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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ハンス、あるいは存在の自己忘却:セミネール第4巻『対象関係』

*『対象関係』(Le Séminaire Livre IV : La relation d'objet, Seuil, 1994)

 

 カール・アブラハム以来の発達段階論において掲げられ、当時なお幅を効かせていた“理想的対象”という観念が退けられ、フロイトにおいて「対象」は喪失され、再発見されるべきものであるかぎりで問題になることが確認される。対象の欠如には「フラストレーション」、「剥奪」、「去勢」の三つの様態があるとされ、そのそれぞれが想像界象徴界現実界相互の関係のうちに位置づけられる(ジョエル・ドール『ラカン読解入門』に紹介されているジャン・ウーリーの考案になるというダヴィデの星のダイアグラムの参照は不可欠だ)。「フラストレーション」はラカンにおいては過渡的な概念にとどまるが、フロイトの Versagung 概念の流用であり、当時の業界内では去勢概念を押し退けて前景化していた。

 

 欠如した対象とは端的にファルスである(ファルスは不在という形で所有するということがあり得る)。ラカンは構造人類学における「贈与」の象徴性によってファルスの機能を定義し(「ファルスの幻想は、性器的なレベルにおいて、贈与の象徴性の内部において価値をもつ」)、フロイトの二つの症例(「若い同性愛者」およびドラ)においてそれを例示する。フロイト神経症と倒錯がポジとネガの関係にあるとしているが、ラカンによれば、この二つの症例はまさにこの関係を典型的に示している。

 

 「同性愛者」においては父が母に「現実的子供」を授けたのを機に、かのじょがその「想像的子供」を授かることを欲していた「象徴的父」が「想像的父」のポジションに退行し、かのじょはこの「想像的父」に同一化して、ファルスをもたない者としての「婦人」を愛する(「愛とはじぶんがもっていないことをあたえることである」)。フロイトは患者の倒錯を父への当てつけとみなしているが、ラカンによればうえのようないみで患者の「婦人」にたいする情熱は真摯なものである。

 一方、ドラにおいては父が不能であり、あたえるべきファルスをもたない。ドラは父があたえてくれないものゆえに父をあいしている。しかるに父はK夫人をあいしている。K夫人は女性の謎を体現するなにものか(それが何であるかをドラは知らない)を所有している。それゆえドラはK夫人において父があいしているこのなにものかゆえにじぶんが父にあいされたいとおもう。ドラがK氏の求愛を受け入れるのは、K夫人をあいするK氏がそのおなじ理由によってドラをあいするかぎりにおいてである。そのかぎりでK夫人が所有しているものをドラも所有しており、じぶんが父にあいされ得ることになるからである。

 

 二つの症例において「まったく同じ」関係で結ばれた四人の人物が「L図」上に配置される。「同性愛者」は当初じしんの「想像的ペニス」に同一化して父の「現実的な子供」を授かろうとするが、父が「現実的な子供」を母親に授けるという出来事ゆえに、「想像的父」に同一化して「現実的貴婦人」に宮廷風の愛(「非-満足を目指す愛」)を捧げるに至る。

 「同性愛者」の「婦人」にたいする熱愛は、真の愛がどういうものであるかを父親に見せつけるためである。そのかぎりでかのじょの同性愛は「行間に」言葉の字面とは別のメッセージを「暗示」している。このいみで倒錯は「換喩」である。あるシニフィアンが別のシニフィアンに結びつけられ、それを代理している。対してドラはひとつのシニフィエ(女の謎)と複数のシニフィアンを結びつけているかぎりで「隠喩」を事とする(「K氏はドラの隠喩である」「症状は隠喩である」)。

 

 「対象において愛されるものは対象に欠如するものである」および「ひとはもっていないものしかあたえることができない」という二つのテーゼから、典型的な倒錯としてのフェティシズムへと話題が繋げられる。フェティシズムにおいては「ヴェール」の向こうに対象を越えた次元が創出される。「ヴェールの上に不在が描かれる」かぎりで、ヴェールは「愛の基本状況の最良のイメージ」である。フェティシズムにおいては象徴的なドラマが想像的な「舞台装置」において演じられるのだ。ちなみに服装倒錯における衣服は“覆い”ではなく“包み”(遮断、保護)であるかぎりでフェティシズムと区別される。露出症も象徴的な次元が想像的な次元に退行するかぎりでフェティシズムとパラレルである。そもそも衣服は「もっていないものを隠す」機能をももつ。

 倒錯は生来的な欲動に由来するものでエディプス複合は関与していないという見解にラカンは与しない。プログラム化という観点を退けあらゆるプロセスをを間主観性弁証法に帰すのがセミネールぜんたいを通じてのラカンの一貫した立場である。ラカンによれば去勢は人間という類( genre )に固有の機制であるが、このばあいの「類」とは生物学的な「種」( espèce )とは厳密に区別されなければならない。

 

