lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

トポロジー宣言:「精神病のあらゆる可能な治療にとって前提となるひとつの問いについて」

*「精神病のあらゆる可能な治療にとって前提となるひとつの問いについて」(D'une question préliminaire à tout traitement possible de la psychose, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 前回とりあげたのは『無意識の形成物』の1957年12月までの講義である。クリスマス休暇中にラカンは二年前のセミネール『精神病』を回顧する内容の論文を執筆し、SFPの機関誌「精神分析」に掲載した。

 精神分析の精神病への応用が旧態依然(in statu quo ante)にとどまっているという一文からはじまる本論文においては、精神病の分析的治療が「転移の操作」にあるととりあえず前提されている。「人間の存在は狂気なしには理解され得ないだけではなく、みずからの自由の限界として狂気をそのうちに抱えていなければそれはもはや人間の存在ではない」という「心的因果性について」の一節が引かれ、精神病においては転移もエディプス複合も関与していないとする観点にラカンが与しないことが確認される。タイトルが告げるように本論文で扱われるのは精神病の治療そのものではなく、その前提となるひとつの問題、すなわち<父の名>という問題である。

 小笠原晋也氏によれば、『精神病』における「<他者>の排除」が本論文において「<父の名>の排除」と定式化しなおされている。<父の名>は「シニフィアンの場としての<他者>における法の場としての<他者>のシニフィアン」と定義され、<他者>そのものと区別されている。本論文が執筆された直後、年明け一発目の講義もまさに「<父の名>の排除」と題されており(ミレールによる)、<父の名>が「<他者>のなかの<他者>」「<他者>の内部にある本質的なシニフィアン」と定義されているのが確認できる。

 

 分析家たちの誤りは幻覚を現実的知覚のレベルでとらえ、精神病の主体にあっては自我が現実世界にないものを知覚していると考えていることである。これは[自我による]投影という機制を退けたフロイト以前への後退である。ラカンによれば、幻覚を「聴覚的な」ものとみなすことは誤りであり、問題になっているのはシニフィアンの聴取としての「聞く行為(acte d’ouïr)」である。じぶんが話すのを聞くという聴覚的な事実は、「主体のじぶんじしんのパロールに対する関係」すなわち両者の分裂を覆い隠す。

 

 『精神病』における所論が、開講中の『無意識の形成物』において導入された「欲望のグラフ」上に位置づけ直される。シュレーバーにおいては「基本語」が「コード」である(ただし誰とも共有されることのない「妄想のコード」である)。「コード」を通過したディスクールの線がふたたびシニフィアン連鎖と交わることなく「メッセージ」が完成されないのが「中断された文」である。「豚肉屋」の例がふたたび引かれ、転換子(shifter)概念が援用される。

 

 『精神病』で言及されなかったくだりをもふくめ、シュレーバー『回想録』の数多くの細部が該当頁数つきで参照される。アイダ・マカルピンによる『回想録』の解説付き英訳書へのおしみない讃辞が捧げられると同時にその所論の限界が指摘される。マカルピンシュレーバーのケースをとおして同性愛的欲動の制圧というクリシェの無効性を立証している。同性愛はパラノイアの病因ではなくぎゃくにパラノイアの症状の一部である。とはいえマカルピンは、フロイトシュレーバーの「同性愛」のうちに「他性」つまり妄想性「転移」の現れをみてとっていたことを見逃し、妊娠幻想を心気症に帰している。つまりエディプス複合の関与を無視している。

 

 本論文はトポロジー的な問題意識が明確にされた最初のテクストである。L図とその変形であるR図が提示される。すでにトポロジー的探究にのりだしていた1966年の注ではR図の台形(現実界)がメビウスの環をなすと注がある。じっさいに切れ目を入れて捻り、環を結ばせた状態がI図で示される。図を眺めているかぎりではよくわからないが、二つの三角形(想像界および象徴界)が同じ一つの穴をなしているらしい。「欲望のグラフ」の練り上げに着手した同時期の『無意識の形成物』においてもトポロジー的関心が何度も口にされる。セミネールのタイトルじたい『無意識のトポロジー』としてもよかったと述べられているくらいである。本論文では「グラフ」のトポロジーが並行論(心的現象の大脳皮質への局所化)とは別の次元にあるとされている。

 

 「ファルス中心主義」が確認され、『対象関係』における父性隠喩の公式が提示される。本論文を要約する一節。「狂気のドラマを認めようとするとき理性が活躍する。というのはこのドラマが位置するのはシニフィアンにたいする人間の関係においてであるからだ」。