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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

シニフィアンの全般的経済論へ:セミネール第5巻『無意識の形成物』第1講〜第7講

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 フロイトによれば機知は「滑稽」とはちがい、話し手と聞き手以外の第三者を必要とする。ラカン的<他者>はこの第三者に送り返される。<他者>とは「シニフィアンのさまざまな用法の束」(「シニフィアンの宝庫」とも言い換えられる)すなわち「コード」である。欲望のグラフの祖型が導入され、「シニフィアンの連鎖」と「合理的なディスクール」の交点に「コード」と「メッセージ」(ないし「意味」)が位置づけられる。機知という「メッセージ」は「コード」に違反している。機知において「メッセージはコードとの差異のうちにある」。機知というシニフィアン的生産物をコードのうちに位置づけるのが<他者>である。<他者>による認定(sanction)なしに機知は存在しない(そのばあい、たんなる言い間違い、言葉の誤用でしかない)。機知の「本質」(『機知』書でフロイトが探究していたのはまさにそれであった)は、「真理の不在証明の次元」と関係がある。「文字の審級」論文において、「真理の不在証明」とは主体(コギト)における「思考」と「存在」のズレのこととされていた。機知において問題になるのは「コード」と「メッセージ」のズレ(「心的二重視 diplopie mentale 」)である。いわく、「機知は、別の場所を眺める(regarder)ことによってしか見えない(voir)ものを指し示す。ただし、あいかわらずズレた所に(à côté)」。機知は「コード」をはみだす「シニフィアンの全般的経済」(バタイユ的ないみにおける économie générale)に照らしてはじめて理解し得る生産物である。

 

 『機知』書の<<famillionnaire>>が導きの糸となる。機知は「技法」として存り(manière d’être)、機知の生産物は言語というかたちで「存在」する(manière d’être)。familionnaire という人物は幽霊のような「言語上のいきもの」(être verbal)なのであり(“シニフィアンの物質性”!)、これをラカンは『鎖を離れたプロメテウス』の主人公である金満家(Miglionnaire)へと送り返す。すぐれて「無償の行為」を為すひとであるこの人物は、金銭のもつ「純粋なシニフィアン」という一面、その「絶対的権能」に同一化しており、「いっさいの“意味のある”交換を問いに付す」。ところで<< familial >> という語は、家族が主体とのあいだに結んでいた複雑なディスクールの布置のなかから政治的事象として抽出され得るようになってはじめて生まれた言葉である(『リトレ』)。これを以てラカンはハイネの機知が歴史的に文脈づけられていることを暗示する。

 「言うことの現在[プレゼント] 」(le présent du dire)という機知の一面を例証するものとして、ジュディット・ミレールにパテントがあるらしい「At!」なる事例が引かれる。ラカンは「コードの侵犯」という事実ゆえにこれが「機知」だと言い張っている(みずから認定者としての<他者>を演じようとする親バカぶり)。

 「簡潔さが機知の“魂”であるとすれば、饒舌さは機知の“身体にして装身具”である」。「At!」が前者の、そしてレイモン・クノーラカンに語った機知(”Arrière, cocotte!”)が後者の典型ということになる。この事例における馬というシニフィアンの「恐怖症的」価値をラカンはハンス症例に送り返す。

 <<famillionnaire>>は圧縮にもとづく隠喩的な機知であるのにたいし、換喩的な機知の事例として同じ『機知』書から「金の子牛」が引かれる。この事例をフロイトが「分析不可能」としているのをいいことに、ラカンのコメントは悪ふざけの極みである。この事例における偶像崇拝という主題は、想像界象徴界による「置き換え」に関わっているがゆえに隠喩に関係している。偶像崇拝という「想像的退行」は“フェティシズム”に帰される。しかるにフェティシズムは換喩である……。ラカンは換喩と隠喩の連動性を説明したがっているようだ。換喩は隠喩の条件であるとされる。「換喩がなければ隠喩もない」。『ベラミ』が引かれ、意味のたえざる横滑りによって意味への到達をひつようとしない換喩の構造が確認される。現実を描写しようとするディスクールが当の現実にもたらす破壊的 désorganisant で裏目の pervers 効果ゆえに「文学的なリアリズムは存在しない」。

 <<Signorelli>>の度忘れのコメントも、悪名高い独自の隠喩/換喩概念の濫用ゆえにわかりづらい。『精神病』の回で確認しておいたように、ヤコブソンが換喩に帰した「置き換え」(substitution)をラカンが隠喩の機能に振り当てているのが混乱のはじまりだ(その代わりに換喩には「結合」combinaison が割り振られる)。とりあえずこの事例には<<famillionnaire>>のような意味の産出はないので換喩が関係しているわけだが、ラカンは Signor の Herr への「置き換え」を指摘し、そこに「隠喩」の働きを見てとっている。とはいえ、「置き換えが隠喩というわけではない」とすぐさま前言が翻される。つづけて「どうように、換喩と結合も別々のことがらである」とされ、「こうした区別がないといわゆるランガージュの濫用が生じてしまうので、この際はっきり言っておく」とくる。ラカンの隠喩-換喩概念を文字どおりにとろうとすると、『ラカン読解入門』におけるジョエル・ドールのような醜態を演じるはめになる。アラン・コストの『ラカン言語学的錯綜』(PUF)はもっぱらこの対概念を標的にしている。

