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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

享楽の最初の一グラム:『無意識の形成物』第XIV講

 

 というわけで、セミネールは享楽と欲望の関係という問題の提起によって再開される(1958年3月5日)。

 クライン派ジョアン・リヴィエールの「仮装としてのフェミニティ」が俎上に載せられる。幻想における両親にたいする優位(父を去勢しそのペニスを奪ったこと)への[男性による]復讐をかわすために女性性(ペニスをもっていないこと)をひけらかす――みずからを性的に提供する――女性たちがいるとする興味深い論文。

 このケースにおいて、享楽は幻想における両親への優位にある。主体はこの享楽を承認させるべく<他者>へと訴え出る(procès)。これによって「存在はじぶんじしんの実存から引き裂かれる(se diviser)。人間主体の運命(sort)はじぶんの存在記号(signe d’être)との関係に由来している。この記号はあらゆるしゅるいの情念の対象であり、この訴訟において死を現前化させる。この記号との関係において、主体はじぶんじしんから引き離され、じぶんじしんの実存とのあいだに、創造行為において、みたところ唯一無二の関係をもつことができるようになる」。享楽(「存在」)をシニフィアンの篩にとおした結果できあがるのが欲望(「じぶんじしんの実存」)というふうに解釈すればよいのであろうか。つづきを引く。「この関係はマゾヒスムの最終的な形態である。マゾヒスムによって主体は実存することの苦痛を理解する(appréhender)」。享楽についての問いはとりあえずここでマゾヒスムという概念に至りつく(「カントとサド」への序曲)。

 このあと前号でとりあげたジッドのケースがコメントされ(グリブーユへの同一化に「実存の苦痛」のあらわれがみてとられる)、ジッドの「喜劇」が、刊行されたばかりのジャン・ジュネ『バルコン』の分析へと繋げられる。

 まず「悲劇の本質」が定義される。「古代ギリシャにおいて、悲劇はパロールにたいする人間の関係を表していた。この関係が人間を宿命のうちにとらえる。この宿命は人間をシニフィアンの法に結びつけている連鎖が、家族の水準と共同体の水準とで異なるために葛藤を生じさせる」。喜劇においては「主体のパロールにたいする関係」が別のあらわれ方をする。喜劇は悲劇という「聖体拝領」(その栄養 substance)のおこぼれにあずかる(jouir)。喜劇は「陪餐のあとの出し物」である(じっさい、喜劇はながらく悲劇のいっしゅの口直しとして演じられてきた)。つまり喜劇は悲劇[の残り物]を“享楽する”。喜劇は「主体の主体じしんのシニフィエへの関係を表に出す(manifester)」。主体のシニフィエとはつまりファルスである。

 『バルコン』を「喜劇の傑作群のきわめて特異で常軌を逸した(extraordinaire)再生」たらしめているのは、とりあえず舞台上にころがる革命の闘士の去勢された男根というかたちで現前するファルスである。『バルコン』においては、人間主体を疎外する象徴的な諸機能(教会、司法、軍事、警察)が「突如として喜劇の法[則]に身を委ねる」。問われているのは、こうした機能の「恩恵にあずかる=享楽する」(jouir)ことのいみである。かくしてジュネは司祭と裁判官と将軍と警視総監をすぐれて享楽の場たる娼館に集わせる。娼館の外では革命の嵐が渦巻いている。この騒乱(bordel)のさなかにあっては逆説的に娼館(bordel)のなかでだけ秩序が保たれている。また革命という状況は、治安維持を機能とする警視総監に権力を集中させる。笑いは、欲望の人であるロジェが享楽の人である警視総監の権力を(コスプレによって)奪取し損ねることから生まれる。ロジェは警視総監の「象徴」つまり機能と、警視総監の「制服」つまりとりはずし可能な「イメージ」とをとりちがえた。ようするに「シニフィアン」と「ファルス」をとりちがえた。

 時間が押していたこともあり、ラカンのコメントは圧縮的でわかりづらいが、一応このように要約しておく。ラカンの自負するごとく「欲望と享楽という重大な問題の手がかり」になりましたでしょうか?

 

 前々号で引いた<他なるもの>(Autre Chose)についての“妄想的”なくだりはどうやら『バルコン』の読書中に生まれたものらしい。