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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ヴァルデマール氏ふたたび:「1956年における精神分析の状況と精神分析家の養成」

*「1956年における精神分析の状況と精神分析家の養成」(Situation de la psychanalyse et formation du psychanalyste en 1956, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 初出は Etudes philosophiques 誌(第4号、1956年)。部外者にパノラマを提示するという主旨にしては内輪向けに書かれているようなフシが強い(?)。一部大幅な改稿を経て『エクリ』に収録された。

 

 精神分析の現状と分析家の養成という二つのテーマをもつ論文。これらはフロイト的経験の伝承の困難という一つのテーマに帰されるだろう。

 

 前半ではフロイト以後の精神分析の潮流と諸概念が列挙され、そのことごとくが象徴的なものを無視していることが批判される。ラカンの見立てによれば、フロイト以後の分析運動史はまず想像的なものを現実的なものと同等に格上げすることにはじまり、ついで前者を後者の規範と位置づけるに至る。

 

 しかるにフロイトが目指したのは「想像的なものを象徴の連鎖のうちに保障すること」である。「人間は生まれる前から、そして死んだあとも、象徴の連鎖の囚われである」。無意識とは要するに「象徴的なものは人間の外にある」ということをいみし、自我の自律を唱えるトレンドが槍玉に挙がる。ついでにフロイト用語がそのほんらいの意味を無視して使われている事態が「純粋なシニフィアン」と揶揄される。

 

 フロイトがみずからの思想を完全な形で維持しようと設立した国際精神分析協会(IPA)は、フロイトが「大学で精神分析を教える必要があるか」(1919年)で思い描いた精神分析教育の理想に逆行している。それどころか、フロイトが『集団心理学と自我の分析』において軍隊および教会(“治外法権”)のうちに見てとり、ファシズムを予言することにもなった構造にはまりこんでしまっている。つまり、各々の自我を共通の理想像に同一化させるという事態である。

 

 『エクリ』刊行時に最後のパートが完全に改稿されている(初出時のヴァージョンでは全体の四分の一。改稿部分は初出時の倍以上の長さに膨らんでいる)。

 

 改稿部分では<自足><小さな靴[窮屈な思い]><至福><必要なもの>といったアレゴリーを用いてIPAの分析家養成制度が皮肉られている。<自足>は精神分析の階級制度における「唯一の階級」とされ、ほかの階級がないので精神分析の世界では民主主義が保たれているとされるが、いうまでもなくこのばあいの民主主義とは古代のポリスにおけるそれとどうよう、あくまで「主人」だけのそれである。この団体が自我心理学の土壌となったことは偶然ではない。

 

 どうやら<自足>とはIPAのメンバー、<きつい靴>とは外郭団体のメンバーを指すものであるようだ。<至福>とはIPA公認の分析家の栄誉にあずかる志願者であり、<必要なもの>とは教育分析を担当する分析家であるらしい。IPAの制度において四者の関係は、カントが『純粋理性批判』で使い、フロイトシュレーバー症例で引用した比喩における、別の男が搾る山羊の乳を篩で受けようとする男のように複雑怪奇な配置をなしており、とうぜんながらIPAの分析家教育において「真理」(カントがくだんの比喩を使ったとき問題になっていたもの)は篩からことごとくこぼれ落ちている。

 

 周知のとおり、この三年前にSPFを立ち上げたラカンIPAの公認を得ようと画策するも、IPAラカン(およびドルト)の教育分析家としての資格を認めなかった。SPPとSPFの分裂の背景には、非医師に教育分析を委ねるか否かという論争があった。ラカンによれば、非医師に教育分析の資格を認めないIPAの教育は医学教育の二番煎じに堕し、およそ実践的ならざる「フィクションのネタ」を提供するだけ終わっている。また、<自足>は口(parole)を挟まないことを旨とするので、「文盲」[非医師]であっても黙っていれば非合法的に<自足>の座にありつくこともできる。

 

 フロイトの立ち上げた協会はいわば「ヴァルドマール氏」のように死後の生を生き、[プラトンの]エロスのように腐敗に至るまでのつかの間の享楽を満喫しているだけである。師フロイトパロールを甦らせることがこの協会を安らかに眠らせることになる(この論文はフロイト生誕百年目に書かれている)。

 

 1966年版のこのような結論は初校ヴァージョンのそれに忠実である。いわく、「分析の共同体がフロイトの inspiration[ひらめき、影響力、息]が散逸するのをさらに許容するにつれて、フロイトの学説の文字(lettre)いがいの何がそれをひとつの corps のうちに保持しつづけることができるというのか」。

 

 ラカンは動物の心理と人間の心理の不連続性を唱えているという「誤解」が蔓延しているとの一節あり。晩年のデリダもこの一節を引いていた。