのが欲望(Begehren)である。「蘖」の原語はフロイト読者にはおなじみの Abkömmling であろうか。また désir に相当する語として Wunsch ではなく Begehren が使われているのはドイツ語話者の受講者からの示唆によるようだ(『無意識の形成物』参照)。

 かくして「純粋な喪失の権能」たる欲望は、要求の「無条件性(inconditionné)」を「『絶対的』条件」に変える。

 

 <他者>としての主体は「欲望の原因」の場を占める(tenir lieu=代理する)。「ジッドの青春」につづいて、ここにも対象(a)の観念の萌芽がみてとれる。

 

 「ファルスは[シニフィアンにたいする主体の関係が刻み込む]痕 marque の特権的なシニフィアンであり、そこにおいて理性(logos)の取り分(part)が欲望の到来と結びつく」。

 

 「ロゴス」は幕切れの一節にも登場する。「[フロイトは深遠な直観にしたがってリビドーにはひとつしかなく、それは男性的なリビドーであると述べたが、]ファルス的シニフィアンの機能[函数]はここでそのもっとも深遠な関係へと至りつく。古代人がそれによって Noυs と Λoγos を受肉化していた関係である」。

 シニフィアンとしてのファルスはまた「欲望の raison(比率)」をあたえるものであるとも定義されている。ラカンハイデガーに倣ってΛoγos をシニフィアンと理解していることはすでに確認した。Noυs はここでΛoγos と同一物と理解してよいのであろうか。

 

  「ファルスがその役割を果たすのはもっぱらヴェールをかぶってのことである」なるくだりを先に引いた。そのつづきはこうである。「つまり、どんな意味可能なもの signifiable もこうむっている潜在性のしるし signe そのものとして。ファルスがシニフィアンの機能へと高められる(aufgehoben)ときからそうなるのだ。ファルスはその消失によって切り開くことになる(inaugurer, 括弧して initier とも添えてある)Aufhebung そのもののシニフィアンなのだ」。

 

 つづけてこうある。「それゆえに古代の神秘劇(mystère)でファルスがヴェールをとられるまさにそのときに Aιδωs(羞恥) のダイモンが現れるのだ(cf. ポンペイの Villa の名画)」。つまり間一髪ファルスはヴェールをとらずにすむ。

 

 ファルスは「ある」と「もつ」の弁証法によって規定される。母親のファルスで「ある」ことで母親の欲望を満たそうとする。現実的なファルスを「もつ」に至っていないので、もっていないものをあたえようとする、云々。

 ここまではよいとして、「性関係」の「構造」においては、「ある」がファルスというシニフィアンにおいて主体に「現実」をもたらすのにたいし、「もつ」は relations à signifier を「非現実化」するという。これは「みせかけ paraître」が「もつ」にとって代わり、[男性において?]ファルスを保護すると同時に[女性において?]ファルスの欠如を隠すことに寄与するからであるらしい。これが男女両性における挙措の理想的・類型的発現を促す効果を生む。それは「喜劇」において確認される。この理想において欲望が愛にとって代わられている。

 『無意識の形成物』において愛は「新喜劇」(『女房学校』がその頂点)の領分であるとされていた。女性の仮装(mascarade)は、ファルスになることで女性性を放棄していることを隠すことにやくだっているのだろうか(『無意識の形成物』で扱われたジョアン・リヴィエール論文によればそうとれる)。このあと、フロイト「愛情生活のもっとも一般的な蔑視について」をふまえつつ、フェティッシュ、不感症、不能、同性愛といったトピックへの言及があり、男性は不実を本性とし、女性はみせかけを本性とするといったことが暗示される。

 

 ブルース・フィンクによる英訳書に、ラカンはよくファルスを魚に譬えるとの訳注あり(“Le poisson ne se laisse pas noyer...”)。