 フロイトは機知について「無意味のなかの意味」という言い方をしているが、ラカンは「無意味」という曖昧な言葉遣いを厳密化しようとする。ラカンによれば、換喩は「脱-意味(dé-sens)」もしくは「意味のわずかさ(peu-de-sens)」によってシニフィアンを意味論的に平準化し、代わりに「価値」の次元を導入する。「鏡像段階論の先駆者」たるマルクスは、『資本論』の価値形態論のパートにおいて、服と布地がその「意味」を捨象して「等価」としている。「欲求の二つの対象を、一方が他方の価値の尺度となるようにすることで、欲求の次元にあるものが対象から消去され、この事実によって対象は価値の次元に引き入れられる」(ラカン)。一方、隠喩は欲求の対象を別のものに置き換えることで「意味の隘路=意味のなさ(pas de sens)」を導入する(たとえば<<famillionnaire>> といった“ナンセンス”な造語)。

 

 「欲求」「要求」「欲望」の弁証法的関係が導入されたのは本セミネールにおいてである。要求とは欲求がシニフィアンによって伝えられたものである。シニフィアンは欲求の認可者としての<他者>を宛先とする(ドン・ジュアンは「人類愛ゆえ」と断ったうえで乞食に施しをあたえる)。要求に内在するメカニズムゆえに<他者>は欲求の全面的な満足に逆らう。その例として『機知』書の「マヨネーズをかけた鮭」が引かれる。フロイトはこの機知のポイントを「アクセントの置き換え(Verschiebung)」のうちにみているが、ラカンはあらゆる機知は一般化不可能なその特殊性をつうじて「シニフィアンと欲望の関係」を問題にしているとし、この例のうちに「欲望はシニフィアンという通路を経由することによってアクセントを大きく変更され、転覆され(subverti)、曖昧になる」ことを読みとっている。「欲望は要求が象徴的な次元へと導く欲求の想像的な方向性とのズレによって定義される」。

 

 「客観化(対象化)可能性」を重視する風潮に抗い、主体性こそが問われねばならないとされる。主体性はシニフィアンの連鎖の導入する異質性(hétérogénéité)によって定義される。それと同時に「間主観性」という術語にはじめて留保が置かれる。動物間の関係において内部適合がはたらくのとはちがって、シニフィアンの連鎖を介しての二主体の関係においては欲望という「残余」が残る。それが「真理の場」としてのもうひとつの主体性を要請する。主体の誠実さは主体の「意図」によってではなく<他者>によって保障される。<他者>とは「象徴的な場所」であり、「シニフィアンの宝庫」である。それは『機知』書の「赤い糸」(der rote Fadian)の事例が前提している「文化的文脈」のごときものである。ぎゃくにいえば、<他者>はこれこれの「教区」(ベルクソン)に属しており、機知は本質的にローカルなものである。

 機知とは「スペインの宿屋(auberge espagnol)」のようなものである。<他者>という空の「器ないし聖杯」に注ぐべき「パロールのワイン」を自前で調達しなければならないから。この「ワイン」によって「意味のわずかさ」[隠喩]と「意味の隘路」[換喩]の「聖体拝領」が施される。空の器としての<他者>とはひとつの「型」(forme)であり、それは欲望を「満たす」のではなく、「制止」(inhibition)というかたちでその捌け口をつくりだす。

 「<他者>は機知において欲望の解消不可能性(insolubilité)が開く裂け目を補完する(compléter)」もしくは「満たす(combler)」。「機知は本質的に満足されることのない要求にたいして、驚きと快――驚きの快、快の驚き――というかたちで享楽を返す(restituer)」。無意識の形成物は「驚き」をもたらすとフロイトはくりかえし述べている。ラカンによれば機知はすぐれて「予期せぬ出来事」「未曾有のメッセージ」「言表行為のスキャンダル」として到来する。驚き(不意打ち)という主題については『対象関係』の回ですでに触れた。

 

 笑いは想像的なもの、すなわちイメージと密接な関係がある(鏡像段階にある乳児の笑いには言及されない)。もったいぶった人物が道で転ぶとき、そのイメージと実体の分離(de の二重のいみあいにおける << libération de l’image >>)が笑いを誘う。生命現象における機械的なものの出現に笑いの源泉をみてとるベルクソンは、[機械的な]反復が生命の本質に属していないという[非フロイト的な]前提において誤っている。

  機知と滑稽の区別が明確化される。機知は要求が<他者>によって部分的に却下されることを前提している。これを避けるには<他者>をじぶんだけのものにしてしまえばよい。これが「愛」である(「じぶんがもっていないものをあたえる」につづく新たな愛の定義)。「滑稽なものの中心には<他者>と愛の関係がある」。滑稽なものを理解するために「喜劇」が援用される。「喜劇の起源は ça の言語への関係と密接に結びついている」。ça とはランガージュのネットワークに取り込まれる“以前の”原初的欲求のことではなく、ランガージュのネットワークを突き抜けたところにあると想定されるかぎりでの(実現不可能な)欲求の実現のことである。喜劇の起源である饗宴およびアリストファネスの「旧喜劇」においてはこうした「もっとも基本的な(élémentaire)享楽」への“回帰”が目指され、いわば言語以前のありとあらゆる[性的]欲求が前景化している。メナンドロス以後の「新喜劇」においては、「愛」がその[性的]欲求にとって代わる。その頂点をなす『女房学校』においては、愛が ça の「換喩的対象」の追求であることが見事に示される。「愛は滑稽な感情である」。ところがロマン派に至って愛は笑うべき感情ではなくなる。