 セミネール後半はハンス症例の詳細な「構造分析」にあてられる。ハンスにとっての問題は父の欠損(carence)、つまり現実的な父(マックス・グラフ)が去勢者としての象徴的な父の役割を担い得ていないことだ(このあたりの目的論的な立論は否定しようもないが……)。恐怖症はこの事態が生み出す「不安」にたいする“防衛”である。ハンスの発病のきっかけは自慰の開始にともなう「現実的なペニス」の介入である。「馬のような」ペニスにはおよびもつかないじぶんのペニスの非力さへの自覚が、それにたいする母親の侮蔑の言葉(「汚い」)を事後的に賦活したのだ。

 ハンスはその「個人的神話」における紋章学の一要素である馬という「トーテム」(シニフィアン)にありとあらゆる意味作用を経巡らせつつ(不安の対象をつきとめるべくあらゆるものがこのシニフィアンシニフィエとして召喚されるわけである)一連の幻想ないし夢として「結晶」させていき(「リメイク」)、去勢(性交)という状況を“神話的に”表象するに至る(神話とは、ある袋小路の状況にたいし解決を構築する試みと定義される)。最終的には神なきハンスにとって文字どおりの deus ex machina である工事夫という人物像に去勢を一部委託させ、かくて症状は消滅し、「めでたしめでたし」(フロイト)となる。ラカンは<フラストレーション+退行+攻撃性>という三点セットがこの症例において不在であることを指摘し、発達段階論に立脚する論者らを論破する(ハンスの関心は一貫して性器にしかない。本症例におけるスカトロジー的要素は「肛門期」とは無関係である。ついでにいえば母親が穿いていないときのパンツへの嫌悪はハンスがフェティシストではないことの証左である。「父とは何か」という問いをすぐれて問う主体であるハンスは倒錯者ではなく神経症者である)。ハンスの症状は発達段階ではなく「シニフィアンの結晶の発展」にしたがって進展する。とはいえハンスは自前の想像的な素材(「道具」)のブリコラージュによる構築をもって象徴的なものに代えただけであり、ハンスの物語はハッピーエンドとはかぎらない。そもそも工事夫が「よりよいペニス」をハンスの「前面」にあたえたなどとは分析記録のどこにも書かれていない。父の欠損への不安が払拭されたとしても、父の欠損という事実の効果をかれは担いつづけなければならないだろう。ハンスは生涯、女性をじぶんの想像的な子供としてしか愛せないだろう(ハンスのドンジュアニスム、“Phallus =Girl”)。後年、フロイトと再会したハンスは分析記録がじぶんのことであると認知できなかった。「存在には想像的自我における忘却という根本的可能性がある」。セミネールを締めくくるこの一文はなにがしか悲劇的な調子を帯びる。

 馬というシニフィアンに唯一のシニフィカシオンを帰すことで「了解」してしまわぬようラカンは度重ねて警告しているが、ラカンは馬がとくに“連結”および“運動”という主題に結びついていることを強調している(二つの主題は Verkehr という観念において合流する )。前者はペニスの「取り外し可能性」という主題系として変奏されていき、後者はアリストテレス的な等速運動をはみだす「不意打ち」「驚き」の効果(ディアナの水浴を想起せよ)によって「存在と生の乖離」を明るみに出すだろう。

 さて、セミネールのコーダにはハンス症例のコウノトリがレオナルド論の「禿鷲」へと回付されるアクロバティックな大ジャンプが待っている(小羊という動物学的紋章およびアンナという人物名もこのアナロジーへ通じる小径である)。現実界の数学化という科学的トレンドに乗り損ねたレオナルドがなぜあれほどの現代的な認識をもちえたのか? レオナルドは自然という他性を想像的同一化によって接近可能なものにしたというのがラカンの見立てだ。『聖アンナ』像における現実的母(マリア)と象徴的母(アンナ)の「融合」を見よ。前後するが、ラカンはハンスにおいても超自我的な祖母の介入による「母の二重化」という事態をみてとっている。この祖母がハンスにとっての「想像的父」となる(「象徴的父」の役柄を演じるのはフロイトである。“全知”のフロイト先生はハンスにとって文字どおり神である。ハンスはわれわれが神を漠然と信じるように漠然とフロイトの存在を仰いでいる。「象徴的父」とはいかなる人もそのポジションを担い得ない審級である)。

 ラカンはレオナルドにおける「昇華」という機制を「本質的な他性に蜃気楼の関係を住まわせること」と表現している。昇華についてのラカンの見解は三年後のセミネール『精神分析の倫理』に俟たれることになるわけだが、とりあえずここでは自我心理学派による「脱リビドー化」といった理解の仕方が退けられ、倒錯がそうであるとされたように、昇華もまたファルス、要するに去勢、したがってエディプス複合に関わっているという観点が打ち出されていることを確認しておこう。

 というわけで、精神病についての前年度のセミネールにおけるファルスの優位という問題提起が、本セミネールにおいては神経症、倒錯、昇華という機制を包含するものと位置づけられ、確認される。