lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

再配達された手紙:「無意識における文字の審級 あるいはフロイト以後の理性」

*「無意識における文字の審級 あるいはフロイト以後の理性」(L'instance de la lettre dans l'inconscient ou la raison depuis Freud, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 先行する二つの論文どうよう、哲学研究者向けの講演を基にした論文であるのは偶々か?1968年版で若干の改稿がある。

 主要なトピックをなすフロイト的構造言語学、隠喩と換喩のメカニズム、コギト解釈は、それぞれ「ローマ講演」、『精神病』(および『対象関係』)、セミネール2巻のヴァージョンアップ版。「ローマ講演」以来の成果に一段落つけようとした論文という性格がつよく、本質的な新機軸はない。

 主なキーワードである「文字」とはまずフロイトの記したテクストのことであり(ラカンはそれを文字どおりに << à la lettre>> 読まねばならないと強調している)、再配達されてきた「盗まれた手紙」である。

 とりあえず文字はその「物質性」によって定義される。いわく「文字は具体的なディスクールがランガージュから借り入れる物質的な support[支持体、媒体] である」。さらに、この定義は「ランガージュは語る主体における身体的・心理的機能とは区別されることを前提する」とつづく。つまりナンシーとラクー=ラバルトがコメントするごとく、この「物質性」は、言語の起源を意味の観念性のうちにも身体的な実体性へも帰すことの拒否ということにアクセントがある。

 『盗まれた手紙』論においてはくだんの手紙[lettre]が純粋なシニフィアンとされ、「シニフィアンの物質性」が言われていた(さらに遡れば「ローマ講演」においてはパロールが「繊細な身体(corps subtil)」と形容されていた)。いわく「シニフィアンは死の審級を物質化する」。そしてそれは「さまざまな点で特異な物質性」である。実体性なき物質性という性質はその「特異」さのひとつに挙げられようが、これはソシュールに拠っている。ソシュールシニフィアンを聴覚的イメージと同一視しつつ、これが物理的な音響ではなく精神に刻まれた印象であるとしている。ソシュールにおいてはシニフィアンシニフィエの不可分性が強調される。たいしてラカンにおいては両者は結びつかず、シニフィアン相互の連鎖が強調される。シニフィアンは関係性において作用するのであるから、音素は非実体性である。それをあえて「物質性」と規定するのはあるいみで逆説的である。

 さらに文字はその“場所性”によっても定義されている。いわく文字とは「シニフィアンの局在化された構造」である。『盗まれた手紙』論においてはくだんの lettre が「場所とさまざまな関係」をもつとされ、さらにその諸関係はやはり「特異(odd)」 なものであるとされている。うえの定義を含む一文をそのまま引こう。「それゆえパロールそれじたいにおける本質的な一要素が、ディド体なりガラモン体なりで活字箱のなかで印刷される活字に流し込まれるべく運命づけられているのであり、これらの活字が文字とわれわれの呼ぶもの、すなわちシニフィアンの本質的に局在化された構造を現前化させるのだ」(Ecrits, p.501)。とりあえず物質性といい局在性というのは印刷されたものというイメージか。もしくは「盗まれた手紙」のように手書きされたもの(『盗まれた手紙』論においてシニフィアンの物質性の「特異」さの筆頭として挙げられているのは、分割不可能性である。手紙は破くことができるが、シニフィアンは破壊されることがない)。ソシュールシニフィアンの物質性を聴覚的にイメージしているとすれば、その局在性によって際立つ文字の物質性はむしろ視覚的なものなのか?「物質性」は「素材性」でもあるが、これより先のくだりには、夢において「意味する素材」(le matériel signifiant)に課される条件としての Rücksicht auf Darstellung というメカニズムへの言及があり、ラカンはこれを形象化(figuration)と解するのは曖昧であり、「演出(舞台化)の手段への配慮」と訳すべきだとしている。つまり視覚的な側面を強調しているわけであろうか?

 同じく本文で引かれている「文字は殺し、霊は生かす」という新約の一節もラカン的「文字」の理解の手がかりをあたえてくれそうだ。mot d’esprit (「語」と「精神」の結びつき)への言及につづいて引かれるこの一節について、ラカンは「人間において真理の諸効果を生み出す」文字なくしていかにして精神は生きるのかと問いかけている。ここで文字は聖書のそれを暗示している。この一節はまた先に引いた「シニフィアンは死の審級を物質化する」をも想起させる。ここで文字と霊の対立が退けられていることは文字の「物質性」の理解になにがしかのヒントとなろう。

 そして lettre は l’être の語呂合わせでもあるだろう。三部構成の本論文のさいごのパートのタイトルは、<< La lettre, l’être, l’autre >>である。「存在」は本論文のキーワードのひとつである。つぎのような一節がある。「神経症は存在が主体の代わりに(pour。ついで à la place de とも言い換えられる)問う問いである」。そしてこの問いは「主体がこの世に到来する以前に存在がいた場所から」(フロイト先生がハンスにくだしたれいのお告げの文句)問われるのだとされる。これは存在は主体「を使って」(avec)問うのだとも言い換えられる(ひとは魂「を使って」考えるとしたアリストテレスをふまえている)。「存在」と「主体」のズレは、コギトにおける「思考」と「存在」の乖離においても確認される(コギト命題は「私は私が存在しないところで考える、ゆえに私は私が考えないところに存在する」というお得意のキアスム的警句に翻訳される)。そう考えるとあらためて引かれることになる <<Kern unseres Wesen >>というフレーズの含蓄がわかってくる。さらに隠喩が「存在欠如」として再定義される(たいして換喩は「存在」である)。なによりもラカンが同時期にハイデガーの『ロゴス』を翻訳していることが忘れられてはならない(タイトルに含まれている「理性」という言葉は本文では「狂気」の別名として言及され、それが「ロゴス」へと送り返されている)。

 いまひとつのキーワードは sens であろうか。本論文の第一部は <<le sens de la lettre >>と題されている。すでに sens は「フロイトの sens への回帰」というれいの殺し文句において問題にされていた。とりあえず、sens に「方向」といういみあいが含意されていることはどんなバカにでも見当がつくが、本論文において重要なのは隠喩の再定義であろう。いわく「隠喩は sens が non-sens において[へと]生産されるまさにその点に位置している」。この一節はすでに引いた「文字は殺し……」についての議論の直前にある。

 そして「真理」という語があいかわらず湯水のように垂れ流される。「この欲望[un désir mort]が主体の歴史においてそれであったところのものの真理を主体はその症状によって叫ぶ。イスラエルの子等がおのれの声を委ねることなくば石そのものが叫ぶだろうとキリストが言ったごとくに」。「ひとは現実界には慣れてしまう。真理については、ひとはこれを抑圧する」。「ランガージュのあらわれ(apparition)とともに真理の次元が浮かび上がる(émerger)」……

 「文字」というキーワードに戻るならば、これはラカンじしんの「書きもの」(écrit)のことでもあろう。『エクリ』英訳者フィンクは、論文冒頭でラカンがその“難解さ”を難産になぞらえて正当化していることを見事に読み解いている(人文書院刊『「エクリ」を読む』)。